ナィールに起きた悲劇(前編)
「あぁん?何と言ったんだ、イミルグラン?もう一度言ってくれないか?」
王に明日からの一週間の休暇を告げられて、今日は無理矢理、午後半休を取らされたシーノン公爵は、帰宅後すぐに今朝執事に予め頼んで呼び出してもらっていた顧問弁護士を自分の応接室に通すようにと命じていた。顔の中央に切り傷のある、胡散臭い男を顧問弁護士に雇った雇用主のシーノン公爵は自分の乳兄弟であり親友でもある、その顧問弁護士の頼みにもう一度真剣な表情で彼に打ち明けた言葉を繰り返した。
「私の可愛いイヴリンは……、天才で天使かもしれない!」
「ブッ!」
真っ昼間だというのに重厚なカーテンが引かれた、シーノン公爵の応接室のソファに座っていた顧問弁護士の男は、思わず紅茶を吹きこぼした。
(重大な用件だというので慌てて来てみれば……何だこいつ!親馬鹿がすぎる!)
……と手布で顔を拭いながら顧問弁護士は、安定の眉間に皺が標準装備となっている、氷の公爵様を恨めしそうに見た。執事は素早く近づき、無言でテーブルを拭き、また部屋の隅に戻っていった。シーノン公爵は恨めしげな顧問弁護士の視線に親馬鹿ではなく、これは本当の事なのだと言い切り、昨夜の娘の告白の話を話し始めた。
シーノン公爵は雇用主の秘密を外では漏らさない彼等のどちらの職業も信じていたのと、執事は自分の幼少期からの世話係、顧問弁護士は自分の幼少期からの乳兄弟としての長年の付き合いにより、二人自身をとても信頼していたので、大事な相談をしたいときには、いつもこの二人に真っ先に話をするのが彼の常であったのだ。
「へぇ~、片頭痛……。上手いこと言うな、イヴリンちゃん。確かに頭の半分だけがよく痛むって、イミルグランも子どものころから、よく不思議がっていたものなぁ……。そうだったのか、お前の頭の気のせいと同じ気のせいをイヴリンちゃんは抱えていたんだな」
「ああ、そうだったんだよ。私と同じ気のせいをイヴリンも……」
執事が入れ直してくれた紅茶を飲みながら、顧問弁護士は落ち込んでいる表情のシーノン公爵を見てから、部屋に視線を移し、薄暗い部屋に目をやった。シーノン公爵は城でもカーテンを必ず閉めて仕事をするので、何か腹黒い謀略でもめぐらせているのではないかと、シーノン公爵をよく知らない者はそう言って陰口を言っていることを顧問弁護士は噂で知っていた。
(噂を聞いたときは、こんな真面目で仕事中毒な男がそんなことするわけがあるかと呆れたが……、そうか、この真っ昼間に部屋をカーテンで薄暗く締め切っているから誤解されたんだな。こいつは子どもの頃から、眩しい太陽の光が頭の痛みの気のせいが増すからと言って避けていたが……、イヴリンちゃんも同じとなると、これは気のせいではなくて、イヴリンちゃんの言っているように、本当に病気なのではないだろうか?)
と、昔のことを思い出した顧問弁護士は、親子揃って頭が痛くなる気のせいになるとは何と不憫なことかと二人を気の毒に思った。その事に気づかずシーノン公爵は、さらにまくしたてた。
「そうなんだ!私の可愛いイヴリンは毎日、屋敷の蔵書を沢山読んでいて、とてもお利口さんだし、4つの年の割に大人のような言葉を話すなぁとは思っていたのだが、長年の私の悩みの頭痛が病気だと、はっきり言い切ったんだ!私の娘は天才だった!!……どうしよう、私の可愛いイヴリンは本当に天使かもしれない!天国から神様が連れ戻しにきたら、私はどうしたらいいんだ!?」
「……落ち着け!眉間の皺がさらに怖いことになってるぞ!お前は本当に見た目と中身が真逆な男だな!ハァ~、あのな、イミルグラン。イヴリンちゃんの顔を思い浮かべて見ろよ!あの奥方そっくりの顔に、お前と同じ銀髪青い目だろう?大丈夫、どれだけ可愛くても天才でもイヴリンちゃんは天使じゃない!心配しなくてもイヴリンちゃんは完全に二人の子だから安心しろ!お前は出産にも立ち会って、へその緒を切ったんだろ?俺もあのとき、屋敷にいたから俺やセデス達が証人だ!」
「ああ、妻は命がけでイヴリンを産んでくれたんだ!あの可愛い私の天使を!!彼女には感謝している!お前にも感謝しているぞ!お前はイヴリンの名付け親だ!可愛い娘にピッタリの良い名前をつけてくれた!ああ、でも、どうしよう!?イヴリンは天使じゃなくても、天才過ぎる良い子じゃないか?この国どころか世界中の医学界に激震が起こるぞ!!あの子が天才過ぎるって、学者達に研究材料にされてしまうかもしれん!」
「おいっ、落ち着けって!問題はそこじゃないんだろう?本題をさっさと言え!」
顧問弁護士が話を本筋に戻すように促すとシーノン公爵は、さらに眉間に皺を深めた。
「ああ、イヴリンは私に公爵令嬢辞退届けを渡して、自分を修道院に入れろと言うんだ……。自分は頭痛で貴族の生活が送れないから貴族にならないと言うんだ。だからお前だ!私は弁護士のお前に頼みがある!」
その後のシーノン公爵の話を、顧問弁護士は黙って聞いた。彼が話し終えるまで一言も喋らずにいて、シーノン公爵の話が終わると顧問弁護士は尋ねた。
「……イミルグラン、お前は本当にそれでいいのか?」
シーノン公爵は全てを話し終えると眉間の皺を指で伸ばしながら、顧問弁護士に向かって、不器用な微笑みを見せた。
「何、私の後を継ぎたい者は山ほどいる。公爵の貴族位を継ぐ者の代わりなどいくらでもいるが、イヴリンの父親は私一人なんだ!代わりの父親など、いてたまるものか!お前にはいつも迷惑ばかりかけるが、よろしく頼むよ、ナィール」
顧問弁護士を名前で呼んだシーノン公爵に、弁護士は頭を掻きながらため息をついて了承した。
「ハァ~。……仕方ないからやってやるけど、その名前で俺を呼ぶな、イミルグラン。俺はその名前は捨てたんだ」
「わかった。では、よろしく頼むよ、カロン弁護士」
「イミルグラン、もしかしてお前は気付いて……?」
「?ん、どうした?」
「……いや、何でもない、イミルグラン。俺に任せとけって言いたかっただけだ。一旦俺の事務所に戻って関係書類を取ってくるよ。お前も資料をセデス達に用意させておけ」
そう言って、いくつかの指示をした後、カロンはソファから立ち上がって部屋を出て行った。カロンはシーノン公爵邸から馬車に乗って、事務所に行く前に王宮が見える丘に寄るように馭者に命じた。馬車に揺られながら、カロンは外していた仮面を付けるために鞄から取り出したまま、まだつけずにいた。カロンは、あの時……、シーノン公爵に本当に尋ねたかったことを呟いた。
「イミルグラン、お前……俺の真意に気づいたのか?俺がお前を……」
(俺がお前を……暗殺しようと企んでいたのを、お前は気づいていたのか、イミルグラン?イミルグラン、お前は……、この傷が誰に付けられたものなのか気づいているんだろうか?
……いや、あいつは屋敷の外の人間達には、氷の公爵様と陰で呼ばれているほど見た目冷酷で、気難しい腹黒の美貌の公爵様だと一部の人間には思われているが、本当のあいつは子どもの頃から、常時何となく体の不調があり、それ故に顔が常時こわばっているだけで、貴族には不向きな腹芸も出来ない……ちょっと中身残念な、真面目なだけの親馬鹿な中年男だ。
俺が……唯一心を許せる、不器用で生真面目な俺の乳兄弟で、俺の自慢の親友。俺がこの傷を負ったとき、あいつは公爵家の私兵まで使って犯人を突き止めようとしてくれたし、俺が殺そうとしているのがわかっていたなら、率直に真っ向から理由を尋ねるはずだ。ホントあいつは、昔から腹芸が出来ないヤツだったからな……)
丘について馬車を降りて、2時間後にまたここに来てくれと馭者に命じて、カロンは一人で残った。ここからは王宮の赤い屋根がよく見える。前王がルビーを好んでいたために作らせた、血のように赤い王宮。白亜のシーノン公爵邸のような清廉さはなく、薄気味悪いと民には陰で不評を買っている、あの城でカロンは……、ナィールは……、
前王の息子……カロン王の双子の兄として生まれた。……という事実を知ったのは、ナィールが15才の時だった。