彼女達の汗疹対策と彼氏達の虫対策②
※以前、書いた「6月の三者面談とその後のエイルノン達」の裏側のお話です。
ミグシスはピュアの相談を受けたイヴや他の女子達が、女の子達だけの話が出来るようにと談話室から退室した後、ジェレミーにある相談をされ、そのために二人は男子寮へと向かった。二人の用事が終わった後、まだ夕食の時間までは少し時間があるから、散歩でもしようかという話になり、ミグシスは、ジェレミーと中庭の紫陽花を見に行った。ジェレミーはミグシスから手渡されていたミント精油の入った小瓶を手にし、しげしげとそれを見つめながら言った。
「……それにしてもミント精油とは、すごいものですね。あんなに少ししか入れていないのに、まだ右手が涼しく感じますよ」
「ええ、加減が難しいでしょうから、後で入浴用のお湯の量に対しての、キチンとした分量を書いた物をお渡ししますよ」
「え!分量がわからないから、男子寮で練習したのでは?」
ジェレミーにそう問われたミグシスは、ニッコリと笑顔を作った。
「ええ、そうですよ。練習です。何事にも練習は大事です。けして何だか男子寮の男子学院生達の頭の中で、俺の愛しい婚約者について、許せない妄想をされそうだなぁという気がしたから、牽制をしに行ったわけではありませんよ」
美貌の青年の笑顔を見て、ジェレミーは背筋に冷たい水を掛けられたかのようにゾクッと身震いしたがその一瞬後、ミグシスと同じような微笑みを浮かべた。
「奇遇ですね、僕もですよ。何だか良からぬ気のせいを感じてしまって、だから練習中にも係わらず、つい手が滑ってしまい、ミント精油を大量に湯船にこぼしてしまいました。今度から気をつけないといけませんよね。そうだ、今後も練習に付き合っていただけますか?その時も良からぬ気のせいで、手元が狂うかもしれませんが」
「ええ、時間が合うとき、これからも練習をしていきましょう。お互いの大事な愛しい婚約者のためにね」
ミグシスとジェレミーは、そう言って微笑み合った。色とりどりの紫陽花が咲く中、青い紫陽花の前でジェレミーは立ち止まった。
「ねぇ、ミグシスさん。僕はね、捨て子だったんですよ」
ミグシスはジェレミーの突然の言葉に驚いた。
「え?」
ジェレミーは、そのまま自身の半生を語る。
「僕はね、28年前に教会前に捨てられていた赤ん坊だったんです。10才まで教会で司教様に育てられた僕は、ある目的があって、ホワイティ公爵家に傍仕えとして潜り込んだのです。……僕が捨てられていたカゴの中に紋章付きの絹の手布が入っていたんですよ。僕の国で紋章を持てるのは貴族だけです。僕は自分が何者なのか、どういう経緯で捨てられたのかが、ずっと知りたかった。だから紋章の手掛かりが欲しくて、篤志家で教会によく来ていたホワイティ公爵のところでなら、その紋章について調べられるだろうと思ったんです」
ジェレミーの視線の先には紫陽花があったが、彼は紫陽花を見ていなかった。ジェレミーが見ているのは、過去の自分だった。自嘲気味に語るジェレミーの話をミグシスは黙って聞いていた。
「でもね、僕はそんなことよりもピュアの世話に夢中になってしまったんですよ。教会には男の子しかいなくて、僕は可愛い妹が欲しかったものですから……」
そう言ったジェレミーの顔が柔らかく緩む。切れ長の碧眼の目尻に皺が入り、薄い唇も弧を描き、ミグシスは目の前の男の美しい微笑みから、彼がピュアに対して、とても深い愛情を持っていることがよく伝わってくるようだと思った。
「天真爛漫でお転婆で好奇心旺盛で、素直で可愛くて優しい女の子に育っていくピュアを乳母のリーサさんと二人で、毎日賑やかにお世話するのが、とても楽しくて幸せで無我夢中でピュアの子育てを頑張りましたよ。5年なんて、あっという間に過ぎて、ピュアは”神様の子ども”から”公爵令嬢”になった」
ジェレミーはそこまで言ってから、フゥと短くため息をついた。ジェレミーの顔から微笑が消えていく。
「5才から始まった貴族教育は見る見るうちに、ピュアを人間から人形へと変えていきました。ピュアは心から笑うことが出来なくなっていきました……。それでもピュアは責任感のある優しい子だから不満も言わず、ホワイティ公爵家のために……、領民のために……と立派な公爵家子女になろうと努力し続けていました。ピュアは昔も今も、とても頑張り屋だったんですよ。
神様の子どもの頃のピュアは、じっとしていることが苦手で、勉強よりも庭に出て蝶を追いかけたり、木登りをしたりするのが好きだったのに、公爵令嬢になった途端、貴族子女らしくないからと家庭教師に言われてしまったピュアは、ピタリとそれを止めてしまったんです。傍で見ていて、辛かったですよ。切なそうに窓から庭を眺めているんです……。まだ5才や6才になったばかりで、遊びたい盛りの小さな子どもなのに、唇を噛みしめて一日中、行儀作法を学んでいる姿は痛々しくて見ていられなかった」
ピュアの子ども時代を語るジェレミーの声には、当時の沈痛な気持ちがにじみ出ていて、ミグシスは、その言葉を聞いているうちに、イヴの子ども時代を思いだしていた。初めて出会ったときから、素直で優しくて真面目だったイヴも、片頭痛の痛みをこらえて公爵令嬢になろうと必死だった。イヴが公爵令嬢辞退を言い出すまでミグシスは何の病気かはわからなかったが、それでもイヴの普段の様子から、何かの体の不調があるのは、よくわかっていたので、そんなに無理をしないで頑張らなくてもいいんだよと言ってあげたくてたまらなかった当時を思いだし、ジェレミーの気持ちが手に取るようにわかると、ミグシスは思った。ジェレミーは少しの間、黙ったままだったが、口にするのも忌々しい事ですが……と言い置いた後に、ピュアの婚約話について話し出した。
「そうやって無理しながらも、立派な公爵令嬢になろうと頑張り続けていたピュアに、追い打ちをかけるような悲劇が訪れました。ピュアが7才の時です。ピュアは王命により悪魔の化身のような男……我が国の王弟殿下の婚約者に選ばれてしまったのです」
微笑が消えたジェレミーの表情には、今まで見たことがないような、ハッキリとした嫌悪や憎悪の色が浮かんでいた。
「相手は我が国ネルフの悪しき王弟殿下のナーヴでした。あなたも耳にしたことはありますでしょう?とても同じ人間とは思えない程、醜悪な外見や酷い体臭だけではなく、話す言動も下品で下劣で知性の欠片もなければ、回りの人間を気遣う優しい思いやりの心も持ち合わせていない……傲慢で我が儘で卑屈で残忍な性格で、しかも……好色な上に美少女好きの変態だという、諸外国でも有名だった悪名高いナーヴです。
彼には沢山の結婚歴があって、幾人もの女性と結婚していましたが、妻になった女性は皆、結婚して、数年も経たずに変死しているから、彼はネルフの国民達に死神辺境伯、吸血鬼辺境伯……と言われて、とても恐れられていましたし、実際に後ろ暗い噂がいくつもある、恐ろしい男だったんです。ピュアは口では一度も彼の婚約者になることの不平不満は言わなかったけれど、彼を恐れ怖がっていました。彼に言葉をかけられるだけで全身が震え、彼の姿を見るだけで顔が強張り、彼に会った夜は悪夢を見て泣き叫び一晩中うなされて、僕はその度に一晩中、ピュアの背を摩ることしか出来なかった。
そんな状態が3年ほど続いて……ついにピュアの心は悲鳴を上げ、ピュアの心は自分を守るために”奇病”を発症させた。あの奇病は、ピュアの心の無言の叫びだった!それほど恐怖していたのに王命だから、ピュアの家族は王弟殿下との婚約を辞退できなかったし、ピュアも僕が差し出した手を握らず、逃げだそうとはしなかった。……だから僕は決めたんです」
「……何を決めたんですか?」
ミグシスの問いにジェレミーは一度、ミグシスを見てから女子寮の方に視線を移し、談話室のある、そこを見ながら落ち着いた声で言った。
「ねぇ、ミグシスさん。僕が……ピュアを殺そうとしてたと言ったら驚きますか?」




