6月の女の子の日のイヴとミグシス②
次の日の午前10時すぎに仮面の先生とリーナの母親が、イヴの見舞いにやってきた。イヴは厚手のガウンをミグシスに着せてもらって、自室のベッドの中で二人を出迎え、見舞いのお礼を言った。皆でしばらく談笑した後、イヴがリーナの母親と二人だけで話したいことがあると言ったので、ミグシスは仮面の先生と二人で居間へ行った。
ミグシスは仮面の先生に、カモミールティーを給仕し、好みで入れられるようにと蜂蜜と砂糖の入った小瓶を並べた。仮面の先生は、お茶の礼を述べた後、ミグシスの落ち着いた雰囲気に首をかしげた。というのも仮面の先生は、4月のイヴの女の子の日のミグシスの慌てぶりを見ているので、もしかしたら今日もミグシスを宥めなくてはいけないかもと覚悟をしていたのに、今日のミグシスは、やけにスッキリとした表情で落ち着いていて、微笑まで浮かべて機嫌が良かったから不思議に思い、その理由を尋ねた。ミグシスは照れくさそうに頭を掻き、昨日のことを簡単に説明した。
「実は俺、ずっと身分のことで悩んでいました。だって俺の母は……娼婦でしたから」
イヴとの未来のために、自分の名と姿と心を隠し、9年間を護衛のミーナとして過ごし、やっと、この4月か元の名と姿と心を隠す必要がなくなり、愛しい女性との婚約も決まり、恋が始まり……とても幸せなのに不安だったのだと、ミグシスは語り出した。
イヴの両親は今は平民だが、元は王の次に身分が高い上級貴族だった。イヴの兄様隊の者達も、騎士の子や医師の子達で皆、身元がきちんとしている者達だった。護衛のミーナとしてリン村に戻って、4、5年はリン村の少年達が、イヴをいじめてくる者ばかりだったので、ミグシスはイヴを守るのに無我夢中で不安など感じなかったが、イヴも少年達も日を追うごとに、子どもから大人へと成長していき、少年だった彼等が大人へと近づき、イヴに対する態度を改め出してきた頃から……、天使みたいに綺麗で可愛いイヴが大人になり、より美しく、大人の女性の体へと成長しだしてきた頃から……、その不安の芽は、いつのまにかミグシスの心に生まれていて、少しづつ育っていった。
今のイヴは平民だが、イヴの父であるグランを敬愛する3つの国の王族達から、娘や孫のように可愛がられ慈しまれていて、大事に思われている。……だから、もしイヴが願うならば、イヴは3つの国の王侯貴族達との婚姻だって、簡単に叶えられるはずなのだ。そしてイヴが入学した、この学院には身分も明らかで能力も優れていて、しかもイヴの外見だけではなく、その心が何よりも美しいことを知っている男達がいた。
(父親が誰かもわからず、母親も娼婦である自分は彼等に比べると、イヴに相応しくないのではないか?)
ミグシスはそう考えるだけで、胸がズタズタに引きちぎられてしまいそうなほどに苦しくなった。もしも自分の身分のことでイヴを奪われたり、イヴに嫌われてしまったら、自分はどうなってしまうのだろうと深い不安に襲われて、底なし沼に沈んでしまいそうなほどに気が沈んだ。
いっそのこと、回りの男達を全て消し去ろうか?それとも他の男に奪われる前に、イヴの気持ちや体調を慮ることなく、イヴの全てを奪い、自分の全てを刻み、彼女を自分自身に縛り付けようか?それともイヴを連れて、誰の手にも届かない場所まで、二人っきりで逃げようか?……と色々な後ろ向きな考えが、次から次にと頭に浮かび、イヴと一緒に毎日を過ごせて幸せなのに、時折ミグシスは、暗い気持ちに落ち込むこともあった。だからミグシスは学院でも学院の外でも、全ての者に対して、敵愾心をむき出しにして、イヴを奪われないように威嚇していたのだと話をした。
「そういう複雑な気持ちを、俺はヤキモチをやいているのだと思っていたんです。でもイヴは、それは嫉妬ではなく、怯えているのだと言って、俺の不安に寄り添おうとしてくれたんです。10才も年下のイヴが俺に甘えて欲しいと言ってくれて……。イヴは片頭痛と女の子の日で頭と体に痛みがあって、起き上がれないのに懸命に俺を慰めようと……安心させようとしてくれて。俺、イヴに出会えて、とても良かったです。俺、本当にイヴを好きになって良かったです。俺、イヴに好きになってもらえて……本当に本当に良かったです。俺、幸せです……」
ミグシスがそう言うと、仮面の先生が言った。
「そうですか。二人の絆がさらに強くなって良かったです。でも彼女を連れ去るのは止めて下さいね。逃げるときは一声かけてください。私が直接教えた弟子の中で、あなたが一番全てにおいて優れているんです。隠れるのも気配を消すのも、あなたはとても上手ですから、あなたに彼女を連れ去られてしまったら、神様でも探せなくなってしまいますよ」
「やだなぁ、セデス先生……じゃ、なかった仮面の先生。俺のこと、そんなに大げさに褒めないで下さいよ。嬉しいけど、照れるじゃないですか」
「大げさではないのですが……まぁ、いいでしょう。とにかく彼女の家族は、すでにあなたの家族でもありますので、逃げるときは他の皆も、あなた達と逃げてくれると思いますよ。それにそういう心配は無縁だと14才のときに証明されたはずです。何たってあなたは、公爵家の養子にグラン様が選んだほど、優秀なんですから。あなたの身分について、彼女も彼女の家族達も本当に気にしたことはないし、これからもそれを理由にあなたを遠ざけることはないでしょう。それにあなたのお母様は、あなたは貴族の子だとおっしゃっていらっしゃったのでしょう?」
仮面の先生の言葉に、ミグシスは苦笑した。
「ああ、あれですか……。先生はご存じないかもしれませんが、夜の世界に堕ちた人間は年齢性別関係なく、ああいう不幸な身の上話をよく口にするものなんですよ。子どもだった頃の俺は、それを全部、本当の話だと思っていたのですが……今、こうして大人になってみれば、ああいう悲惨な不幸話を皆が話すのは、一種の処世術ってヤツだったのだろうと理解しています。あの場所に来る客は歓楽街の人間の不幸話が悲惨であればあるほど、お金を弾んでいましたからね……」
ミグシスはそう言った後、14才まで住んでいた歓楽街で見聞きした身の上話は沢山あったのだと、仮面の先生に説明しだした。
「そうですね、俺が覚えているのだと例えば、『父の借金を背負って、ここで働いている』とか『自分は貴族の娘だったが、継母に追い出された』、『遠い国の生まれだが、そこの王弟殿下に手込めにされて慌てて逃げたが身ごもり、教会に子どもを預けて、外国にやってきた』とか『母が病になったので、薬代のために働いている』とか『赤子のころに捨てられた』、『弟の学費を払うために、こっそり働いている』……と言うのもありましたね。
他にも色んな身の上話がありましたが、後は似たり寄ったりで……。ああ、そうだ。俺の母のように子持ちの娼婦……子持ちの夜の住人達の身の上話ですと、『結婚寸前だった婚約者に捨てられて、未婚で妊娠したので家を追い出された』とか『自分は豪商の愛妾だったが、子を孕んだので正妻に追い出された』とか『自分は本当は伯爵令嬢だったが男に騙され、駆け落ち後に妊娠した途端売られた』、『自分はある国の高貴な姫君だったが、夫を寝取られて母子ともに国を追い出された』……と、母に負けず劣らずの不幸話ばかりでしたから、だから母の身の上話だって、本当の事なのかどうかは、今となってはわからないんですよ。それに……」
ミグシスが言いよどんだので、仮面の先生が尋ねた。
「どうしましたか?」
「いえ、ちょっと母のことで思いだしたことがあって。母が亡くなる前、俺と二人っきりの時に、一度だけ母が俺を抱きしめてきたなぁと、昨日思い出しまして。俺は母に抱きしめられたことがないと思っていたけど違ってたんだなぁって。で、今、先生と話していて、そう言えば、あの時、母はいつもとは違う身の上話をしていたなぁ……と、思いだしたんです」
ミグシスは今まで全然一度も思い出しもしなかったのに、どうして思い出したのだろうと考えた。
(昨日一日中イヴの、あの柔らかな胸に……包まれていたからかなぁ?)
と思った途端、ミグシスは顔が赤くなった。昨日、イヴが母としてミグシスを抱きしめてくれた小一時間後に、二人は将来の話をした。二人の住む場所や生活の細々としたこと。結婚するための今後の予定や計画を話し合い、結婚する前に揃えたい家具や、近い将来に欲しい子どもの人数の話などを二人は同じベッドの中で話をして、午前中の時間を過ごした。するとミグシスの暗い気持ちは明るく前向きな気持ちへと変わっていった。具体的な二人の結婚の話をしたことや、イヴが耳や首や鎖骨まで赤らめ、恥じらいながらもこう言ってくれたことが、ミグシスの心を温かく灯してくれたからだ。
「覚えていて下さいね。私がこんなことをする相手はミグシスだけだと……。忘れないで下さいね。私が求めている男性は、ミグシスただ一人だけだと言うことを……」
と囁き、昼食を食べた後、イヴはミグシスの唇に恋人のキスをしてきた。
「午後はミグシスの恋人で、婚約者の私に甘えて下さいね」
そう言ってイヴは、午後の時間も午前の時間と同じようにミグシスを抱きしめ続けてくれて、就寝時には甘えるようにミグシスに身を寄せてきた。
「今度は私の婚約者のミグシスに私が甘えても良いですか?」
そう言ってイヴはミグシスに、添い寝をお強請りしてくれたのだ。ミグシスは昨日一日中、イヴの柔らかな胸と暖かい愛情に包まれて過ごしたことで、とても満ち足りた気持ちになった。仮面の先生はミグシスの赤面の理由を問わずに(ミグシスの赤面の理由はいつだって、イヴだったので今更それを問う必要はないため)、ミグシスの母親の身の上話に興味を持ち、それを尋ねた。
「……違う身の上話?お母様はあなたに何と言ったのですか?」
ミグシスは昨日のイヴとのことに気持ちが強く向かっていたため、自分の母親の身の上話には、さほど関心がなかったので、何でも無い世間話をするように仮面の先生に言った。
「確か……母は、俺が王の子だと言っていましたね。当時の王には子どもが一人しかいなくて、亡き王妃の実家の侯爵家から、お腹の子を守るために、自分の初恋の青年との子だと偽って、暗殺者から逃れるために勤め先を出て俺を産んだんだ……と。でも、俺が王が嫉妬する黒髪黒目だったから、もっと逃げなきゃと思って、娼婦になった……と酒臭い息で話してましたから、あの時の母は相当、酒に酔っていたんでしょうね。だって”魔性の者”として、当時嫌われていた黒髪黒目を王が嫉妬するはずがないのに……」
「!?」
仮面の先生は仮面の奥で黒い目を見開いた。ミグシスが生まれた時の王は、カロン王……ではない。
「本当に馬鹿げてる。俺がナロン王の子だなんてね。?ん?あれ?先生、どうしたんですか?母の話が突飛すぎて驚いてしまいましたか?」




