ミグシリアスが出会った天使(前編)
闇夜に溶け込んでいた俺をお日様の元に導いたのは君だと俺は知っている。だから、どんな手を使っても俺は君の傍から離れない……。
その日、ミグシリアスは機嫌が悪かった。何故なら、その前の晩に受けた依頼でミグシリアスの愛用していた短剣の刃が欠けてしまったからだ。ついてないなと溜息をつき、馴染みの店の隅のいつもの席で水を口にしようとして、ミグシリアスは仮面の男に気がついた。
「おや、相変わらず、水しか出してもらえないのか」
「何だよ、うるさいなぁ……。ここしか、俺を入店させてくれないんだから仕方ないだろう!娼館の晩飯まで時間があるし、腹が減ってたんだよ!」
「ふ~ん……そっか」
茶色のローブを目深にかぶり、俯いたミグシリアスの横に立ち、仮面の男は店の売り子に自分のエールを2杯と果実の盛り合わせを頼むと、ヒヒッとせせら笑った。店の売り子は「商売だから仕方ないが本当はあんたらなんかに来てもらいたくはないのに!」と悪態をついた。
「ひどいこと言うなよ、俺はこれでも弁護士なんだ。名誉毀損で訴えてやってもいいし、……そうだな、こんな小汚い店なら、あの黒い虫かチューチュー鳴く小動物でもいるんじゃないか?調査機関にタレこんでやってもいいんだぜ?それに俺はこう見えても、あのシーノン公爵様の顧問弁護士なんだぞ。どうなるか、わかるよな?」
悪態をついた店員は悔しそうに顔をしかめながら、一言詫び、逃げるように厨房へ駆け込んでいった。目元を黒い仮面で隠す男は、これでも真っ当な弁護士だったのだ。 彼が笑うと彼の仮面の下の顔に、左眉から右頬に向かって斜めにある古傷が歪に引きつるのをミグシリアスは知っていた。
この国では、黒髪黒目の次くらいに顔の傷は嫌がられる。特に理由もないのに、黒髪黒目も顔の傷も不吉だと嫌がられるから、ローブを目深にかぶったり、仮面をつけるのは、この国の中では何も珍しいことではなかった。実際、ミグシリアスも常にローブは目深にかぶっている。
この目の前に座る仮面の男は仮面を取ると、茶髪碧眼の大層美しい中年の男だった。刀傷さえなければ、さぞかし男前の弁護士としてチヤホヤされていたことだろう。……まぁ、ミグシリアスが用心棒をしている娼館の娼婦達にとって一番大事なのは金をキチンと支払ってくれることだったので、美醜は二の次三の次くらいの重要度らしいが……。この男は金払いがとても良いから、娼婦達には人気があった。
「今日は、お前にいい話があるんだよ。おごってやるから、聞けよ」
おごりと聞いて、また胡散臭い話かと半眼になるミグシリアスに売り子が、ドン!と乱暴に置いた果実の盛り合わせをすすめ、自身はエールを喉に流し込みつつ、男が話したのは、夢のような、いい話だった。それを男が真剣に話していると気づいたとき、ミグシリアスは爆笑してしまった。
「アハハ!おっさん、頭わいてるんじゃねぇか?……確かに亡くなったお袋は酒を飲む度に、お前の父親は貴族だって言ってたが、ありゃ、男に騙されて捨てられたあげく娼婦に落ちた哀れな女の妄想だぞ?あんたの昔の名前が同じだっていうけど、あんたは貴族じゃないし、そもそもあんたならお袋を捨てたりなんて、しなかったはずだ!あんたはあんな状態のお袋を最期まで好いてくれていたし、墓まで建ててくれた。お袋の生んだ子だからって、黒髪黒目の俺をこうして育ててくれたのはあんただ!
だからナィールは、絶対あんたじゃない!あんたにも調べてもらったがナィールという名の貴族なんていなかったじゃないか!お袋は偽名を使った男に遊ばれただけなんだよ」
「イライザはアル中だが頭は、まともだったぞ?それに何より、その短剣が動かぬ証拠さ。お前が信じなくっても、お前は貴族の青い血が流れているのさ」
「馬鹿言うな!血は赤いに決まってるだろうが!!」
ミグシリアスは渋面になった。しかし男は、話題を変えようとはしない。
「イライザは俺をどう思っていたかはわからないが、俺はイライザの最初で最後の男のつもりで付き合っていた。お前のことも本当の息子だって思ってる。お前とはお前が赤ん坊の頃からの付き合いだろ?まぁ、信じないかもしれないが、お前が息子のように可愛いんだよ。
お前は14才で、頭はいいし腕も立つ。それに貴族の血が流れていて、お前から利益をむさぼろうとするような親戚も身内もいない。今回の条件にピッタリ合致するんだよ。悪い話じゃないし、上手くいけば、お前は未来のシーノン公爵様だ。試験を受けるのはタダなんだし、運試しだと思って気楽にやってみろよ。命の恩人の話は、ありがたく聞くもんだぜ?」
「おっさん、老眼が来てるのかよ!俺は、魔性の者だぞ!俺が黒髪黒目だって忘れてないか?」
「おい、失礼だな!俺はまだ30だぞ?心配しなくてもシーノン公爵は根拠のない迷信なんて欠片も信じない実力主義者で、忌避の色だなんて、まったく厭わない方だぞ。その証拠に、この俺だって、あの家では仮面もローブも無しで過ごせるんだからな!あの方は貴族には珍しい、実力主義者なんだよ。本当にあの方が王だったら、お前も俺も、もっと明るい場所で生きて行けてただろうに……」
「おっさん?」
「……何でもないさ!とにかく貴族としては一番ぶっ飛んだ思考の持ち主だが、領民にとっちゃあ、これほどありがたい、真っ当な貴族っていうのがシーノン公爵様さ!何たって親類縁者がわんさかいるのに、どれもこれもぼんくらで領民の幸せにつながらないからという理由だけで彼らを拒否して、血筋にこだわらずに男で貴族であれば爵位は問わず、その能力と資質だけを重視した試験を公平に行って、跡継ぎの養子に迎えるって言うんだからな。文句をいう親戚等は、氷の公爵様の完膚なき反撃に遭って、寝込むほど、理路整然として理詰めで追い詰められて黙らせたらしい。だから社交界は今、裕福な公爵家の跡継ぎを狙って、男の子を持つ親達の牽制が激しくて、荒れまくってるらしい」
「それが本当なら、俺にもチャンスはあるんだろうけど……。おっさん何企んでる?」
刀傷のある胡散臭い仮面の男はミグシリアスに、今はカロンと名乗っている。でもこれが本名なのかは、ミグシリアスには分からなかった。昔はナィールだったと聞いたが、他にもいくつかの名前で呼ばれているのを見かけたことがあったからだ。でも少なくとも、ミグシリアスの命の恩人ということだけは本当の事だった。
ある伯爵家に奉公していたミグシリアスの母のイライザは未婚のまま、ミグシリアスを身ごもった。イライザは子の父親は誰かは言えぬが、相手は貴族だとだけ言った。伯爵家の奥方は夫との不貞だと思い、激怒して罵った。そしてイライザを解雇して、実家に戻した。貴族に奉公に出た娘が、お手つきとなって追い出されるという話は市井ではよくある話だったため、実家の家族はイライザを持て余しつつも、同情して家に迎えた。
ところがイライザがミグシリアスを出産したことで事態は一転し、彼女は赤ん坊ごと実家から絶縁を言い渡されて放り出されてしまった。ミグシリアスが黒髪と黒い瞳を持って生まれてきたからである。この国では黒髪黒目の者は魔性の者と呼ばれるほど忌避されてたために、イライザは悪魔の子を産んだ、魔性と通じた女だと言われた。そんな彼女が母子で生きていく道は、娼婦しかなかったのである。
イライザは神様の子どもの期間が過ぎてもミグシリアスを部屋から一歩も出さずに育てた。外に出るときもローブを深く被したり、盲目であるかのように目を閉じていろとミグシリアスに命じた。外の人間はイライザ親子に不親切で、侮蔑や嘲りの言葉を吐き捨て、時には石つぶてを投げつけたり、後ろから蹴り飛ばされたりした。ミグシリアスは外の世界に恐怖した。イライザは酒を常時飲むようになり、息子に暴言を吐くようになり、やがて愛した人が迎えに来ないと、やっと思い知ったからなのか、心が壊れてしまった。
どんな男を相手にしても、ナィールと呼ぶようになって、心が壊れたイライザは、それまで誰にも見せなかった、ミグシリアスの父親だという男からもらったという短剣を見せびらかすようになった。短剣を持って振り回す、酒気帯びて、しかも心が壊れた娼婦を抱く奇特な男は普通いない。普通じゃない男がカロンだった。
カロンはイライザとミグシリアスの前にいる時だけは、その仮面を外していた。カロンは胡散臭く変わった男だったが、常時酒を手放せないイライザを慰め、その短剣を毎回食い入るように観察し、彼女の出会い話や身の上話を聞きたがり、彼女が隠しているミグシリアスを見たがった。
忌避される黒髪黒目に怯むこともないカロンにイライザは信頼を持ったのか、それからは毎回ミグシリアスと会わせ、子守を頼むようになった。そして酒を飲みに出かけるようになり、さらに酒気帯びたイライザが還らぬ人になったのは、ミグシリアスが6才になった時だった。小さく薄暗い部屋で野生の獣の仔のように警戒心と恐怖で威嚇する6才のミグシリアスに辛抱強く、この部屋だけが世界ではないと教えてくれたのはカロンだった。カロンは一人になったミグシリアスに、一人でこの世を生きていく術を教えてくれた。
ミグシリアスが小さい内は、ちょっとしたお使いや留守番や店の見張りなどの手伝いという形で、金を稼ぐということを教えてくれたし、ミグシリアスが一度教えたことは完璧に覚えるという才能があるとわかってからは、彼に算術や文字を教えると同時に体術や、武術、喧嘩術を仕込んだ。弁護士の身分を利用し後見人となって、ミグシリアスに、娼館の用心棒という仕事を見つけてきてくれた。
忌避される、黒髪黒目を利用するような売り込みをしてくれたおかげで、ミグシリアスは、その実力もあって、歓楽街では昼間でも一人で出歩けるようになった。
ミグシリアスはカロンに感謝していたが、カロンが根っからの善人のお人好しとは一度も思わなかった。カロンはいつも胡散臭く、仮面の顔を常に笑顔にしていたが、目は一度も笑ったことがなかったからだ。小さい頃のお使いも留守番も店の見張りも、何かの陰謀の匂いを幼心にも感じたし、娼館の用心棒以外にも、昨日のようなナイフを使う危ない仕事もさせられた。
昨日はカロンに指定された場所で指定された時刻に訪れる、紺のシルクハットの貴族の男の上着の袖を切れと、何の理由があるのかはわからない内容の仕事を、理由も聞かないで、命じられたままこなしたばかりだった。
その男が割と腕が立つ男だったので、短剣が欠けてしまったのだ。まだ人を殺したことはないが、こういう仕事が最近増えていたので、このままなし崩しで自分は遠くない将来、人を殺す仕事をさせられるのではないかと思っていたのだが……。
カロンはミグシリアスに娼館の用心棒を辞めて、公爵の養子になれという。その真意は絶対、カロンという男ぐらい、胡散臭い企みがあるはずだ。
「疑り深い奴だなぁ……。いい男が台無しだぜ?お前は黒髪黒目だが相当の男前だというのに……。漆黒の黒髪はまるでカラスの濡れ羽色で、サラサラと風に揺れ、凜々しい眉の下には黒曜石のような瞳が煌めいて、鼻筋も真っ直ぐだし、意志の強そうな引き締まった唇も、色が違うだけでお前の顔は教会の壁画の青年にそっくりだぞ。
耳の形だけはイライザに似ているから壁画よりも耳は小さいな。今は14才の細いチビだけど、いっぱい飯を食ってりゃ、後3、4年もすれば、背も伸びて、もっとそっくりになるんじゃないか?……何、本当にお前には公爵の養子になってもらうだけでいいんだよ」
口では気の良いおっさんの声音だったがカロンは、その口調も声音も自由自在に変えられるという特技があることをミグシリアスは知っている。普通の弁護士の顔に傷があるだけでも怪しいのに何でいくつもの名前があるのか?それに、そんな特技なんて、一体どうやって身につけたのか知るのが怖すぎるとミグシリアスは思っていた。
(きっと公爵の養子になってから、後戻りできないような危ない事をさせられるのだろうなぁ)
ミグシリアスの背に冷たい汗が流れる。……しかし命の恩人の頼みを断ることは出来ない。
(ああ、俺の人生もここで終わりか……。この世に生まれてきて、良かったことが一つもなかったなぁ)
……と自分の人生を悲観していたミグシリアスはシーノン公爵邸で、自分の運命の天使に出会ったのだ。