ルナーベルと生徒会の4人(前編)
※この回では、人間の生理現象であるおならの話が出てきますので、お食事中の方やそれを不快に思う方はご注意下さい。
※ルナーベルが、リアージュに茶会に誘われる前の逆ハーレム状態になっているときの状況説明回です。
その日、保健室の扉を開けて入ってきた大司教子息が暗い表情でいたので、ルナーベルは体調がよくないのかと思い、椅子に座るように促しながら水銀の体温計を取りにいこうとすると、「先生、私は体調不良ではないので検温は必要ないのです……」と、張りのない声で止められた。
時計の針は午前9時を少し過ぎたところだった。本当なら今頃彼は生徒会の皆と一緒に、下級貴族クラスのヒィー男爵令嬢と教室にいる時間なのに、どうしたのだろうか?……とルナーベルが疑問に思っていたのが顔に出ていたのか、大司教子息はこう言った。
「今日はどうしても……、どうしても、あの教室に行く気にはなれなくて。少しも気力が湧いてこないのです。こんなこと初めてですよ。……社交の用事や病気以外で授業を欠席するなんて初めてです。病気でもないのに……私は不良になったのでしょうか……。きっとこんな私は神様に叱られてしまうのでしょうね……」
大司教子息は悲しげにそう言って、床に目をやって項垂れた。ルナーベルは病気ではないなら、何か悩みがあるのだろうと察し、何気ない仕草で保健室に備え付けられた小さな台所に向かい、湯を沸かし始めた。
「……ちょうど私は喉が渇いていましたので、早めのお茶の時間にしようかと思っていたところですの。よろしかったら、あなたもご一緒にいかがですか?」
項垂れて椅子に座る彼にそう声をかけた後、ルナーベルは棚にしまっていた手作りのクッキーを彼の前に出し、湯が沸いた後は自身もテーブルを挟んだ対面の椅子に腰掛け、二人分の紅茶を入れた。
(……誰にだって悩みはありますし、言いたくないときもあるでしょうから、後で担任の先生に、彼が授業に出なかったことを詮索しないであげてほしいとお願いすることにしましょう)
ルナーベルはそう思ったので、大司教子息に何も言わず、自分で入れた紅茶をゆっくりと楽しむことにした。初めは項垂れたままだった大司教子息は、紅茶の香りに釣られるように顔を上げ、黙ってお茶を楽しんでいる様子のルナーベルをしばらく見つめ……やがて、ためらいがちに口を開いた。
「ルナーベル先生……。これから話すことを聞いても私を馬鹿にしたり、蔑んだり、笑わないでくれませんか?」
「ええ、もちろんです。私は神の名に誓って、あなたを馬鹿になどけしてしません」
大司教子息はルナーベルの言葉に頬をゆるめ、ホゥッと短く息を吐いた。
「ありがとうございます、ルナーベル先生。先生はどんなときだって誓いを守ってくれますし、本当は私がこんなことを頼まなくたって、先生は私達学院生の味方で、いつでも真摯に悩みを聞いてくれて、どんな小さな悩みでも一度だって、それを馬鹿にしたり、蔑んだり、笑ったことはないから、こんな頼みなんて必要ないのはわかっているのですが……。私は今落ち込んでいて、そのことで誰からも笑われたくないのです」
大司教子息はそう言った後、自分が落ち込んでいる理由について話し始めた。
「実は昨日、見合いの場でうっかりおならが出てしまいまして、相手の女性に笑われたのです」
見合いの場でしでかした失態に対し、大司教子息は即座に見合い相手に謝罪をしたが、見合い相手の女性は大司教子息の失態を笑ったのだと話は続いた。謝罪したのに笑われたことで、大司教子息の心は大変傷つき、とても見合いなんて続けられる余裕はないとそこで見合いを切り上げてきたのだが、笑われたことがいつまでも頭について夜もあまり眠れず、気分が落ち込んでしまっているのです……と言って話し終わり、彼はルナーベルに礼を言った。
「最後まで笑わずに聞いてくれて本当にありがとうございました。こんなこと他の貴族の連中や家族にだって言えません。男のくせにその女顔みたいに女々しく細かいことで、いつまでもウジウジと悩むなと失笑されるのが、オチでしょうから……」
幼少時からお腹が弱かったルナーベルには、彼の気持ちが痛いほど、よくわかった。だから彼に自分を信用して、その悩みを打ち明けてくれた事への礼を言った。
「人は自分がしてしまった失敗を隠したがるものです。ましてや自分が未熟だと相手に知られるのは、貴族にとっては避けるべき事だと貴族教育では教えられていますのに、それを打ち明けるのは沢山勇気を必要とされたでしょう?私はあなたが女々しいなんて思いませんわ。勇気を出して話してくれて、私は大変嬉しく思いました。私を信じてくれて、ありがとうございます」
そしてルナーベルは自身の幼少時の話をした。
「もしかしたら社交界で耳にされたことがあるかも知れませんが、私は小さなころからお腹がよく鳴る子どもで、”社交界の鳴き腹”と揶揄される令嬢でした。おまけに愚鈍だったので、あなたのように直ぐに謝罪が言える子どもではありませんでした。恥ずかしいことに社交の場でお腹が鳴り、おならも出てしまったこともありました。その時に私は、自分でも周りの人に対し、申し訳ない、謝らなければ……と思っていたのに直ぐに言葉が出なくて、謝る前に男の子達にからかわれて笑われてしまったことがあるんです。
そんなときに私をいつも助けてくれたのは、私の叔母でした。自分ではどうにもならないことを嘲笑う相手の方が恥ずかしい人間だと言って慰めてくれていましたが、当時の私は笑われたことに傷ついて、臆病になり、ますます謝罪が言えなくなってしまいました。謝罪をしてもからかわれるんじゃないか?ずっと嘲笑い続けられるのではないか?……と叔母以外の貴族の人々が怖くなってしまったんです。
ですが14才のころに、……ある方の言葉を聞いてから直ぐに謝罪が出来るようになったんです。その方はとても賢く心が優しい人でした。お腹が鳴るのもおならやゲップをするのも全部、自分の体が自分を守るためにしているのだと教えてくれたのです。人間が生きている以上それらは避けられず、我慢が出来ずに、もし人前でしてしまったら、その人達に一言詫びればいいだけのことなのだと……、完璧な人間なんてどこにもいないから皆で労り合って、生きていけば良いと話していました。その言葉を聞いてからの私は、それまでの臆病を恥じ、周囲の人達に直ぐに謝罪が言えるようになったんです。
あなたは私と違い、幼い頃から直ぐに謝罪が出来る子どもだったのでしょう?昨日も申し訳ないと思って、直ぐに相手に謝られたのでしょう?謝ることが出来たあなたは偉かったと私は思いますし、あなたは何も悪いことをしていないと思っています。だからあなたも、まずは昨日のあなた自身を褒めてあげて下さいね」
「……ルナーベル……先生」
大司教子息は男の自分でも恥ずかしくて打ち明けるのに勇気を必要とした話を、女性であるルナーベルが彼を励ますために口にしてくれたことが、とても嬉しかった。
(男の自分でも恥ずかしいのに、慎み深いルナーベル先生が私のために自分の恥ずかしい過去を告白して、私を元気づけてくれた。なんて優しい人だろう……。なんて暖かい言葉をくれる人なんだろう……。学院に入ってから今まで沢山の見合いをしたが、ルナーベル先生ほど心優しく親切な貴族の女性なんて、どこにもいなかった。きっと少女時代のルナーベル先生も今のままの……”聖女”みたいな優しい少女だったんだろうなぁ。きっとルナーベル先生なら小さいころの私の女顔を見ても、馬鹿になんてしなかっただろうなぁ。
私はもっと、早くに生まれていればよかったのに。ルナーベル先生がからかわれていたときに知り合えていたなら、きっと私も先生の叔母のように、先生を守ってかばって助けていたのに……、助け合っていただろうになぁ……。ルナーベル先生が貴族令嬢でいるときに知り合えていたなら、迷わずルナーベル先生に結婚を申し込んだだろうになぁ……)
ルナーベルは、大司教子息の考えていることを知らず、自分は”保健室の先生”なのだから、もっと保健室の先生らしく、ウンと年下の学院生である彼を励まそうと考えていた。
(アンジュリーナの娘が生きていたら、彼と二つしか年は変わらないのだから、私にとって学院の生徒達は、年の離れた姪か甥……いえ、娘や息子みたいなものよね。もしここにアンジュリーナがいて、彼女の娘が彼みたいに落ち込んでいたら、母親のアンジュリーナは何と言って娘を励ますだろう?)
ルナーベルには直ぐに、その答えがわかった。だってアンジュリーナは、アンジュリーナの姪で、アンジュリーナの一番の親友であるルナーベルを、いつもそう言って励ましてくれていたのだから……。だからルナーベルは、アンジュリーナになった気持ちでアンジュリーナの言葉をアンジュリーナの口調を真似て、彼に言った。
「でも、ああいうのは”出物腫れ物所嫌わず”と言って、本人の意志で、どうにかなるものでもないのは誰もが知っていますし、あなたはきちんと謝罪をしたのに、さらにそれを指摘して嘲笑うなんて、お見合いの相手は狭量なお相手だったんですね。男女関係なく大人なら、お腹の音や、おならの一つや二つ、ニッコリ笑顔で聞かなかったことにするのが、最低限の礼儀でしょうに。
おならをしたことは恥ずかしかったでしょうが結果的には、そのお見合いの人の心持ちがよくわかることになったのですから、今回に限っては、”災い転じて福となす”になったのではないでしょうか?そんな相手と縁を結ばなくて良かったと考えて、気持ちを楽になさってはいかがでしょう?気を落とさないでくださいね。次期大司教様?」
ルナーベルがそう話し終わる直前に、保健室の扉が静かに開いた。ルナーベルの座る位置から、それが丸見えだったので、ルナーベルの視線は自然とそこに意識が向いた。部屋に入ってきたのは、騎士団長子息だった。顔をしかめ、自分の足下をしきりに気にしている彼の様子を不思議に思ったルナーベルは、彼の足下に視線を向けた。
(あれは擦り傷?ああ!ズボンも破けていて、すごく痛そうだわ!直ぐに手当をしなければ!)
そう思ったルナーベルは大司教子息に話し終わった後、保健室の棚から消毒用の道具を取り出すために席を立った。
※ルナーベルがお腹の音で、男の子達に笑われたのは6、7才位を想定しています。小さな子どもは大人のタブー視することを、面白半分にからかいや悪口で言ってしまうことがありますから、幼いルナーベルは、それで傷ついてしまいました。アンジュリーナが平気だったのは、心が父ちゃん=大人だったからです。人間は生きているから、当然生理現象は誰にでもあるものです。”出物腫れ物所嫌わず”という言葉通りに本人の意思に関係なく、どうしようもない時は本当にどうしようもないですから、そういうことで、子どもどうしのからかいが少しでも減ればいいなぁと思います。




