ルナーベルと校医達とリーナ(後編)
ルナーベルが狼狽えている間も二人の医師はリアージュのことで話し合っていたのだが、若先生は老先生に少しだけリアージュの退学を待って欲しい……と言いだした。
「私もヒィー男爵令嬢の退学には賛成なのですが、少々、それを待って欲しいんです。と言いますのも彼女の父であるヒィー男爵は入学式の次の日から、娘の見合いの社交をそれはもう必死になって、ずっと頑張っているんです。先ほどルナーベル先生が言っていた男爵令嬢の顔の腫れや口臭がひどいのは、見合いのために連日社交が続いたせいだと思われます。
彼女はヒィー男爵家のたった一人の後継者なんです。彼女が養子縁組を認めない以上、彼女が後継者の権利を失ったら、そこでヒィー男爵家はお終いなんです。彼女はヒィー男爵家の直系の血を引く者ですが、女性なのでヒィー男爵にはなれません。だから、きちんとした貴族男性が婿入りして上手く子どもさえ授かることが出来れば、彼女を表舞台に立たせること無く、ヒィー男爵家は無事に後継者へと継がれます。
多分……ヒィー男爵はそれを狙って連日連夜の見合いのために、毎日学院まで娘を迎えに来ているのだと思います。彼のその苦労は……並大抵のものではないと皆が知っています。だから後、一、二ヶ月はもう少しだけ待ってあげたいと私は思うのです。老先生、ルナーベル先生。どうかヒィー男爵のために、もうしばらくだけ、待ってあげてもらえませんか?」
老先生はヒィー男爵の日に日にやつれていく姿を見ているだけに、若先生の提案を拒否できなかった。
「確かに彼は可哀想ですね。彼女は良い意味でも悪い意味でも……母親似ですからね。では、彼女が今後学院で暴力を振るわないでいられるように、皆で知恵を出し合って考えてみることにしましょう」
3人は、その対策に悩み話し合った。そして彼女の暴力から学院の者を守るための方法は、3人とも同じ考えだった。
「「「彼女が学院で暴力を振るわないように生徒会の4人に頼んで、もっと彼女の傍にいてもらいましょう」」」
ヒィー男爵令嬢は生徒会の4人の前では、体をクネクネさせて、猫なで声だったり、変に語尾を伸ばして喋ったりして、彼女なりに可愛く色気のある表情を作って、自分はか弱くて可愛い女なのだと主張していたので、彼らといる時はあまり粗暴なことをしなかった。だから3人の大人達は、彼女の暴力から皆を守るには、これが一番穏便で最良の方法だと考え、ヒィー男爵令嬢のことは一旦、要観察のままで様子を見ることに決めた。
この決定は、明日の朝会で老先生が代表して、今日の保健会議の内容を話すこととなっていたので、その時に男爵令嬢のことも、全ての職員の前で報告することとなった。3人は保健会議の次の議題へと移った。前年度の資料と今年の資料を見比べ、来月の保健室のありかたについて話をした後、3人で若先生が手に入れてきた医学雑誌を囲んで話し始めた。
この雑誌は、この10年で医療大国と言われるようになった、強大国の医師達が出している雑誌で、その強大国では、”版画”という絵を描く手法を発展させた”印刷”という技術があり、大量に本を作り出せることが可能となっていた。へディック国以外の国の医師達は、毎月これを購読し、医学の進歩のために勉強しているらしく、若先生はこれを密かに購入するために出張に出ていたのだった。
今月号の特集は『長生きのための食生活』や『五月病を乗り越えるために、生活習慣を見直そう』、『歯磨きは全ての病気の予防に繋がる』、『嗜好品と体の健康との折り合いの付け方』、『梅雨が来る前の部屋の大掃除が体調不良を救う』……等々で3人はこれを大変興味深く見て、社交で忙しい貴族の学院生達に、この情報を伝えたいと思ったが、忙しすぎる彼らに、先生とはいえ平民の自分達が長時間の時間をくれとは中々言い出せないので、3人は揃って深くため息をついて保健会議を終えた。
3人は会議を終えた後、保健室に向かった。中に入ると保健室に置いておいたクッキーが、綺麗に無くなっていて、保健室利用者欄には擦り傷や打撲等の理由で入室したことや、簡単な処置なので、自分達で消毒や手当てをしたことなどが書き込まれていた。各欄に記入している何人かの貴族や平民入り交じっての名前の横には小さな字で各々、『クッキーをもらっていきます、ごちそうさまでした』と一言書き添えてあった。
上下貴族クラスや平民クラスの男子達は4月始めの剣術の授業で、仮面の先生にこれらの傷の処置を一番に習っていた。なのでルナーベルが在室していなくても簡単な処置なら、学院生達はルナーベルや校医を呼び出さず、自分達で消毒等の手当てをしていた。そういうときのルナーベルは、彼らが使った器材の確認や包帯等の補充を後で行ったので、今もそれをするために棚へと向かって歩いて行った。2人の医師達は、保健室に置かれた薬草類の点検を行い、いくつかの薬草の入れ替えを検討し合った。その日は、それ以降の保健室利用もなかったのでルナーベルは午後2時に寮へと戻った。
寮の前でリーナがニッコリとお出迎えをし、早く早くと急かすのでルナーベルは苦笑した。ルナーベルは自室に一旦戻り、手洗い等を済ませてから寮の食堂へと向かっていき、いくつかの野菜やクッキーの材料を受け取るとリーナを連れて自室へと向かい、それらの野菜の下ごしらえに2時間かけた後にリーナの遊びに付き合うために、リーナと共に学院へと向かった。
リーナの今日の遊び場所は生徒会室と特Aクラスの中だった。学院長は寮監夫婦のリーナに甘く、誰もいなくなった学院内で遊ぶことをルナーベルが同伴するなら良いと許可していたので、ルナーベルは4月以降毎日リーナに付き添って彼女の遊びに、ほぼ毎日2時間弱も付き合っていた。
「リーナちゃん、どこにいるのかなぁ?」
ルナーベルは毎回、隠れんぼの鬼の役をしていて、リーナを探すのに毎回苦労をしていた。リーナは隠れんぼの天才で、いつもとんでもないところから出てくるので、ルナーベルは今では学院の隠し部屋や天井への隠しボタンや秘密の抜け道まで、どこに何があり、どうやって学院の外に脱出が出来るのかを体で覚えてしまうほど、学院や寮の構造を頭に叩き込まれてしまっていた。
「ここだよ~、ルナーベル先生!」
ルナーベルが時間内に探せなかったので、リーナは生徒会室の一角から突然現れてきた。
「まぁ!そんなところに隠し部屋が!?」
ルナーベルが驚くと、リーナは手招きしてルナーベルを自分の近くに呼び、誰も見つけられないような場所にある隠しボタンの位置をルナーベルに教えた。
「ここを一度左横にずらしてから二度押せば開くから、ルナーベル先生、しっかりおぼえておいてね!」
リーナは私とルナーベル先生だけの秘密基地にしたいから、他の学院生達には秘密だよと言って、ルナーベルに”指切りげんまん”を強請った。ルナーベルは幼き日に、同じように秘密基地を持ちたいからと”指切りげんまん”を強請ってきた同じ年の叔母を思い出し、ニッコリと笑顔になった。
「ええ!指切りげんまんしましょう!えっと、約束を破ったら回し蹴りでしたっけ?」
ルナーベルの言葉にリーナは、(あの人は小さい頃からそうだったのか……)と思い、顔を引きつらせたが言葉には出さなかった。
「そ、それでいいです!回し蹴り!約束ね!よし!後は……どこの場所の抜け道を教えておかないといけないんだったかな……?あっ!次は講堂!講堂で隠れん坊しよ!」
「講堂?本当にリーナちゃんは、隠れん坊が好きなのね。でも、いつも隠れん坊は飽きないの?」
リーナは笑顔のままで首を横に振り、こう言った。
「ウフフ、私、隠れるのが昔から得意なの!だからルナーベル先生が私と同じくらい、隠れん坊が得意になったら、違う遊びをするわ!」
リーナはルナーベルの手を引き、講堂に向かって歩き出した。
「違う遊び?」
「ええ、悪い悪魔達から助けが来るまで知恵と勇気で逃げ続ける忍者のお姫様ごっこよ!」
リーナは茶髪のツインテールを揺らしながら、前を歩いているので、ルナーベルにはリーナがどんな表情でいるのかわからなかったが、そのうなじの後れ毛に一本だけ光る紅い髪を見つけて、ルナーベルは昔の少女だった頃を思いだし、そのころと同じような気持ちになった。
幼き日に、”スパイ”ごっこをしようと言った、世界で一番大好きな叔母で親友のアンジュリーナに付き合ったように、今日もまたリーナの気が済むまで、隠れん坊や縄抜けに付き合ってあげようと思った。
※後日、学院長や教官達や医師達やルナーベルに男爵令嬢のお守りを、さらに念入りに頼まれた生徒会の4人の顔が引きつっていたのは言うまでも無いことでした。ちなみにアンジュリーナがルナーベルに回し蹴りをしたことは一度もありません。




