シーノン公爵家に起きた2つの事件③
「ヒッ!!お許し下さい!シーノン公爵様!!」
次の日、城に上がったシーノン公爵を見た者は皆が皆、このような謝罪の言葉を言った後、恐れおののいて逃げて行った。王でさえ同じように謝りながら走り逃げて行ったので、シーノン公爵は「そんなに私は怖い顔なのか……」と少し落ち込みながら、城の中にある彼の仕事部屋の席に座り、自分の深くなったであろう眉間の皺を指で揉みほぐした。
一週間分の仕事をこなしてしまった彼の仕事机には、一枚の書類も乗っていない。普段なら自分の仕事を押しつけてくる王も、ここ3ヶ月間は押しつけてこないので、何もやることがないシーノン公爵は、ボウッと斜め上を見上げ、昨夜のイヴリンの言葉を反芻していた。
あの”公爵令嬢辞退届け”を手にして固まったシーノン公爵とミグシリアスの様子に気付かず、イヴリンは言った。
「父様、ミグシリアスお義兄様!あのね、私、父様とミグシリアスお義兄様が大好きなんです!とても大好きで大切だと思っています。……ただ、私」
少し口ごもった後、意を決した真剣な顔でイヴリンは言葉を続けた。
「私、公爵令嬢になることが……出来ないんです」
そう言った後、イヴリンは皆に隠していた(隠し切れていなかったことをイヴリンは気づいていない……)熱の出ない頭痛をよく感じて辛いのだと告白した。医師は気のせいだと言ったが、この頭痛は気のせいではなく、きちんとした病気で片頭痛というのだと、アイが教えてくれたのだとイヴは語った。
この片頭痛は男女共にかかるが女性の方が患者は多いともアイは教えてくれて、アイとイヴリンの調べた結果、片頭痛の女性は貴族として生きていくことが、何かと困難だということに気づいたのだと話は続き、アイに色々助言をもらって自分でも治そうとずっと努力しているが、そうも言っていられない未来が直ぐそこまで来ていると、この間知ってしまったのだとイヴリンは打ち明けた。
「だって父様。大人になったら髪をきつく結わえないといけないでしょう?体もコルセットできつく締め付けないといけないし、香水だって付けるのが淑女の嗜みなんでしょう?……私、頭が痛くなるから、それらが全部出来ないんです!」
3ヶ月程前、シーノン公爵がアンジュリーナに離縁を突きつけられる前日に、イヴリンは久しぶりに母親と顔を合わした。
アンジュリーナは普段、イヴリンが起きる前から家を出ていることがほとんどだし、乗馬の誘いや夜会や茶会と毎日外出していたし、領地の慰問では何日も家を空けるので、イヴリンは母親とあまり顔を合わすことがなかった。
久しぶりに会えたアンジュリーナを嬉しい気持ちいっぱいで見ていたイヴリンは、ふと母親のキチンとした正装姿が気になった。そして後でセデスとマーサに、それらの服装は貴族の女性としては標準的な出で立ちだと教えてもらって、衝撃を受けたというのだ。
この国では熱の出ない病気は病気と認められていない。頭が痛いからという理由で、貴族としての身嗜みを崩すことは出来ないのだと、イヴリンの言葉は続いていく。
「大人になったらワインやチーズ、ショコラだってパーティーやお茶会で食べなきゃいけないでしょう?片頭痛で控えないといけない食材が貴族の食卓では毎食と言っていいほど出るのだと、この間のお客様のおもてなしで知ったんです」
衝撃を受けたイヴリンは、ついでだからとマーサに貴族令嬢の日常生活なども教えてもらった。
上級貴族であればあるほど、パーティーやお茶会で腹の探り合いを繰り広げる機会が多く、だからそれらを口にする機会も多くなる。だっておもてなしには、それらの食材は多くの人に喜ばれて、好まれる物なのだから。この間イヴリンが初めてお客様に会うことになった時だって、リングルとアダムは厨房で、おもてなしのお菓子にショコラは絶対に外せないと教えてくれたのだ。
イヴリンだって、チーズやショコラは大好きだけど、本当に体調の良いときに少量しか摂取出来ないそれらは、イヴリンの片頭痛を誘引する食べ物だった。イヴリンは真剣な表情で話していく。
「お日様の光が強いときや雨が降る前も痛みますし、何か不安や心配なことがあったり、それで悩む時にも頭痛は起こるそうです。人が沢山いるところでも頭痛になりやすく、気温の変化の暑すぎたり、寒すぎたりしても頭痛になり、沢山寝過ぎても痛み、逆に寝不足になっても痛み、何よりも生活が乱れるのが、片頭痛には一番よくないのだとアイが言っていました」
イヴリンはセデスに、母親が外出先で何をしているかを教えてもらっていた。イヴリンの母であるアンジュリーナは、シーノン公爵が自宅で茶会やパーティーをしないため、夫の代わりに顔つなぎや社交を引き受けていたのだ。
毎日もらう招待状に先に目を通し、毎日、昼間の茶会や領地の慰問を何件もかけもちし、それらを分刻みでこなしていた。しかも、その合間に貴族の社交である乗馬や、夜9時から開催され朝方5時頃まで続く夜会のパーティーにも最後まで残り、公務と体の不調で貴族の社交が全く出来ない夫の代わりを、アンジュリーナは見事に勤め上げていたのだ。
貴族の女性は家事や子育てはしないが、父親や夫の代わりに、こうした貴族間のお付き合いを密にし、情報交換や横の連携や親睦を深めたり、牽制したりといった、一見すると遊んでいるようにしか見えないが、実は大事な貴族の娘や妻にしか出来ない社交という仕事があったのだ。
初めてのお客様に会うだけでその後、激痛に襲われてしまったイヴリンは今後も、その役割をイヴリンの体質故に、満足にこなせないだろうと痛感した。イヴリンは自分は出来損ないだと自分自身を評した。
「貴族の女性の普段の身嗜みも、貴族としての生活も、貴族に生まれた者がしなければならない仕事である社交も全て、私の片頭痛を引き起こすようなことばかりでした。私が神様の子どもから公爵令嬢になるまでに何とか問題を解決したいと、アイと二人でどうしたらいいのかと色々と本で調べたけれど、この頭の痛みを治す薬も、痛みを抑える”鎮痛剤”という薬も、この世界には存在しないとわかったんです。私は落ち込んでいましたが、良いご縁があってミグシリアスお義兄様が家族になってくれることが決まって、私、本当に嬉しかったんです!
ミグシリアスお義兄様は賢くて武芸も優れていて、それに何より、とてもお優しい方で、こんなに素晴らしい方が父様の後を継ぐと思うと私、すごく嬉しかったです。母様が家を出て行かれてしまったのは残念ですが父様とお義兄様と皆と、このまま一緒に暮らせたら、どんなに素敵だろうと思っていたのですが、私は知ってしまったんです!
5才になったら、私は貴族の一員になるのでしょう?5才になったら、沢山のお金をかけて、本格的な淑女教育が始まるのだと神子姫エレンは教えてくれましたわ!セデスさんもマーサさんもそうだと教えてくれましたわ!
シーノン公爵家の女性は私だけになってしまいました……。私は母様の代わりになれるだろうかと考えて、とても悩みました。……悩んで悩んで、でも頑張ってみました。お客様をお迎えするために、いっぱい頑張ったけれど……私、出来ませんでした。あんなに短かい時間の貴族の社交でさえ、頭痛になってしまうのに今後も母様のようには……なれないと私は思い知りました。
勉強は嫌いではありませんが、片頭痛持ちの私は、貴族というモノに不向きな体質なのに、お金のかかる淑女教育など受けても無駄になってしまいます。頭痛を病気と認めない国で、治る見込みのない片頭痛を抱える私には、貴族の女性のお仕事を満足にこなすことが出来そうもありません。今まで大切に育てていただいたのに、その事を思うと私は心が大変苦しかったのです。
私は多分、貴族の結婚生活も、満足に送ることができないと思うのです。男性に生まれなかった私は公爵家も継げない、娘として公爵家に貢献できる社交も、家の繁栄に繋がる政略結婚も満足に出来ないでしょう。私は出来損ないなんです……。私は公爵令嬢……失格なんです……。
ですから父様。母様の姪御様のように私を修道院に入れてくれませんか?母様の姪御様は貴族の女性の社交生活を送れないから、修道院に行かれたのでしょう?侯爵家の役に立てないから、そこに入れられたのでしょう?それなら私も同じだもの……。私も……公爵家の役立たずだもの。
大好きな父様とミグシリアスお義兄様と離れたくないですし、いつまでも傍にいられたら私はとても幸せですが、大好きだからこそ父様達に迷惑はかけたくないんです!お願いします、どうぞ公爵令嬢を棄権……、いえ、辞退させて下さいませ!」
真剣な表情のイヴリンはペコリと頭を下げた。執務室は沈黙に包まれた。ミグシリアスはワナワナと震えたかと思うと叫ぶような大声で爆弾発言をした。
「俺は君を修道院なんて行かせないぞ!俺、ここに来るのが最初はすごく嫌だった!でも君があんまりにも優しくって、可愛くって……君の傍にいられるのが嬉しくて、幸せで!!なのに君がいなくなっちゃうんじゃ、意味がない!!
……俺!君のお義兄様じゃなくて、夫になりたいんだ!!君が、この家を出るなら俺も出る!貴族なんて、俺は嫌だったんだ!……何、俺は腕っ節には自信があるんだ!他の国に二人で行こう!片頭痛とやらにも二人で立ち向かおう!そして君が大人になったら俺達、結婚しよう!!」
「何だって!?」
シーノン公爵はミグシリアスの兄じゃなく夫と呼ばれたい発言に驚いた。