シーノン公爵家に起きた2つの事件②
この穏やかなシーノン公爵と娘のイヴリンは本来、上級貴族の親子の触れあいなどないのが普通とされる中、まるで平民の親子のような、親子の情が交わされていた。イヴリンの母親とは愛情もない政略結婚だったため、夫婦関係は冷え切っていたが、生まれてきたイヴリンは使用人任せで育てられたにもかかわらず、物心がついて自分で歩き、喋られるようになると帰宅する両親に必死に話しかけてくるようになったのだ。
『おかえりなさい、父様!今日は算数のお勉強をしました!また頑張ります!』
『父様と母様が大好きです!屋敷の執事もメイドも料理長も庭師も皆好きよ!お仕事大変なのに、私達家族のためにありがとう!とても嬉しいけど、お体大事にしてね!』
公爵家なので当然、家は裕福だし、望めば何だって叶えてやってくれとシーノン公爵はセデス達に命じてあるのに、何も欲しがらずに我が儘も言わないイヴリンは、ただひたすらに自分たちに好意を示し続ける。
『どんな小さな事でも嬉しいと思ったことや楽しいと思ったことは、直ぐに相手に伝えないと後悔するってアイが教えてくれたんです!』
イヴリンの口からアイという名前が出てきたのも、このくらいからだった。きっと両親の不和を子どもながらに感じ取って、その寂しさから生み出されたのが、イヴリンの心の中の友達のアイだったのだろう……。
イヴリンはアイに励まされて、好意を伝えることを続けたのだ。好意を持たれて悪い気分になる者はいない。自分の不機嫌顔が周囲の人間に不評なのを自覚しているシーノン公爵は、娘が自分の顔に怯えないことに喜び、安心して娘を可愛がるようになった。そしてシーノン公爵は気付いていないがイヴリンの前でだけ、その眉間の皺が消えているのだ。
「ミグシリアスとは上手くやっているかい、イヴリン?」
「ええ!ミグシリアスお義兄様は、とてもお優しいの!私、ミグシリアスお義兄様大好きよ!」
ミグシリアスとは、三ヶ月前に養子に迎えようと決めて、この家で一緒に暮らし始めた少年だった。
へディック国では貴族位は男子しか継承出来ない。イヴリンに入り婿をとイヴリンが産まれて次の日から婚約を求める貴族達は大勢いた。でも王宮からイヴリンの2才年上の王子殿下の婚約者が決まるまでは王子の年齢を基準として、その前後5年間に産まれた上級貴族の女児の婚約は禁止すると通達があったので、それらの可能性は潰えてしまった。ちなみに王子殿下の婚約は……未だに決まっていない。
新婚初夜の一度っきりの契りでイヴリンを腹に宿して産んでからは、夫婦としての営みをしていないため跡継ぎが望めなくなったシーノン公爵は養子を取ることを決めたのだ。シーノン公爵は生真面目な性格だったため、愛人や恋人は持ったことはなかった。親戚縁者達はシーノン公爵の決断に大賛成した。そして我が子を是非にと猛烈に売り込んできたが、どれもこれも海千山千で公爵位を継げるような優秀な者は誰もいなかった。
『公爵の跡目を狙っての点数稼ぎに仕事が出来るところを私に示したいと言って、あいつらが絶対出来るからと無理矢理奪っていった領地運営の仕事も言葉だけで、実際は領民に丸投げしていることを私が気づいていないと思っているのか!公爵という身分に課せられた責務から目を背け、ただ公爵家の財や高い身分ばかり欲しがるあいつらは贅沢に生活したり、自分らの有利になる人脈作りをしたいだけなのだ。この豊かな財や公爵の身分は民を守るためにあるとも気づかないのに彼らに公爵位を譲るのは嫌だ!』
とシーノン公爵は、自分の乳兄弟であり親友でもあり、今はシーノン公爵家の顧問弁護士をやっている男に相談すれば、ものすごく遠縁だが親戚と言えないこともないという14才のミグシリアスを紹介された。
この国では忌避される黒髪黒目を持つ者だが、彼以上に優秀な若者を知らないと顧問弁護士の男は太鼓判を押し、シーノン公爵も根拠のない魔性の者の話など信じない質なので、後継者に選ぶことに何のためらいもないだろうと言って、彼を屋敷に連れて来たのだ。城の仕事で忙しいシーノン公爵に代わり、セデスが自薦他薦の貴族の少年達を集めて試験をすることを決めて実行に移したところ、確かにミグシリアスが一番優秀だったし、イヴリンが彼にとても懐いたので、ミグシリアスを養子に取ろうと決めたのだ。文句を言う親戚連中は顧問弁護士が黙らせてくれた。
小さなイヴリンは「お義兄様が出来た!」と大喜びで、シーノン公爵が妬いてしまうほどミグシリアスによく懐いた。彼の後ろをくっついて歩いては、彼に屋敷の中のことを教えようと頑張る姿が、とても可愛くて、まるでヒヨコのようだったと、セデスとマーサが笑顔で報告してくれた。そしてミグシリアスが家に来たことで、イヴリンの心の孤独が癒やされていったのか、イヴリンの心の友達のアイという名前がイヴリンの口から、出る回数も激減していったのだ。もっとも、彼を後継者に決めたことで、妻が「これで自分のお役目は終わったでしょ」と言い、屋敷を出て行ってしまったのだが……。
先ほどよりも大きな音で2度ノックがしたと思ったら、そのミグシリアスがイヴリンの淡い桃色のガウンを持って、執務室に入ってきた。
「失礼します。お帰りなさいませ、シーノン公爵。セデスさんからイヴリンのガウンを預かりましたので、持って参りました。……目を覚ましたら、ベッドに君がいないんだもの。思わずベッドから落ちちゃったのかと慌てて僕は床を探したんだよ、イヴリン」
「ううっ、ごめんなさい、ミグシリアスお義兄様」
ミグシリアスも寝床から飛び出してきましたとばかりに黒髪が乱れていたが、彼はキチンとガウンを着ていた。短い黒髪に黒い瞳の少年は足音も立てずに近寄ると、シーノン公爵にガウンを差し出した。シーノン公爵は自分の隣にイヴリンを座らせるとミグシリアスからガウンを受け取り、イヴリンに着せてやった。
ミグシリアスがシーノン公爵家に来て3ヶ月が経った。ミグシリアスはイヴリンの5才の誕生日パーティーが終わるまでは、正式な息子とは言えないからと言って、まだ自分のことを父とは呼ばないが、イヴリンのことは、とても可愛がっているようだとシーノン公爵は思った。
「おや?イヴリンは、またミグシリアスの寝床で眠ったのかい?」
自分譲りの銀髪と青い瞳に、社交界の紅薔薇と呼ばれている妻の美貌をそのまま受け継いだ、お人形のように綺麗で可愛らしいイヴリンは頬を林檎のように紅く染めて、プックリと膨れっ面になった。
「う゛~!だって雷が鳴って、お義兄様が怖がるといけないって……」
「アハハ、雷が怖いのはイヴリンのほうでしょ?」
ミグシリアスはシーノン公爵の前のソファに腰掛けて、優しげにイヴリンに微笑みを見せた。シーノン公爵は苦笑しながら二人のやりとりを見守り、自分には可愛い二人の子ども達がいてくれるから、大丈夫だ。妻が出て行ったのは残念だが、これから親子3人で幸せに生きていこう!……と心の中で誓いながらシーノン公爵は軽食を食べた。
父親が食べ終わったのを見たイヴリンは、おもむろに白い封筒をシーノン公爵に差し出してきた。
「?ん?これは何かな、イヴリン」
「あっ、もしかして、またシーノン公爵に労いのお手紙を書いたの、イヴリン?いいなぁ、シーノン公爵は。僕もイヴリンから、お手紙をもらいたいなぁ……」
イヴリンは時々シーノン公爵に『お仕事いつもありがとう!』という内容の、労いのお手紙という物を書いて渡してくれた。なので、いつものお手紙かと、羨ましそうなミグシリアスの視線を感じつつ、それを嬉しく思い、笑顔で受け取ったシーノン公爵は封筒に書かれた文字を見て……固まった。
「?どうしたんですか、シーノン公爵。早くイヴリンの労いの……え?ええっ!?」
固まっているシーノン公爵を不思議に思ったのか、彼の持っている封筒を覗き込んだミグシリアスもシーノン公爵同様、その姿勢のまま、石のように固まってしまった。
何故ならイヴリンの渡した封筒には”公爵令嬢辞退届け”と書かれていたからだ。