男爵令嬢の社交とへディック国の銀髪事情③
今日の校医の担当は老爺の医師だった。ルナーベルは、職員室にいる彼に声を掛けたのだが、今日は腰の具合がよくないから、付き添いの男手が欲しいと言われ、ルナーベルは職員室で休憩をしていた"仮面の先生”に声をかけ、校医の付き添いを頼んだ。仮面の先生は快く引き受け、校医の彼の腰に手を当て、立ち上がるのを補助した。校医はルナーベルに診察鞄を持ってもらい、そのまま三人で保健室へと向かった。
校医は彼らの診察後、二人の学院生は、単に疲れているだけだから、栄養剤の注射を打っておくと告げた。それを聞いた途端二人は、自分達は大丈夫だからと慌てて逃げようとしたが、仮面の先生が彼らを押さえ込んで、治療を受けなさいと、お説教をした。
その5分後、野太い男性の声が二名分、保健室に響き渡った。栄養剤の注射は針が太く、大人の男でも泣くくらい痛いと有名だったのだ。仮面の先生は校医を職員室に連れ戻した後、何やら紙包みを持って、保健室に戻って来た。疲労と先ほどの注射で、ぐったり弱っている二人に、仮面の先生は差し入れだと言って、それを渡した。
「あ!ローストビーフのサンドイッチだ!肉が5枚も入ってる!お、美味しそう……」
「本当だ!それにこっちには、スモークサーモンとクリームチーズのも、卵とハムのも入ってる!すっごく美味しそう!ありがとう、仮面の先生!」
「いいから、早く食べなさい。さっきは痛い注射を頑張ったから、これは私からのご褒美だよ。私は疲れているときは、睡眠が一番だと思うんだけど、君達は上級貴族だから、今は眠るわけにいかないんだろう?この後、また社交なんだろう?貴族は肉は夜しか食べないらしいけど、君達は本当は、甘い菓子よりも肉が好きなんだろ?だから、これを食べて少しでも元気を蓄えなさい」
「まぁ、二人とも良かったですわね!とても痛い注射を頑張ったかいがありましたわね!もし、それを食べても足りなかったら……、あら、保健室には甘いショコラと、私の手作りのクッキーしかありませんでしたわ!私、食堂で何か軽食になるようなものを頼んできましょうか?」
「「いえ!俺(私)達、食後のデザートには、ルナーベル先生の手作りクッキーがいいです!」」
二人は声を揃えて言うと、先生達の見守る中、サンドイッチを取り出して先生達を見た。仮面の先生も保健室の先生も、彼らに柔らかな微笑みを向けて、どうぞ召し上がれと言ってくれた。彼らは自分の親よりも、優しく労ってくれる二人の先生達が大好きだったので、今、先生達に暖かく見守られていることを嬉しく思っていた。
「ううっ!本当に先生達、ありがとう!俺、すっごく嬉しいです!!サンドイッチも手作りクッキーも遠慮無く、いただきます!」
「ありがとう、仮面の先生。ルナーベル先生もいつもありがとうございます。先生達だけですよ!いつだって私達に他意なく優しくしてくれるのは!貴族の社交界なんて、皆ニコニコしながら、足の引っ張り合いばかりで、気が抜けないんですよ。……本当に先生達だけが私達の味方です。じゃ、私も食べますね。いただきます!」
ルナーベルはそれを聞きながら、紅茶はミルクではなくストレートで出し、砂糖も各自の好みで入れるように促し、仮面の先生の前にも紅茶を置いた。二人は、さすがはルナーベル先生!食事に甘いミルクティーは苦手だったんです……と、修道女の細やかな気遣いを褒めて、仮面の先生も彼らの意見に頷いたので、ルナーベルは照れてしまった。
二人はしばし、それを夢中で食べ、ルナーベルの手作りのクッキーも一鉢たいらげてしまったので、慌ててルナーベルは、追加のクッキーとショコラを出した。二人はお腹が満腹になると、すごく満足そうにゆっくりとそれらをつまみはじめたので、ルナーベルは今度は二人にミルクティーを給仕することにした。その様子を見守りながら、仮面の先生が尋ねた。
「上級貴族令息である君達が、そんなに目の下に隈なんて作って、一体どうしたんだい?社交は慣れているはずだろうに……、そんなに疲れているなんて、とても珍しいね」
「ハァ~、仮面の先生。あの女のせいですよ……。ルナーベル先生も聞いて下さいよ。あの女、いや、ヒィー男爵令嬢が色んな所で、色々やってくれて、それらの苦情が全部、あの令嬢の世話係となっている生徒会である俺達に押し寄せてくるんですよ。もう、その対処が、本当に大変で大変で……」
ヒィー男爵令嬢の奇行は入学式に出た、全ての貴族に見られている。……つまり、すでにへディック国の上下貴族達に、ヒィー男爵令嬢は、すごく変な令嬢だと知れ渡ってしまっていた。ただ……それとともに、彼女が高熱で変わってしまったという事情も周知されることになり、貴族達はヒィー男爵令嬢に同情の気持ちも持っていたため、入学式の次の日からの社交も初めは優しく、受け入れてあげていたのだが……。
ただでさえ、9年前の社交でも評判が良くなかったヒィー男爵令嬢は、9年ぶりの社交では、まるで貴族令嬢とは思えない立ち居振る舞いや言動をし、貴族間の決まりや規則を忘れ、礼儀もなく、いつでも自分が中心でないと、頬を膨らませ、つまらないと機嫌を損ね、まともな会話も成り立たない男爵令嬢となっていたため、9年前以上に評判が悪い令嬢となってしまったのだ。
7才で許された我が儘が16才で通用するわけもなく、毎日の社交の苦情は、ヒィー男爵と学院で彼女の世話をすることになった生徒会の4人の元へ殺到するようになったのだと話した。
「「た、大変ですね、それは……」」
ルナーベルと仮面の先生は、思わず声を揃えて、そう言ってしまった。
「本当に毎日が大変です。ただ……一番気の毒なのは、彼女の父親のヒィー男爵です。彼は婿養子だから、男爵を名乗ってはいても、所詮……”男爵代理”でしかありません。代理の彼には養子縁組の決定権がないんですよ。
男爵家直系の夫人は生前、彼の内縁の子を養子にすることは、けして認めなかったそうです。それにこの間、成人したばかりの、あの女……いえ、ヒィー男爵令嬢にも、彼は異母兄弟を養子縁組することを打診したけど、拒否されたそうなんです。自分の受け取る財産を横取りなんてさせない……と。
ですから彼に内縁の妻の産んだ男子がいても、ヒィー男爵家を継げるのは、直系である彼女の産んだ男児しかなれない。だから彼は必死になって、彼女の相手を探しているのですが、肝心の彼女自身があんな感じなので……」
保健室にいた4人はしばし、ヒィー男爵に同情し、ルナーベルはふと、先ほどのヒィー男爵令嬢の疑問を思いだした。ルナーベルが先ほどまで、ここにヒィー男爵令嬢がいたというと、騎士団長子息と宮廷医師子息は、途端に眉間に皺を寄せた。
「そう言えばリアージュさんが、どうして貴族女性は皆、銀髪なのかとおっしゃっておられましたが、皆様、理由を知っていますか?」
ルナーベルの言葉に彼らは、ルナーベル先生は修道女だから知らないのは当たり前だけど、あの男爵令嬢は、どこまで貴族事情に関心がないのかと呆れかえった。彼らは4月からヒィー男爵令嬢と午前の時間を過ごすようになっていたので、教室でのヒィー男爵令嬢の過剰な馴れ馴れしさや身分をわきまえない言動に辟易していたのだが、ルナーベルの話を聞いて、あまりに物知らずすぎると、ヒィー男爵令嬢を蔑んだ。
「ハァ~、本当にあの令嬢は、貴族の社交を怠けきっていたんですね……。あまりにも疎すぎる。……実はですね、貴族の女性達が、最初に髪を銀に染めだしたきっかけは、カロン王の側妃や愛妾になるのを避けるためだったんですよ。
昔はカロン王は、良き王様だったそうで、国政もまともだったと聞いたことがあります。その頃は国が栄えていたから、カロン王の側妃や愛妾になれば、良い思いが出来ると目論んだ上級貴族の淑女や、上級貴族の家の者達が、カロン王に側妃の打診をよくしていたそうですが、どういうわけか、カロン王は昔から銀髪の女性には、手を出さないらしいんです。彼の後宮や彼が今まで手を出した女性の中にも、一人も銀髪の女性はいないらしいんです。
だけど10年前位から、カロン王は良い王様ではなくなって、あんな感じでしょう?彼の側妃や愛妾になっても、何の旨みもない。悪政ばかりだし、彼の回りには腹黒で欲深い怪しげな集団や取り巻き達しかいない。……これはあくまで噂ですが、彼らはカロン王を操って、隣国と戦争を起こすことで利益を得ようと企んでいるのではないか……とも言われているそうです。
だから良識がある貴族女性達は、そんなきな臭い噂のあるカロン王に近づきたくはないと、ここ数年、平民の流行に便乗するふりをして、皆、銀髪に染めるようになったんですよ」
彼らは喉が渇いたのか、そう言ってから紅茶を飲み干した。




