※悪役志願~ルナーベル①
「何言ってるのよ?この女はイヴリン・シーノン公爵令嬢でしょ!」
新入生の女子学院生にそう言われた時、保健室の先生をしている修道女は動揺した。どうして、この女子学院生はそんなことを言い出すのだろうか?……と。
11年も前に事故で亡くなった公爵と、その神様の子ども、離縁したまま消息不明の夫人……。シーノン公爵家の親戚縁者達は本家の親子が事故死した後に、相続争いの末に刃傷沙汰を公衆の面前で行い、シーノン公爵家自体が消滅してしまっている。度重なるシーノン家の不幸の凄惨さ故に、貴族達はシーノン家は呪われていると噂し、同じ呪いが降りかからないようにと、やがて彼らの名を口にすることを厭うようになり、今では誰も彼もが昔話でさえ語られないというのに……。
目の前の令嬢は入学の一週間前に高熱を出し、一時錯乱状態だったと令嬢の家から報告が上がっている。今日も入学式にも出席せず、フランスパンを丸ごと一本を咥えたまま、にやつきながらフラリフラリと歩いている様子を見ると、まだ病状は回復していないように見えた。きっと高熱で頭の中のどこかが負傷したままなのだろう……。かわいそうに……と、修道女は彼女に深く同情し、きつい物言いをする少女に内心ビクつきながらも、保健室の先生らしく、彼女を擁護する声を上げた。……何故なら、その修道女の使命は、この一年間、学院内で問題を起こさないことだったからだ。
その学院の保健室の先生は、学院生達の憧れの存在だった。彼女は元侯爵令嬢だったが幼い頃からの持病と、ある事がきっかけで声が出なくなり、修道女になったらしい。北方の修道院に入ってからの10年間、北方地方特有のピクルスや、酸味のある乳製加工品を食べ続けていたら、それが体に合ったようで、それまでの持病が嘘のように鳴りを潜めた。声の方も、親族の不幸な事故が荒療治となって戻ったらしい。彼女は、その親族の冥福を祈り続けながら今は教会の大司教の勧めで、2年前から学院の保健室の先生をしている。
彼女は気のきつそうな容貌をしているが、性格の方は控えめな性格で、穏やかで優しい女性だった。上下貴族・平民・男女共関係なく、全ての学生に平等に優しく保健室に訪れる者を暖かく迎え入れて、献身的に傷の手当てや看護をしてくれて、心の悩みにも、じっくりと膝を付き合わせて最後まで話を聞いてくれると、評判がとても良い保健室の先生だった。
(優しく勇ましい、私の大好きなアンジュリーナ。あなたが突然外国に旅立ってしまい、会えなくなって10年以上経つわ……。今はどこで何をしているの?元気でいるのかしら?……私、いつも不安なときは、昔にあなたが言ってくれた言葉を思い出しているのよ……。
『……ああいうのはね、”出物腫れ物所嫌わず”と言って、本人の意志でどうにかなるものでもないのは百も承知なのに、それを指摘して、嘲笑うなんて片腹痛いわ!本当に紳士としての教育を受けてきたのか疑問だわ!男なら女性のお腹の音や、おならの一つや二つ、ニッコリ笑顔で聞かなかったことにするのが最低限の礼儀でしょうが!!ね!ルナーベル!あんな度量の狭い奴らの言うことなんか、捨て置きなさい!』
……そう言って、あなたはいつも私を励ましてくれたわね、アンジュリーナ。あのね、アンジュリーナ、いよいよ今年が……本番なの。どうか後一年、私があなたみたいに振る舞えるように力を貸してね!どこかで見守っていて!私、必ずやり遂げてみせるから!)
修道女のルナーベルは、いつも、ここにはいない自分の叔母を思い出しては、彼女のように堂々と出来るようにと祈っていた。
ルナーベルには、アンジュリーナという名前の叔母がいた。彼女はルナーベルの父である、ルヤーズの年の離れた妹で、ルナーベルと同じ年に生まれた叔母だった。二人は姉妹のように一緒に育てられた。実際2人は髪の色も同じ紅い色だったし、瞳の色の違いさえなければ、双子と見間違えられるほど、よく似ていた。
だが、健康優良児のアンジュリーナとは違い、ルナーベルは”神様の子ども”時代から、よく腹痛を起こす子どもで、四六時中グルグル、キュルキュルと、お腹が大音量で鳴る女の子だった。そしてアンジュリーナは、人一倍元気な子どもで、木登りやかけっこをして飛び跳ねて遊ぶ女の子だったから、乳母達は彼女達がきちんとした侯爵令嬢になれるだろうかと心配していた。
神様の子どもだった頃。……ある日、ルナーベルはいつものように腹痛になったのだが、その時は普段よりもひどく痛むように感じて、大人に助けを求めた。だけど医師に診せても、熱もないのに腹痛なんてありえないから、ルナーベルの腹痛は”気のせい”、”仮病”だと医師は言い、煩いぐらいにゴロゴロ鳴るルナーベルの腹の音は、単に意地汚い腹だから腹が空いているだけだろうと笑って、何もしないで帰って行ったことがあった。
「……私、嘘つきじゃないもん。私は……お腹なんて減っていないもん。ねぇ、誰か!お腹が痛いから助けて!」
医師が帰った後、ルナーベルは泣きながら、乳母達や両親や祖父母に助けを求めた。だが……。
「医者が”気のせい”と言うのだから、あなたのそれは単なる気のせいなんですよ。お腹が空いたなら、何か用意して上げるから、泣くのは止めなさい」
必死に助けを求めたのに、痛みを訴えているルナーベルの言葉を信じてくれず、そう言って笑った大人達にルナーベルは絶望した。もしも……いつも腹痛を訴えるたびに、何時間でもお腹を撫でてくれるアンジュリーナがいなかったら、ルナーベルの心はとっくに絶望に沈み、闇に囚われ、誰のことも信じられない、孤独で冷たい人間になっていただろう……とルナーベルは思っている。……そう確信が持てるほど、小さな頃からアンジュリーナだけが、ルナーベルの唯一の味方だったのだ。
「絶対、あのおっさん……いや、おじ様の言っていることなんて鵜呑みにしなくていいからな!……いや、いいからね!えっと……確か、お腹が痛いのはストレスのせい?いや、腸内環境?……ってヤツが整っていないからだったかな?え~と、そういう時は何食べたらいいんだったっけ?
……ダメだ、俺、食べ物なんて何も思いつかない!前世の食べ物知識ゼロだ!く~、ホント使えねーよな、俺!と、とにかく!お腹は冷やしちゃダメ!くらいしか思いつかない……。ごめんな、ルナーベル。ポンコツな叔父で……ポンコツな叔母でホントにごめん!!お腹撫でることくらいしか出来なくて、本当にごめんな」
ルナーベルが辛い時は、いつだってアンジュリーナが傍にいてくれた。気のきつそうな吊り目を潤ませて、腹痛のルナーベルのお腹を撫でながら励ましてくれる優しいアンジュリーナが、ルナーベルは世界で一番大好きだった。
そのアンジュリーナには、彼女が生まれる前から婚約者がいた。名前はイミルグラン・シーノンという公爵で、アンジュリーナは一度も会いにこない婚約者の手紙をルナーベルの前ではつまらないと言っていたが、彼女がこっそり何度も読み返していることをルナーベルは知っていた。アンジュリーナはルナーベルが、まだ婚約者を見つけていないことに気を使って、ルナーベルの前ではけしてその手紙を開かなかったので、ルナーベルは、私に遠慮をしなくてもいいのに……と思っていた。
ルナーベルは茶会でからかわれてからというもの、全ての男性が苦手になってしまったし、自分の父親にも毎日のように叱られていたから、男性というものが好きになれそうになかった。貴族子女の務めとしての結婚をしなくてもよいのなら、ルナーベルは一生誰とも結婚しない選択をするのに……とも思っていたので、婚約者がいなくても引け目に感じることもなかったから、アンジュリーナに遠慮させてしまうことを返って申し訳なく思っていた。
「ルナーベル!お前は貴族の自覚がないのか!お前は仮にも淑女なんだろう!気合いを入れろ!そんなだから、いつまで経っても婚約が決まらないんだぞ!腹の音を鳴らないようにしろ!おならもやめるんだ!そんなことはいつまでも許さないぞ!」
ルナーベルの父親のルヤーズは、いつもこう言ってルナーベルを叱った。どう気合いを入れたら、お腹の音を止めることが出来るんだろうか……?そんなことが出来るのなら、ルナーベルだって、とっくの昔にやっているのにと、口答えするとルヤーズは、青筋を米神に浮かべて、いつもの口癖でルナーベルを叱った。
「口答えするな!お前がいつまでもそうだから、未だに婚約者が出来ないでは無いか!このままでは行き遅れになるぞ!アンジュリーナよりも良縁をお前は掴まなきゃいけないんだぞ!しっかりしろ!」
”アンジュリーナよりも良縁を”……この言葉がルヤーズの口癖だった。ルヤーズは何としても、自分の年の離れた妹であるアンジュリーナよりも、自分の娘であるルナーベルに、アンジュリーナの婚約者であるシーノン公爵よりも優れた婚約者を宛がいたくて、躍起になっていた。
その理由をルナーベルは知っていた。ルナーベルの祖父であり、アンジュリーナとルヤーズの父である、ヤーズ侯爵の再婚相手が……アンジュリーナの母親が、ルヤーズの初恋の女性だったからだ。しかも年の差結婚にも係わらず、貴族には珍しい恋愛結婚だったのが、相当衝撃だったらしい。初恋の女性を奪われ、悔しくてたまらなかったルヤーズは、自分の父親に何が何でも勝ちたくて仕方が無かったのだ。




