シベリアンハスキーIN THE DOOR.
今日も会社に行く、当たり前のルーチンに憂鬱な気持ちを抱えながらマンションの扉を開けて外に出る。と、同時に504号室から隣人が出るドアの開く音。対してご近所と親しくない私にとって隣人との邂逅は気まずい瞬間だが、仕方ない。挨拶をしようとその姿を直視すると同時に目を疑う光景に凍り付く。
504号室から出てきたのはシベリアンハスキーだった。
シベリアを原産とする大型犬種。非常に社会性に富み、人間に友好的な性格。
いやいや確か504号室の隣人は穏やかそうな男性だったはずだ。さほど交流したこともないが、すれ違う度に会釈をする仲ではあるし、引っ越してきた際にバスタオルの詰め合わせを持って挨拶しに来たことは記憶に新しい。
エレベータへ二足歩行でスタスタと歩いていくハスキー。手にはカバン。ここはペット禁止のマンションだが堂々たる様だ。
一瞬立ち尽くしていたが、慌てて私も追いかけていく。エレベーター前でハスキーは私に気付いたようでこちらを振り返って会釈をした。
かつての隣人としていたように私も会釈を返す。非常にお利口さんなハスキーである。
まじまじと見るのは失礼と思いつつもガン見が止まらない。
意に介することなくハスキーはマンションから出ると私とは逆方面に歩いて行ってしまった。立ち尽くしてずっとそうしてきたような姿から目が離せない。ついていきたいが、私も会社勤めの身。後ろ髪を引かれる思いではあるが、涙の出社。
仕事中も頭からハスキーが離れない。つぶさに観察し、検証しなかったことが後悔する。人間なのか動物なのか。会釈をするという社会的行動は人間の為せる業ではないのか。はたまたこちらに視線を向け、頭部の上下運動を会釈と私が解釈しただけなのか。ぼけっとしていると課長から肩を叩かれる。
「すいません!」
頬をパンと叩いて気合を入れる。ハスキーより仕事仕事。
次の日からハスキーはいるだろうか、という期待で嫌だった出社が楽しみになった。初めての対面から三日後、ついに二回目のお出会いを果たした。今度はエレベータに向かっているところにタイミングよく遭遇。小走りでエレベータ前で追いつく。近くで見ると大型犬の貫禄だ。背丈は私より低いのだが、その重厚さたるや生まれのロシアを感じずにはいられない。またもや振り返り、会釈される。私も会釈を返す。
声をかけたいのだが、話しかける言葉が見つからない。ナンパ師ならハスキーにはなんと声をかけるのだろうか、是非ご教授願いたい。
「寒くなってきましたね~」
絞り出したのがこれだ。
ハスキーはこちらを振り返り、一言。
「ワオーーーーーーーーーーーーーーン」
ワオーン。そう来るかあ。いやそう来るか。だって犬なんだから。
ハスキーはエレベーターが開くとまた平然と歩き去ってしまった。
それからも数日に一度ハスキーに遭遇した。他の人間たちはこの怪奇ハスキーをどう思っているのか、そもそも私以外に見えるのか、私がおかしくなったのか。
仕事帰りにエントランスで管理人がちょうど管理人室から出てきていたので尋ねてみた。
「ここってペット禁止ですよね?」
「そうだねえ、小さいマンションですし」
隣からハスキーが出てきます、とはよもや言い出せない。
「なになに、隠れて飼ってる人見つけたの?」
「いやそうじゃないんですよ。ちょっと飼いたいなって。はは」
どうやら見てないか、見えないらしい。不審がる管理人を置いて、部屋に帰ろうとすると、廊下で出かけようとしている506号室の隣人に会った。こちらもさほど話したことはないが、まだ女性であるので軽く話したことがある。
「こんにちは田中さん、お急ぎのところすいません。このマンションでシベリアンハスキー見ませんか」
「こんにちは!え、全然見ないよ。ごめんちょっと急いでるの!」
笑顔で愛想の良さが現れてはいるが、急いでるようで最後の言葉を発声する前に走って消えて行ってしまった。同じ階の隣人や管理人が見ていないとなると、いよいよ私は病院に行くべきなのだろうか。
次の日、今日も504号室からハスキーが出てきた。
「ワオーーーーーーーーーーーーーーン」
最近よく交流する甲斐あって向こうから挨拶された。
「おはようございます」
慣れとは恐ろしいものだ。今日は急いでいるようで小走りでハスキーは駆けていった。二本足で。
「四本の方が速いんじゃないかなあ」
私は呟き、そこで何気なく、横の管理人室をちらりと見て、驚愕した。
管理人室の中にハスキーがいる。白い綺麗な毛並み、蒼い眼。
「ワン」
「お、おはようございます」
突然の事態に頭が追い付いてこない。何がこのマンションに起こっているのか。夢?夢じゃないのか。頬をつねっていると、「ワン!」と後ろから吠えられた。
振り返ると、出口から小ぶりのハスキーが走って駆けて来る。心なしか愛想の溢れたハスキー。急いでるからごめんね、と言うかのようにひと吠えし、走っていった。
なんだこのマンションは呪われているのか、私の頭がおかしいのか。取り敢えず会社に行くしかないが、終わったら精神科を予約しよう。
もやもやしながらも働いてはみるが、集中できない。少しさぼろう、と階段に座って一息ついていると後ろから肩にふわりとした感触。うわきっと課長だ。慌てて向き直るとシベリアンハスキーが怒っているような眼差しで立っている。私は叫ぶ。
「ワオーーーーーーーーーーーーーーン」