【四】
「どうりで人がまばらだと思った」
事情を知ったチハはからからと笑った。
「穴があったら入りたい……誰にも見られないところに行きたい」
フランチェスカが覇気のない視線を漂わせると、並んで歩く彼から再び笑い声が上がる。
「それなら都合がいい。これから穴に入るし、そこは誰もいないところだ」
力強く小径を踏みしめていたチハの腕が掲げられた。
自身の背丈よりもやや高い、ちょうどフランチェスカの目線で指し示された前方。
先にあったのは、夏に茂った大緑に隠されかかった、洞窟の入り口だった。
宮殿の敷地を裏から抜け出し、一度小山を下り、さらに麓に沿って東へ歩いたところ。
ひと気を離れた場所にあるこの天然洞穴は、チハの秘密の園らしかった。
どんな場所を歩くことになるかわからなかったフランチェスカは、チハのいで立ちを思い出しながら、できるだけ動きやすく頑丈な衣服を選んでいた。
母国では男に負けぬほど乗馬や山遊びが好きだったから、種類には困らない。
枝葉の引っ掛からないよう、たゆまない上衣を選び、ゆったりしたズボンの裾はくるぶしから靴の中に押し込んだ。
実際にはこれほどの装備は必要なかったが、夏に伸びた雑草をわざと踏み分けたり、知らない木なら触ってみようとするのが彼女の本来の気質だ。
実際、夜気に満ちた洞窟に入ったフランチェスカは、内心はしゃいでいた。
「それほど長くない穴なんだ。ほら、もうここが出口」
「出口って……湖ですか」
「そう。東の湖に繋がっているんだよ」
北翠はフランチェスカが思っているよりずっと、複雑な地形なのだろう。
入り口からは見えなかったが、くの字に走る洞穴を少し歩けば、ごくごく小さな入り江に出た。
左右の岸壁は洞窟に続いてせり出し、岩の天蓋だけは途中で終わり、夜天に抜けている。
帯状に横たわるわずかな砂地。そこに打ち寄せる湖の小波。滲む月影。
遥か異国の湖月の風景は、フランチェスカの心を大きく揺さぶった。
「もう少し一緒に居てみないとわからないけれど」
はっとして隣を見ると、チハは眉尻を下げて小さく笑っていた。
彼女の反応を悟って、安心したような表情だった。
「この年で一国を背負う私を、フランチェスカが心配してくれるのは嬉しいな。唯一の王統で民には讃えてもらってるし、別にそれも悪くないんだけど、やっぱり私も一人の人間だから」
月明かりにさらされた少年の頬に、うっすらと照れの色が浮かぶ。
「単なる政略結婚の相手としか見ていなかったら、ここには連れてこないよ」
フランチェスカはその言葉を聞き、目を伏せた。
チハに顔を向けていることが申し訳なくなり、もう一度湖へと立ち直した。
(定められた結婚相手としか見ていなかった、わたくしこそが不誠実だった)
互いを国の駒として、その価値を若さで測り、相応しいか相応しくないかを決めつけていたのは自分だった。
チハ王を純粋すぎると憤っていたのは、自分らの結婚を、はなから盤上のものとしか見ていなかったからだ。
せめてものチハの気持ちをつゆほども考えていなかったことを、彼女は恥じた。
「仲良くなれそうな気がするんだ。なんだかんだ言って、こんな辺鄙な場所まで付いてきてくれるし」
「ええ、そうね。わたくしたち、きっと仲良くなれます」
(抱えよう。この少年の背負っているものが、少しでも軽くなるように)
したたかに誓い、彼女が瞼を開けると、雄大な湖面が紺碧に照り輝いていた。
月や星の一つ一つまでを映す水鏡は、チハという少年の根源かと思われるほどの清浄さをたたえている。
「少し遊んでいこう。星が動くまで」
慣れたように両靴を脱いだチハは、ズボンの裾を膝の上まで折り曲げると、鹿のような脚を水にさらした。
小さな波を立たせ、ぱしゃぱしゃと水面を割いていく。
服の濡れる一歩手前で、彼は振り返った。
「痛くないよ」
「そういうことでしたら」
楽しげな誘いの声に、フランチェスカも靴紐を解いて裸足になった。
裾に手を伸ばし、恥ずかしげもなく大きくたくし上げた。
盤上から降りた心は軽い。
水の帳へと足を浸すと、一瞬の冷えの後、澄んでいく心地良さが体を巡った。
「ここまで来れる」
「ええ」
フランチェスカが踏み出せば、次第にゆるやかな水流が生まれた。
底の白砂を足の裏で掴みながら、静かにチハの元へと進んでいくと、少年の脚もまた彼女を迎えようと、波を切る。
夏の初い夜。
二人の素足は誰にもはばかることなく近付いて、ひとしい湖面の開放感を分かちあった。