【二】
「今日は面白かった。ああいう大規模な訓練は、回数を増やせないものだろうか」
「チハ王。増やすとなると、遠方の警護兵の交代や行き来の仕組みに手を加えなければなりません」
「難しいか」
「明日にでも、少し考えてみましょうか」
フランチェスカの前を行く、二人の会話は弾んでいる。
先ほど穂先を交えた彼らは少年王と、もう一人は将軍の一角だという。
男の意欲的な眼差しやたくましい体付きは、四十には見えぬ人のみなぎる精力をありありと示していたが、振る舞いは穏やかで、はたから見ただけでも篤い人格者だということがわかる。
フランチェスカが男に感じたのは、統制された熱狂。
そしてチハ少年こそ彼の主人に他ならないのだが、今は冷めぬ興奮のためか、子どもらしい無邪気さが見え隠れしていた。
回廊の天井を抜けるような、透き通った声ではしゃぐ少年王をしばらく眺めていたフランチェスカは、ふと小さく呟いた。
「ご結婚、早かったのではないかしら」
「やはりこれほど年下では頼りないか」
場の喧騒に消え入るかと思っていたのに、返答はすぐにきた。
声が届いたことに驚きつつ、彼女は慌てて返した。
「いいえ、けしてそのようなことは。ただ、チハ王にもお年頃というものがあったでしょう」
「しかしフランチェスカだって適齢期だ」
正しくは適齢期を過ぎている、だ。
フランチェスカは表情を変えず、頭の中でそう唱えた。
足を止め、こちらを振り返る少年の目は聡い。賢いのに、ずる《・・》というものを知らない。
彼女らの政略結婚が決まったのは、昨年の春のことだ。
気候や資源に恵まれ、富国といわれるリンディアだったが、それゆえに内外の敵も抱えていた。
政敵が牙を研いでいる間に牽制力を得たい。
それには強国との同盟、さらには血による繋がりが最も即効的だ。
北翠の王統は未婚の少年王が一人のみ。
リンディアの皇女は妾腹を合わせて四人。
未婚はフランチェスカと、三番目、四番目の妹だが、十六と十三の彼女たちこそ本来チハ王の相手になるべきだった。
フランチェスカから見ても妹たちは可愛い。
おしとやかで人懐こく、手放したくないのはよく分かる、しかし。
代わりに年の合わない姫をいけしゃあしゃあと差し出すのは、礼儀を失していやしないか。
場合によっては人質になりうる異国への嫁ぎ役を、フランチェスカの父、リンディア国皇帝は溺愛の娘にさせたくなかった。
だから、己から北翠に言い寄ったにもかかわらず、最も要らない姫子にその役目を与えた。
――妹らが先に嫁にいっては、姉の面目が潰れてしまう。
妹らはまだ未熟で、婚姻の約束だけということもできなくはないが、繋がりを結ぶにはやや足りないし、なにより教育不足なのはこちらの不手際なのだから貴国に申し訳が立たない。
しかしながらフランチェスカはというと、我が子ながら申し分ない器量だから、年が少しばかり揃わずともチハ王のお役にきっと立つ。
貴国の国柄を考えれば、二十四を迎えてもなお活発なフランチェスカは、むしろ妹らより適している。
父帝がつらつらと述べたもっともらしい口上は言い訳でしかなく、要は一番懐かぬ子を有効活用したかったのだ。
最小の損失で最大の利益を。
そんな誠意などあったものではないリンディア皇室の申し出を、北翠は無条件に受け入れた。素直に同盟の契りを結んだ。
これでリンディアで戦が起これば、北翠軍だって戦地に赴くことになる。
「そういうところが気に入らないのです」
フランチェスカの言葉には、母国と北翠、そして純粋すぎる少年王へのいらだちが含まれていた。
「せめて。年が合わないからわたくしの妹にしろとか、わたくしを迎えるなら他に年の合った妻をもつとか、もっと我儘を言えばよろしかったのよ」
年齢だけでない、妾の話だってそうだ。
この国らしい良い気性を宿した素直な子だっているだろうに、この少年はフランチェスカ以外の妻を迎えないと言った。
本当は、要望を叶える権利があったにもかかわらず。
「そんなことは望んでいないよ」
チハ王は心外だと目を開き、フランチェスカを見つめた。
屈託のない緑色の視線が、ひねくれた彼女の心をちくんと刺す。
「チハ王様はもう少し、自分の欲求に対して正直でもいいのではないかしら」
はじめから定められていたのならば、こらえることもできたのだ。
相手が誰にしろ、フランチェスカはわかっていた。
しかしチハはというと、そんなことはなかったはずだ。
彼女がさかのぼって調べても、北翠の政略結婚は前例がなかった。
ふっと湧いた異人と結婚する選択肢など、かつての北翠にはなかったのだ。
もっと自由であればいい。どうか自由でいて欲しい。
少年の清々しい心根を感じれば感じるほど、フランチェスカは己の存在が嫌になる。
同じ王族として情を感じるからこそ、自分のことなど背負わずに、この少年にはできるだけ我儘に生きて欲しいと願ったし、また彼にはその資格となる若さがあると思えた。
回廊を数歩先行くチハ王は、フランチェスカに歩み寄らなかった。
下手に慰めないかわりに、気を悪くすることもなく、彼は率直に言った。
「そういうなら、フランチェスカ妃はもっと自尊心をもつべきだ。謙虚であることは美徳だが、先ほどの発言は王族の持つべき精神には相応しくない」
そうして、ふむ、と考える素振りを見せ、鷹揚に笑った。
「第一、私は欲深くないわけじゃない。王妃よ、今夜は君の部屋に伺うから、寝ずに待っていなさい」
フランチェスカは自分の眼球がぐっと張り出るのをこらえられなかった。
聞き間違いかと思い侍女の方を見やると、マルタもまた主人の顔を見て口を半開きにしている。
「先に戻るぞ。私にも準備というものがあるからな」
準備。今夜の準備。
混乱したフランチェスカがおそるおそる視線を戻した先には、自分の王らしい口ぶりに満足げに頷く、まぎれもない少年がいた。
次話よりぽんぽん進みます……!