1.みゆき
埼玉県朝霞市で行われる市民祭り『彩夏祭』の中の『関八州よさこいフェスタ』は、本州で一番古いよさこい祭りだ。発祥地高知のよさこい祭りと札幌のyosakoiソーランに比べれば、ひどく地味になる。そしてこの地域の人は、よさこいを踊ると言わない。鳴子をやる、と言うのだ。鳴子っていうのは音具であって、踊りの種類じゃない。けれど踊り子たちは言う。
「鳴子やってるんです。一緒にやりませんか」
※※※※※
ベランダの鉢の葉を、返してみる。草葉の蔭って、どの葉っぱの蔭なんでしょうね。それを言い遺して行かないなんて、なんて不親切。まあ、本人が一番驚いたんだろうから、仕方ないか。
だってさ、前の日も演出の打ち合わせに行ってたじゃない。来年の曲ができたんだーって嬉しそうな顔して。それが一体、どうしちゃったっていうの?
ああ、過去形になってる。認めちゃったんだな、私。いないんだって認めちゃってるから、過去形になったんだ。だけどまだ理解も納得もしたくなくて、葉っぱの裏を確認したりして。バカなのはわかってるけど、どうしようもないじゃないの。
せめて子供でもいれば良かったのかしら。結婚する前から私が不妊なのは言ってあった。だけどあの人は言ったんだ。子供を作るとか作らないとかじゃなくて、私と生きたいんだって。それはとても素敵な言葉で、私はあの人にとても感謝した。
ふたりで始めた生活なんだから、終わらせるのもふたり同時にすべきだったんじゃないの? 片方だけ先に離脱なんて、不公平じゃない。
仕事から帰って空を見上げると、頭の中にとりとめがなくなってしまい、気が付くとベランダに座ったまま夜半過ぎている。毎日何時間外にいるかも、よくわからない。
ある日職場で貧血を起こし、自分が食事を忘れていたことに気がついた。そういえば、帰宅した後にベランダに出て、シャワーを浴びて寝るって過程の中に、食事は組み込まれていない。おなかが空いたねと言いあう人はいないし、遅くなった日に出来合いを買って帰った方が良いのかと確認する相手もいない。だからつい、忘れてしまうんだ。道理でスカートが落ちてくると思った。体重は測っていないから、痩せたって自覚もなかった。
リビングのソファで毛布に包まり、眠る。寝室では眠れない。横を向くと空のベッドがそこにあり、ずいぶん帰宅が遅いなと錯覚するから。それが錯覚だと気がついたときの絶望感が怖くて、自分のベッドが使えない。レイアウトを変えようと思うたびに、帰ってきた人が驚くかなと思い、帰ってくる人はいないのだと、また自分に言い聞かせる繰り返しになる。玄関で物音がするたびに腰が浮く。おかえり、のおまで発音して、隣の家の玄関の音だと気がつく。
誰におかえりと言うつもりだったのだろう? 誰が鍵を開けて帰って来るのだと。あの日から、この部屋の中では失われてしまった言葉。自分が帰宅して灯りを点すとき、無意識に出る『ただいま』もまた、他の声では聞かないのだ。
あの人は、帰ってきていないのだ。帰宅すれば必ず、ただいまと挨拶する人だったのだから、それがないということは、帰ってきていないのだ。あの人だと伝えられた四角い箱は、確かにそこに在ったけれど。そして毎日それに向かって線香を焚き、花を飾ったけれど、在っただけ。だってそれが、あの人だと感じたことなんてないもの。だから納骨するときも、目の前から消えただけだと思った。
断片でしか覚えていない。あの人の電話番号から、あの人ではない声の連絡があった日。朝食を一緒にとって、一緒に家を出た。職場でランチの相談がはじまるころに、奥さんですかと確認の言葉があった。
すぐに駆け付けた病院で、何か言われた記憶がある。あの人の両親と兄が大声で名を呼ぶのを、まるでガラスの向こうにでもいるような感覚で聞いていた。
黒い着物を着せられて、一番前の席で読経を聞いた。最初の焼香は私だった。横たわるあの人を花で埋めた。あの後、私は挨拶をしたのだろうか。何をどのように話したのだろう。
壺は彼の実家のお墓にある。四十九日って行事で納骨して、なんだか保険とか銀行とか、業者の言う通りに書類を集めて、遺産相続っていうのもあったな。ご両親が、あなたが生きるために残されたお金なんだからとか言って、受け取らなかったお金。目の前で流れて行く書類を、黙って見ていた。次は次はと誰かが段取ってくれたのを、ただ受け入れただけだ。
夜の空にあの人がいるわけじゃない。葉の蔭に隠れているわけでもない。遣り過すだけの時間が過ぎて、また気がつくとベランダで空を見ている。
自分に言い聞かせても言い聞かせても理解も納得もしたくなくて、けれど理性では認めているから、心と頭が乖離していく。こんな風に混乱しそうなとき、私を統合して整理する役割だった人がいない。
――少し、歩こうよ。
そう言って私に外の空気を吸わせ、泣き言を吐き出させてから言うんだ。
――ちゃんと理解してるじゃない。じゃ、この先どう進みたいのか希望はある?
進む先が見つからないの。同じ場所に進むはずだった人と相談しながら決めるはずの事柄は、どうしたら自分だけの判断になるの?
▽
子供を産むことができないからと、結婚に繋がる恋愛をすべて否定し、自分名義のマンションを買った。二十代最後の年で、通勤の条件の良い場所だというだけの土地だった。昼間は都内に通うのだし、実家へも一時間程度で行ける。内見で訪れたとき、駅から歩ける大きな通りのケヤキ並木がとても美しくて、ここを自転車で走りたいと思った。
引っ越したマンションの近所には小規模な幼稚園があり、花壇が美しく整備されていた。日曜日に時折、若い男の人が花を植え替えたり肥料を鋤きこんだりしていて、用務員か幼稚園の経営者の親族なのだろうと考えた。
冬の花壇から春の花壇に模様替えになるころ、通り道のコンビニエンスストアに『踊り子募集』のポスターを見た。和服っぽい衣装の人が、何人もで汗を飛び散らせている迫力のショットだ。何の踊り子だろうと目を留め、よさこい踊りってどういう踊りなんだろうと思いながら通り過ぎた。私は身体を動かす趣味はないし、ポスターは何か『青春!』と叫んでいそうな体育会系のノリを思わせる。好きな人は好きよねぇと思っただけだ。
その後にも他のポスターや市の広報紙、フリーペーパーでたくさんのチームがあることを知った。そこでやっと、ここの市民祭りがそういうものなのだと理解したくらいで、こんな何もない地域にも何かあるものだと感心したりした。
コンビニエンスストアまで遅い朝食を整えに行ったとき、幼稚園で花壇作業をしていた作業着姿の人が入ってきた。正面からその人を見たのははじめてだったけど、何故か既視感があって二度見して、目が合った。
「どこかでお会いしましたか」
声を発したのは向こうが先だ。
「わかりませんが、何かお顔に見覚えが」
返事すると彼は小さく笑って、窓を指差した。
「そのポスターを見たばかりなんでしょう」
言われてポスターと見比べると、確かに中心に彼がいた。思わず笑ってしまい、それが出会いになった。
「鳴子、やりませんか。一度見学に来てください」
自分で踊る気は毛頭なかったけれど、時間が空く日曜日の夕方からの練習を見学するのは、一度くらいなら良いと訪れた。
彼が幼稚園の関係者でなく、市内の大きな園芸専門店の息子だと知ったのは、つきあい始めてからだ。
私の興味の範囲から外れていたので知らなかっただけで、あのころは空前のよさこいブームだったのだ。朝霞にも市外からたくさんのチームが来て、祭りには望遠レンズを抱えたカメラマンが押し寄せた。特定のチームを追いかけるファンや、批評家よろしくブログに感想を書き連ねる人が続出した。
その中でチームを束ねていくのは、さぞかし難儀だったろう。私は十年間、それを眺めていただけだったけれども。
▽
明日の晩は前夜祭だ。若いリーダーから、来てくれと連絡があった。数年毎に幹部を若い人たちに引き継ぎながら、年上のメンバーが運営をサポートするスタイルを導入したのは、あの人の案だと聞いたことがある。人を育てていくチームにしたいっていうのは、自営を継ぐ覚悟のあらわれだったんだろうか。結局跡継ぎを失った義父の背は、一回り小さくなった。
十ヶ月近く、誰かが部屋に訪れるのを拒んでいた。仏前にご焼香をと言われるたび、思い出話になるのが怖くてお断りしていた。
この部屋にあの人がいたころは、チームの何人かが食事したりお酒を飲んだりしていたけれど、もう一度誰かが訪れると、その中にあの人がいないことを確認してしまいそうで怖かった。そのことで、何か言われていることは気がついている。私より長くつきあってきた人が、たくさんいる場所なのだ。仏前に花を供えたい気持ちも、気配の残っている場所で偲びたいのも理解できる。理解できても受け入れられない私は、ひどい女なのだろうか。あの人だってもしかしたら、知人が訪れて偲んでくれることを望んでいるかも知れないのに。
「ノリさん、いますから!」
誘い言葉はこんなだった。
「ノリさん、ステージにいますから。みゆきさんに演舞見せたいはずですから」
彼がお墓に何度も訪れてくれているのは、知っている。私が行く前に供えられた新しい花、磨かれた墓石。チームの人たちに、それほど慕われていたのだ、彼は。
だから私も、せめて彼が大切にしていた繋がりを見届けに行かなくては。ステージのセンター近くで踊るあの人は、もう見ることができないけれども。そしてそれを確認して、私はどうなるのか怖いけれども。
北朝霞の駅から先は、華やかな衣装の渦だ。この日のために髪に色を入れている子供たち、お化粧に趣向を凝らしている女の子たち、前掛け股引きに長半纏で威勢の良い青年たち。この中に、あの人がいるはずだった。何故あの人のいない彩夏祭を経験しなくてはならない? 私が何をしたというのだ。子供を産めない女が人生のパートナーを作ろうっていうのが、そもそもの間違いだったのか。
目の前を、揃いの衣装を着た親子連れが通り過ぎる。あの人はこんな幸福を持って良い人だった。それを得させなかったのは、私か。駅から会場の公園に行く道で、立ち竦む。
「みゆきさん、来てくれたんですね。さ、行きましょう」
気がつけば、チームの衣装を着た青年たちに囲まれていた。彼らもまた、演舞前の移動中なのだ。囲まれたまま会場に到着し、サポート部隊のカットソーを着た人たちに引き渡される。サポート部隊はチームの給水や救急を引き受ける重要な存在で、踊らないながらも一員であることに変わりはない。
踊り子が舞台袖に移動を始めると、行くよと肩を抱かれて観客席に移動した。
野球場のある公園に設えられた大きな舞台は、眩しいくらいに輝いている。百人前後の踊り子たちがここで舞うのだ。知っている顔の応援をする人、純粋に踊りを楽しむ人、一定のチームを追いかける人。観客席にもさまざまな人たちがいて、そこにもあの人の姿はない。目は舞台に向いているのに、自分の脳内を覗き込むことに必死で、誰がどう踊っているのか見てもいなかった。
「行くぞ雷神! 嵐を巻き起こせ!」
いきなり聞き覚えのある声出しさんの声で、我に返った。雷神―Rising―の演舞が始まる。ノリさんいますから、と言った彼は、あの人の立ち位置を空けてくれているんだろうか。必死で目を凝らしても、あの人の姿は見えない。やはりいないのを確認しただけだと項垂れるところ、だった。
「暴れろ暴れろ! 武州の空を駆け巡れ!」
ノリの声! 思わず立ち上がった。舞台にはいない、声出しブースにもいない。だけどあれはあの人の声だ。隣に座っていた人からシャツを引かれ、慌てて座る。目を皿の様に見開き、舞台を見る。
踊り子の間を縫って、中旗が走りこんできた。群青の旗に黄色でチーム名の、いつもの旗じゃない。よく知っている筆跡で、チーム名じゃないものが染められている。薄青の旗にオレンジ色で『則之』の文字。あれは、あの人の筆跡だ。一時激しく踊ってから走ってはける旗士は、あの人の幼馴染。
いたね、ノリ。草葉の陰じゃなくて、こんなところにいたの。誘ってもらわなかったら、会えないところだったじゃないの。バカね、いろいろ詰めが甘いんだから。
途中の煽りの声は、たまたま残っていた打ち合わせ中の録音を、音響担当が入れ込んでいたらしい。あの人が愛した祭を、私もこれから愛していこう。ここはあの人の青春の場所なのだから。