深煎り珈琲とガトーショコラ
例えば駅近くの繁華街から少し離れた、人通りが減った小さな路地。
車も通れないような狭い道の先に民家に紛れて、控えめに掲げられた看板があるとしたら。
そしてそれが飲食店を表すものであり、尚且つ高級店でもなさそうだとしたら。
ほとんどの人は興味を持ちつつ、その場を素通りするだろう。そうでなければ興味すら示さないか、そのどちらでもなければ興味の赴くままに店の扉を開くか。
最近この辺りに引っ越して来たばかりの青年直樹は、こんな店にこそ、常以上の興味を示す人間であった。
外観は濃いブラウンの木造になっており、趣のある古民家を現代風にリノベーションしたようにも見える。左右の家と比べて小綺麗であることと、小さな看板にうっすらとライトが灯されていることだけが、店らしい。
その看板には『喫茶 ひととき』という文字だけが書かれていた。
「ユキト、喫茶店だってさ。入ろうぜ」
小さな連れに向かって直樹は声をかけた。自分一人であれば、迷いなく足を向けるのだが、さすがに黙って決めるわけにはいかない。
「さっきまで久しぶりの休みなんだから、さっさと帰って寝たいとか言ってなかったか?」
「こんな時間から寝るんじゃないってユキトが言ったんだろ? だから入ろうぜ」
「僕の言うことを聞いたみたいな言い方をするんじゃない。自分が珈琲を飲みたいだけだろう」
文句を言いながらもユキトは拒否するつもりはないのか、直樹が指差した店をじっと見た。
「だってほら、めちゃくちゃ美味しそうな珈琲を出しそうな店だろ? こんなの素通りするわけにいかないって」
直樹は珈琲党なのだ。店の雰囲気だけでも好みなのに、それが喫茶店ともなれば、このまま帰って寝るわけにはいかない。カフェではなく喫茶と表記されているところがまた、口髭を生やしたこだわりのあるマスターがいそうではないか。
「外観だけで美味しそうかどうかなんて僕にはわからないが……。でも確かにいい匂いはするな。いいよ、入ろう」
鼻のいいユキトがすうっと息を吸ってから頷いた。
開店時間内であるかどうかすらわかりにくい店たが、土曜日の昼過ぎであり、看板に灯りがあることから、営業はしているだろうと判断して、直樹は一枚扉を押した。
すると店内に充満していたのだろうと思われる、珈琲のビターな香りにふわりと包まれる。
これは新鮮ないい豆を使っているに違いないと、直樹は期待に胸を膨らませた。
「いらっしゃいませー」
チリンチリンとドアベルが鳴った直後に、明るく落ち着いた声が聞こえてくる。
カウンター内でまだ若い女性がにっこりと笑っていた。
店内はカウンター席が七席と四人掛けのテーブル席が一つという、狭いものだったが、窮屈感はない。懐かしい洋楽のボサノバアレンジが流れていて、この音楽と香りと、外観の印象そのままのコテージのような内装が、昼間の路地裏から一転、別世界に入ったと思わせられた。
所々に壁に設置された小さな棚があり、写真集や旅行本や絵本や小説など様々な種類の本が、空間を圧迫しない程度に並べられている。
「お好きな席へどうぞ」
愛想のいい笑顔を浮かべたまま女性店員が言った。まだ若いが学生というほどではなさそうで、直樹とあまり年齢は変わらないだろう。黒髪をアップにして捩じ込むという清潔感のある姿をしている。バイトなのだろうか。
直樹は迷わず彼女の目の前のカウンター席に座った。別に可愛かったからではない。珈琲好きの直樹はいつも、店員が珈琲を淹れる様子が眺められる場所に座ることにしているのだ。
他に客はカウンター席の隅に一人、恐らくは年輩の男性がいるだけだった。
ユキトも隣の席に跳び乗って高さを調節する。簡単に高さを変えられる椅子を使っているなんて、いい店だと直樹は思う。
「どうぞ」
店員の女性が二人の間にメニューを置いた。
直樹はてっきり珈琲専門店なのだと思ってしまっていたのだが、メニューを見ればそうではないのだと知れた。
紅茶や他のドリンクの種類も豊富なのだ。あとはデザートが数種類とサンドイッチが二種類。
珈琲の項目を見て、直樹は満足の笑みを浮かべた。ホット珈琲が浅煎りと中煎りと深煎りに分かれていたのだ。おまけにオリジナルブレンドという説明書きもある。専門店ではなくとも、それなりのこだわりを感じられる。
「俺、深煎りにする」
「じゃあ僕もそうするよ。直樹、ガトーショコラはどうだ?」
ユキトが指差した先には、テーブル上のポップがあった。手書きの女性らしい字で『本日のケーキ ガトーショコラ』と書かれている。
「疲れているんだろう? 甘いもの……特にチョコレートは疲れが取れるらしいよ」
さっきまで仕事の休みが少ないと愚痴を言っていたので、世話焼きのユキトは気にしていたようだ。だが直樹は甘いものは嫌いではないが、喫茶店ではあまり注文しない。どうしようかと迷う。
「深煎り珈琲ならチョコレート系のデザートはとても合いますよ。おすすめします」
女性店員がセールストークを感じさせない、控えめながら自信のある口調で言った。
珈琲とチョコレートが合うことは直樹も知っているが、彼女が深煎り珈琲ならと限定したことが気になった。
「じゃあそれ貰います。ユキトも食べるのか?」
「僕には量が多いいんじゃないかな」
「ミニサイズもありますよ」
「ああ、なら僕はそっちを貰う」
「かしこまりました」
彼女がメニューを下げて作業に取り掛かった。
静かだった店内に、コーヒーミルの豆を砕く音が響き渡る。沸かしっぱなしになっていたポットから別のポットへ、お湯が高い位置から注がれた。
慣れた手つきに、彼女が店の手伝い的なポジションではないのだと予測がついた。店の規模からしても、この女性が店主なのだろう。
「円錐形ドリッパーですか?」
用意されたペーパードリップ用の器具を見て、直樹は自然と口を開いて、すぐにしまったと思った。
この言い方は何だか自分の知識をひけらかそうとするうざったい客だ。
だが彼女は嫌な顔一つせずに、人懐っこい自然な笑みを保ったまま、そうですと頷いた。
「本当はネルドリップでお出ししたいのですが、あれは管理が大変で。メニューのほとんどが珈琲なら問題ないのですが、ここは他にも色々お出ししていますから」
「ああ、言われてみればネルドリップは珈琲専門店以外では見ないかもしれない」
ネルドリップは淹れ方によって味が左右されやすい反面、技術のある人が淹れればとても美味しく出来上がる。ネルドリップが一番美味しい淹れ方だと断言する珈琲党は多い。もちろんそれに真っ向から反論する珈琲党もいるが。
ちなみに直樹は飲むのは好きだが淹れるのは上手くないので、どの淹れ方が一番かという議論については沈黙を貫いている。
「だから円錐形ドリッパーなんです。これはネルドリップに近い味が出せると言いますから」
「へぇ……」
確かに一般的な等脚台形に三つ穴というカリタ式のペーパードリッパーよりも、円錐形ドリッパーは布製であるネルドリップに形が近い。
話をしながらも彼女は手を止めないので、直樹は口数を減らしてそれをじっと眺めた。
S字型の細く長いポットの口から、ドリッパーの中の珈琲粉へと、そっとお湯が注がれる。
ゆっくりと円を描きながら全体を湿らせると、彼女は一旦ポットを台へ置いた。
珈琲粉が膨らんで、店内の香りが強くなる。
程よく時間を置いてから、彼女はまたポットを持ち上げた。今度は中央にばかり注いで動かさないので、ずっとそうするのかと思えば、また円をぐるぐると描き出した。
これがこの店の淹れ方なのだろう。
コーヒーサーバーへと落ちてくる抽出された珈琲は濁りのない黒だった。
「お待たせしました」
カウンター越しに珈琲カップとケーキ皿が置かれる。
ガトーショコラは生クリームと皮のないオレンジが添えられていた。
直樹はさっそくブラックのまま、深煎り珈琲に口をつける。
予想を超えた美味しさに目を見張った。たった一口なのに深いコクを感じさせて、喉を通ったあとも口の中に余韻と香りが充満している。深煎りなので苦味はあるが苦いわけではない。
どうやったらこの量にここまで味を凝縮できるのかと不思議なくらいだ。いろんな珈琲店に行った直樹が今まで飲んだ珈琲の中でも、確実に三本の指には入る。もしかしたら彼女がネルドリップで淹れたらもっと美味しいのだろうか。
「ああ、これは美味しい」
ユキトが満足げにほうっとため息を吐く。
「ありがとうございます」
店主の笑みが深くなり、嬉しそうなものに変わった。
「うん、ほんとに美味しいですよ」
直樹も慌てて同意する。珈琲だけをじっくり味わいたい気もするが、ガトーショコラもある。おすすめだと言われたからには一緒に食べるべきだろう。
フォークで切って一口大を口に放り込む。あれ、と思い、咀嚼してから珈琲を飲んだ。
「……美味しい」
捻りのない感想が溢れる。
しかし直樹は軽い感動を覚えていた。珈琲とチョコレートがこれ以上ないくらいに、お互いを引き立て合っている。チョコレートの仄かな苦味と珈琲の苦味が混ざり合い、甘さとコクが相乗効果を起こしている感じだ。
珈琲とチョコレートが合うのは知っていたが、スタンダードな中煎りではなく、深煎りにしただけで、ここまで美味しくなるなんて。もちろん珈琲そのものが美味しいせいでもあるだろうが。
「合う。めちゃくちゃ合いますね、これ」
ちょっと興奮しながら直樹は店主へ向かって言った。
「合いますでしょう」
彼女は冗談っぽく胸を張りながらも、くすぐったそうに笑った。
「……ほんとに疲れが取れてきた気がする」
音楽と香りと内装と、そして美味しいもの。全てを総合するなら、ここは直樹が訪れたことのある喫茶店の中で一番かもしれない。
「いい店だね。気に入ったよ。度々来させてもらおう」
ユキトが両手でカップを持ちながら、大きな目を細めて言ったから、直樹は少しムッとした。
「何だよ、ユキト。俺が何度も遊びに来いって言っても全然来ないくせに、喫茶店には来るのかよ」
「それはそれだよ。君はいい加減に子守離れをしたほうがいい」
ずっと年上で、家族でもある小さな友人は素っ気なく言い放った。
「別に子守離れができないわけじゃない。でもユキトは次にいつ会えるか全くわからないじゃないか。スマホも持ってくれないし」
「あんな不粋なもの、僕たちは持たないよ。ちゃんと会いに来ているじゃないか」
「遊びたいと思った時に呼べないなんて友達甲斐がない奴だ」
「君たち人間とは感覚が違うんだよ。友達というのはずっと一緒にいるものではないんだ。僕は直樹の友達であって、子守ではないのだろう?」
「……意味わかんね」
直樹は不貞腐れた。いい気分が台無しだ。
本当は自分たちの常識を彼らに押し付けてはいけないのはわかっている。でも転勤にあたって引っ越しをして、近くに親しい人がいなくなったせいで、どこか不安になっているのだ。
ユキトが自分とは違う存在だからこそ、本心ではどうでもいいと思われていて、いつか会いにも来てくれなくなるのではないかと。
そんな疑いを持ってしまったことにも、後になって落ち込む。
「お客様はここでお友達が来るのを待ってくださるのですね」
突然、店主がそんなことを言った。
彼女はユキトにじっと目を向けている。
「そういうことだ。僕は直樹に会いたくなったらここへ来るよ。美味しい珈琲を飲みながら待っていよう」
言いたいことを代弁してくれた満足感を滲ませてユキトは頷いた。
「……俺の家がどこか知っているのに?」
「家には行かないよ。友達だから」
「……意味わかんね」
直樹はさっきと同じ言葉を繰り返した。だが不安は薄らいでいた。
ずっと昔のことが思い出される。
子供の頃、ユキトとほとんど身長が変わらず、いつも側にいてくれた時のこと。彼が目を細めてとても美味しそうに飲んでいるものに興味を引かれて、直樹は何を飲んでいるのかと尋ねた。当然、自分にも分けてくれるものだと思って。
「珈琲だよ。でも直樹にはまだ早いね」
不満を顕にして拗ねる直樹に、ユキトは苦笑した。
「大人になったら、君にも淹れてあげよう」
ユキトの約束は絶対だった。だから直樹は仕方なく折れたのだ。
あれから成長した直樹は珈琲党になった。
でもユキトと二人で珈琲を飲むことはあっても、まだ直樹はユキトに珈琲を淹れて欲しいとは一度も言えないままだ。
「これから僕に会いたくなったら、この店に来てくれたらいい」
頭の上にある長くて白い耳をひくひくと動かしながら、ユキトは短い指でフォークを掴んで、小さなガトーショコラを頬張った。
「そしたら会えるのか?」
「会えるかもしれないし、会えないかもしれない」
「何だそれ」
「でも美味しい珈琲には確実に会える。そうだろう? 店主」
ユキトは楽しげに赤い目を瞬かせて、カウンターに立つ女性に聞いた。
「はい。いつでもお待ちしております」
答えた後に、彼女は直樹に向かってにこりと微笑んだから、思わず下を向いてカップに口をつけて、何かよくわからないものを誤魔化した。
少しだけ冷めた珈琲は相変わらず美味しい。
「……うん、確かにそれは間違いないね」