第十五話 灰ノ忘レヌ郷ノ魔―Ⅴ
翌日、講技に行く前に少しだけ外出の準備を済ませ、いつも通りに部屋を後にする。講技が終わってから森凱へ向かっても遅くはないだろうと、ガネさんと時間を合わせた。もっとも、講技を中止にしてまで外出する必要もない、というところが本音のようだったが。気の進まないガネさんからすれば、この時間は心の準備時間なのかもしれない。
先日、俺たちの身に起きたことを話したことで、ラオは俺たちのことを酷く心配していた。基本クラスも講技があるようで、講技開始時間まではウィンも一緒に時間を潰している。こういう時にラオを宥めるのはウィンだ。
それでも、俺も行く、みんなで行こう、と何とか自分も加わろうと引かない。ただでさえ警戒が高まっていた後だというのに、更に森凱への訪問者が増えると、面倒なことになりかねない。
しかし、ラオは俺たちを素直に心配してくれている。人一倍他人を心配する性格であることは、重々分かっている。それは幼馴染である俺だけに限らず、教育師にもそうだ。
「ガネさんがいるし、大丈夫だよ」
最終的には、その言葉でラオを納得させた。納得させた、というよりも、無理矢理押し切ったという方が正しいかもしれない。
「ラオは本当に過保護だよね。そんなんじゃ私たちがラオの心配しないといけないじゃない」
「何でだよー」
冗談交じりの会話を交わした後、俺たちはそれぞれ講技に向かった。
ガネさんの講技が終わり、準備が整い次第屋敷を出ることになった俺は、ガネさんの部屋で待たせてもらっていた。ガネさんの準備を待っているのだが、その顔が少し強ばっていることに、何となく気づいた。
本人の中では抵抗があるのだろう。ルノさんが行ってこいと言ったものの、以前は殺し合いになりかけた。誤解や妖気の謎は解けたとはいえ、ガネさんに残されている傷は、深いはずで。
「ガネさん」
「何ですか」
「……あの、さ。大丈夫、だよ」
何が大丈夫なのかと言われたらどう答えよう、と考えながら、ガネさんの眼をじっと見ていた。お互いに逸らそうとしない。ガネさんはしばらく俺を見てから、ふと微笑んだ。
「全く、教え子に心配されるなんて失態ですね。……ありがとうございます」
どこか遠い、それでも、俺に応えようとしてくれたガネさんの眼は、柔らかくて、後ろ向きな影を溶かしたような。そんな気がした。
間もない時間が経ち、俺とガネさんは森凱へ向かった。鈴屑の丘に着く頃には、もう日が傾いて、少しばかり薄暗くなっていた。
現地を見て、魔物の実情に改めて納得したガネさんは、俺が言っていたことに対してより強い肯定を示してくれた。
「これは確かに、処分なんて必要ありませんね。結局、魔には魔ってところですか」
「穏慈がいなかったら、まだ分かってなかったかもな。……あとはここの人たちと一緒に守らないと。あのダイスって人には言ったけど、他の住民には伝わってないかもしれないし」
「はあ。何で僕がこんな役を担っているんでしょうか……」
魔物に接近し、屈んだガネさんは肩を落としていた。表情こそ強張っていないが、根付いたものは剥がれない。“嫌な思い出というのは、どんな記憶よりも鮮明に残っているもの”。そうガネさんが言っていたことを思い出す。
それでも、ガネさんの心底までは見えないが、少しだけ許しているようにも思える。だから俺も、その許された分だけの安心感が、何となく沁み込んできていた。
「さっさと終わらせて帰りましょう。ラオ君が不安がっているんでしょう?」
「あんた聞いてたのかよ」
「そりゃあ広間の前で話しているから、聞こえてきただけですよ」
ガネさんは森凱の中心部に向かい、俺もそれに続いた。夜に近づいているためか、人は少ない。気がかりなのは、あのダイスという男。以前の状態だと、現れてもおかしくはないだろう。ここに来るまでに、少なくとも誰かしらに顔は見られているはずだ。
「どう説明しましょうか。害はないと言っても、多分、ほとんど信じませんよ」
「だよな……。どうしよう」
「何をどうすんだよ」
そんなことを思っていたからかは定かではない。ダイスが、俺たちの後方から姿を現した。
ダイスは自ら、俺やルノさんによって説明を受けたこと、気づいたことを話し始めた。もちろん、俺もガネさんも黙って聞いていた。横目でガネさんを見てみると、その眼は、ダイスから逸らされることはなかった。
「お前たちの話に、矛盾はない。実際、あの場所にも行った。でも、確かに魔物は襲って来なかった。……半信半疑だったけど、やっと間違いに気づけた。時間は、かかっちまったけど……」
予想外だったのは、すでにあの魔物を試していたこと。それはそれで、手間が省ける。そう思って、俺は、あの魔物が生きやすいように、守って欲しいと頼んだ。
ただ、俺たちとは見方が違う人間にとって、魔物を守る、となると戸惑ったようで、口を閉ざした。
「……別に、僕たちと同じ考えに至れるとは思っていません。そもそも、魔物を見る立場が違うので。でも、試したのなら、分かりますよね。あの中心にいる魔物は、子を育てているだけ。餌は土の養分、あの森を育てると考えれば、誰も迷惑はしません」
「頭じゃ理解してんだよ。けどな、こちとら今までのことが全部覆されてんだ。そう易々とはいかねえことくらい、お前らくらいの人間なら分かるだろ」
実際、数日前までは魔物がうろつく原因も分かっていなかったことを考えれば、突然の真相を前に手が止まってしまうことは、当然のことだろう。
「だが、お前らがやろうとしてたこと。ガネ=イッドが生きてきたこと。魔物が増えていたこと。さっきも言ったが矛盾はない。オレは、それを信じなきゃなんねーと……思ってる」
それを聞いて、安心した。それはガネさんも同じだったようで、肩の力が僅かに抜けていた。目の前のダイスは頭を下げて、ガネさんに謝罪をしていた。そして、真実を知ることができて良かったと、礼を言った。
「……深く刺さった刃は、抜くのにかなりの苦を要します。そして、深く抉られた傷は、傷跡を残すことでしか治せない。あなたたちのしたことは、今でも許せません。それが僕を苦しめ、視野を狭めていたことも、事実です」
ガネさんは、抜いた力を入れ直したかのように、眉尻を上げ、伏せ目でそう言った。やはり、和解することは難しいだろうかと、他人の俺は寂しさを感じた。
ただ、その後顔を上げたガネさんの表情を見て、俺は安堵した。
「でも、これだけ時間が経ったんです。僕も少し、大人になるべきだったのかもしれません。当時はまだ子どもで、そんな原因まで知る由もない。大人になってここに来て、僕が敵意をもっていれば、変わるものも変わりませんね……本当に、時間がかかりました」
ガネさんはそれを受け入れ、自分たちの仕事はここまでだと、屋敷に帰ろうと歩を進めようとした。ダイスの落ち着いた表情は、ガネさんと同じように事の経緯を全て受け入れたことを表していた。これで、解決しなかった大きな関係性が修復する方向に向かい始めた。
そう思って、ガネさんに続いて足を踏み出した、その時だ。
大きな地響きと、大きな鳴き声。そして、巨大な妖気。無害な魔物がいた場所ではない。鈴屑の丘から見て、東の方だ。
「何だ……!?」
突然の出来事に、ダイスは治まった警戒心を一気に高め、周囲を見渡す。もちろん、俺も異常事態だということは分かる。すぐにこの状況を把握した様子のガネさんを頼りに、助言を求めた。
「ガネさん!」
「……分かるはずです。地響きで転ばないように、姿勢を低くして。よく感じてください」
ガネさんに言われた通りに、察知することに集中できるようにしてみると、確かな不快さを感じた。
「方向的に、丘の先……あの森に向かってる……?」
ここまで来ていて、逃げる理由もない。
魔物を守ろうという矢先、人間にも被害が及ぶ危機の可能性を考えた俺たちは、先程抜けてきた森に向かった。
「ザイ君、戦えますね」
「もちろん!」
その場に、ダイスを残したまま。俺は鎌を、ガネさんは剣を手に、魔物と、人間を守るために、その腕を振るう。