月が在る場所
商人の娘のくせに愛想笑いすらもできないのか。
いつだったか、そう嘲笑ったのは自分。
追従する忍び笑いを背に、寒々しい色をした双眸はいっそう冷ややかに細められた。
彼女は。顔をゆがめ怒り出すだろうか、あるいは涙を見せるだろうか。
そんな彼の淡い期待も、そして彼女の表情の変化もわずか一瞬のこと。
彼女は、諦めたように顔を伏せて一礼した。
至らず、申し訳ございません。と。
☆ ☆ ☆
ヒュイス王国の王太子であるジェンティアン・ヒュイスは、目を見張った。
その先には、久しぶりにその姿を目にする婚約者――いや、元・婚約者がいる。
癖のない青がかった銀色の髪に、薄青の瞳、白い肌。相変わらず温かみのない容姿。
しかしそこに浮かぶのは、彼がいままで見たこともない柔らかな微笑みだった。
小さな花がほころぶようにわずかで、しかし確かな変化。
それを石だの氷だのと表現することは、到底出来ない。
「笑える、のだな」
思わず呟いた言葉に、側近として連れてきた文官が呆れたのが気配でわかった。
独り言のつもりだったが、しっかり部下の耳に拾われてしまったらしい。
「あんた、まさか婚約者だった女性の笑う顔すらも見たこと無かったんですか」
「………」
王太子はむ、と口をゆがめる。
そして、部下はわざとらしく驚いて見せた。
わざとらしいが、しかし本当に驚いているらしい。ちらりと背後を窺えば、面白いほどに顔が引きつっていた。
王太子である彼の前でさえ飄々とした態度を崩さない憎たらしい部下のそんな顔は、少しばかり面白い。
しかしその口からは、やはりと言うべきかまったく面白くない言葉が飛び出す。
「ええー。まさか本当に?」
「……スマルト」
「誰よりもフロスティお嬢様の笑顔がみられる場所にいたくせに? あんた何年お嬢様の婚約者やってたんですか」
「………」
「うっわーもったいないなあ。だから愛想尽かされるんですよ、このへたれ王子」
耳が痛い。
自国の王太子に向かってなんて無礼な、と悔しまぎれに怒鳴りたくはなったが、ぐっと我慢する。それは負け犬の遠吠えにしかならない。
反論などできない。そもそも口で敵う相手ではないのだ。
この側近、口は悪いし余計なことを遠慮なしに喋る。しかしそれを承知で側に置くと決めたのは、ジェンティアン本人である。
この男は、心にもないお世辞と嘘だけは言わないから。
ましてここは彼の居城ではなく、ヒュイス王国領内ですらない。
隣国クロムの王城であり、彼はヒュイスからの代表。むやみに声を荒げ、悪い意味で注目を浴びるわけにいかないのだ。
これは祝いの宴。
件の令嬢フロスティ・レイズンと、クロムの第三王子ヒーザー・クロムの婚約披露の場なのだから。
☆ ☆ ☆
フロスティ・レイズンは、かつてヒュイス王国王太子ジェンティアンの婚約者であった。
とっくに破談になった話である。
彼女との婚約を一方的に破棄したのは、ジェンティアン。
公の場で、いかに彼女が王太子妃としてふさわしくないかを声高に叫び、その父である当時の宰相オーキッド・レイズンの専横ぶりを糾弾した。
フロスティ・レイズンは、その場にはいなかったものの、後日婚約破棄を粛々と受け入れた。そして彼らは国を出たのだ。
だから側近スマルトの言葉は少々おかしい。婚約の破棄を突きつけたのはこちらだったのだから。
が、結果として愛想を尽かされたのはやはりこちらなのだろう。
かつて宰相派と呼ばれた側である頭のきれるこの側近も、もちろん承知している。その上でこちらを貶しているはずなのだ。
大勢の見守る中で披露したレイズン親子の罪は、全てがでたらめだった。
それはオーキッドとその側近たちによってすぐに論破され、覆され、断罪者たちがぐうの音も出ない程完全に潔白を証明してのけた。
おそらくこちらの稚拙な動きなど、彼らにはお見通しだったのだろう。それほどに的確な反撃であった。
国王陛下主催の夜会で、国王の信頼厚い宰相を無実の罪で陥れようとしたのだ。逆にこちらが糾弾されても文句は言えない状況だった。
ジェンティアンがいまだ王太子でいられるのは、他に国王の座を継ぐ者がいなかったから。ただそれだけの話だ。
それが幸か不幸かはわからないが。
勢い付いた宰相オーキッド・レイズンとその一派は、これまで以上に我が物顔で振る舞うに違いない。
そう思っていたというのに、しかしレイズン親子はその後、ヒュイス王国を去る。
拍子抜けするほどにあっさりと。引き留める間もないほど速やかに。
“彼ら”の、思い通りに。
狡猾な商人親子に国を乗っ取られるくらいなら、多少でっち上げてでも罪を公にし排除するべきと思っていたし、周囲からもそう言われた。令嬢フロスティとの婚約が婚姻に変わる前に、と。
彼の知る宰相親子は、もっとヒュイス王国に、権力にしがみついてくるはずだった。
ジェンティアンが、諸悪の根源と信じていた彼らに違和感を持ったのは、この時。
ところが、彼らは国にも立場にも何の執着も見せなかった。
むしろ宰相位を捨ててさっさと商人に戻りたかったなど、王太子妃位に執着がないなど、到底信じられなかった。
父王にも苦々しく指摘され、呆然とする。
やがて、思い至った、
かたや自国の宰相、かたや自らの婚約者。
にもかかわらず、ひたすら目の敵にして向き合おうとせず避け続けていた自分が、彼らの何を、知っていたというのか。
なぜ、決めつけてしまったのか。
権力にしがみつくのが当たり前と考えていたのか。
少しでも考えれば、分かることだった。
彼にすり寄る者たちが、そんな人間ばかりだったからだ。
自身がそうであるから、彼らはジェンティアンにそう吹き込んだ。
そして都合の良い答えをくれる彼らをこそ、ジェンティアンは重用したのだ。
結果として、ヒュイス王国は有能な宰相を失い。
傾きかけていたヒュイスを建て直すべく彼と父王が成した悉くを無駄にしてしまった。
知らなかった。
自分が詰った父王や宰相が、国で何を成したのかを。
彼女の、氷のように頑なだと思っていた薄い色の瞳が、春の青空のように和らぐことを。
揺るぎのない信頼と確かな愛情を込めて誰かを見つめる眼差しが、あれほどに甘いことを。
知ろうとも、しなかったのだ。
☆ ☆ ☆
フロスティが、ジェンティアンに気付いた。
薄青の瞳が、わずかに見開かれる。
浮かべていた穏やかな笑みが、温かみを失っていく。
朽ちた木の葉が深い水底へと、ゆるやかに沈んでいくように。
やがて現れたのは、諦めに似た無の表情。ジェンティアンが実に見慣れた、氷の顔だった。
彼女の変化に気付いた人々が、ひそ、と互いに遠慮がちな言葉と視線を交わしつつ、右へ左へと分かれる。
踵を返すことは許さないとでも、言うように。
「これは、ヒュイスのジェンティアン王太子殿下」
彼の名を呼んだのは、彼女に寄り添うヒーザー・クロムだった。
口調は穏やかだが、こちらを油断なく見据える黒の双眸は笑っていない。
優しく彼女の腰を抱いたまま、隠すようにしてさりげなく半歩前へ出る。
あからさまな警戒ぶりにジェンティアンは驚き、そして思わず笑いたくなった。そう、これは当然の反応である。かつて自分は、自分の勝手な都合で彼女を、ヒーザーの婚約者を傷つけたのだから。
「このたびは、ご婚約おめでとうございます」
この場にふさわしい、当たり障りのない挨拶を彼が口にすれば、様子を見守っていた周囲がひそやかに会話を交わす。
慣れているはずの、注目。それがこんなに居心地の悪いものだとは。
思わず目を伏せかけたとき、ヒーザーが鷹揚に頷いた。
「ありがとう。あなたにそう言われるのは光栄です」
年齢にさほどの差はないはず。
だが、そこには人の上に立つ者特有の貫禄がみえる。
親しみやすさはそのままに、以前ヒュイスで見かけたときには持ち得なかった落ち着きが、クロムの第三王子には備わっていた。
ヒュイスの王太子は、内心で唇を噛む。
「殿下も新たにご婚約を結ばれて一年」
ヒーザー・クロムが口の端を持ち上げる。
にこやかに穏やかに。しかし絶対に油断のならない眼差しで。
「そろそろ婚儀の準備を始めておられるのでは?」
「………ええ。いずれ、しかるべき時に」
いずれ。
ヒーザーの問いにそう答える事しか、ジェンティアンにはできなかった。
それがまだ先であることは、彼に女性の同伴者がいないことでも明らかだ。
現在の婚約者であるローズ・マルベリーをクロムへ連れて来ることはできなかった。前婚約者であるフロスティ嬢に配慮したことはもちろん、なによりローズ嬢の立居振る舞いに難ありと国内で許可が下りなかったのだ。
ヒュイス王国の顔として彼女を王太子に同伴させることはできない、と。
おそらく、ヒーザー王子は知っているのだろう。
ちくりと刺された言葉のトゲに、彼は嘆息するしかなかった。
半ば王子の後ろに隠されたフロスティ嬢は、ただ黙って軽く頭を下げた。
ほかの招待客たちに対するものと同様の、完璧な略式礼。
そこには、あたたかな表情だけが欠けていた。
☆ ☆ ☆
「及第点でしょうね。お互い」
「……スマルト」
いやーよかったよかった、と笑顔でワインを煽る側近に、ジェンティアンは恨めし気な眼差しを向けた。
「フロスティ嬢は一言も話さなかったのだぞ」
「それでいいんですよ。大体なにをしゃべれっていうんですか」
悪いのはこっちなのに。
容赦のない物言いに、ジェンティアンはぐっと詰まる。
「あっちが下手に出る必要はまったくないですからね。まず身分は同じ王子でも、国力はまったく違う。なによりここはクロムで、向こうはクロムの王族直系、こっちはただの客のひとり。本来なら招きたくもなかっただろうけど、外交上の都合で仕方なく招いた客」
ヒーザー王子よりもよほど辛辣で遠慮のない突っ込みが、ジェンティアンを襲う。
実際のところ、大国クロムはヒュイスとの国交を断絶しても大した損にはならない。
が、クロムがそっぽを向けば、周辺の国々もクロムの顔色を窺い、ヒュイスから遠ざかろうとするだろう。
そうなれば、傾きかけたヒュイスはおそらく倒れる。
問題は、倒れた後だ。
誰かが王に取って代わるにしろ他国が攻め入るにしろ、確実に荒れるだろう。
そして流れてくる移民の対応やら犯罪者の取り締まりの必要やら、影響を受けた国内の不穏分子の活性化やらと、クロムは多大な迷惑を被るのだ。
だからこその、ヒュイス王国招待である。
「フロスティお嬢様だってもうあなたの婚約者でも、あなたの国の重臣の娘でもない。ヒュイス国民でさえないんですから。むしろどこかの誰かさんみたいに、こんな大きな夜会で声高に罪を暴露されて謝罪を要求して来たって文句言えないんですよ。しかもどこかの誰かさんがやらかしたみたいに言いがかりでも冤罪でもないでしょう。ええ、どこかの誰かさんみたいにね」
「………」
スマルトは手の平で、ワイングラスをゆらゆらと回す。
“どこかの誰かさん”本人の自覚があるジェンティアンは、口をつぐむしかなかった。
ヒュイスが倒れると面倒くさい事この上ないが、倒れても対処はできる。
少なくともクロム王国軍の将軍職を務めるヒーザー・クロムには、その用意があるのだろう。
例えばこの場でフロスティ嬢が怯えるかあからさまな嫌悪を訴えていれば、ヒーザー王子は礼儀も何もかもかなぐり捨てて退出していただろう。事前に申し入れた謝罪のための面会も断られていたから、その可能性とてじゅうぶんにあった。
王子だけではない。フロスティ嬢もそれが分かっているからこそあえて口をつぐんでいるのだろう。
「笑って許さず、なおかつ無下にもしない。これはお嬢様の最大限の譲歩でしょうね。それをヒーザー殿下が尊重して下さったと」
あーもう、ほんと先の読めるオトナな方々で助かった。
わざとらしく胸を撫で下ろす側近を横目に、ジェンティアンは苦い顔をした。
笑って許されるどころか、元婚約者の笑顔ひとつで驚くジェンティアンである。
昔から彼女は彼に対してにこりともしなかった。当時は、侮られていると腹を立てていたものだ。
しかし今ならわかる。彼女は、無表情にならざるを得なかったのだと。
現に、明らかに歓迎されてなどいない、侮蔑と好奇の視線にさらされた自分は、形だけの笑みを浮かべる事すら難しいのだから。
仮にも婚約者にそんな思いをさせていた自分は、やはりどうしようもなく愚かだったのだろう。
おもえば、邪険に扱われていながらも彼女はずっと誠実だった。
こんな不誠実な婚約者に対してでも誠実で、従順だった。浮いた噂も黒い噂も、すべてはただ彼女を貶めるための嘘で。
あるのは周囲の嫉妬とやっかみだけ。それだって彼女は、受け入れじっと耐えていた。
……たったひとりで。
本来であれば、婚約者であるジェンティアンが支えるべきだったのに。
いま、彼女を守るように寄り添う、ヒーザー王子のように。
さてと、とスマルトが空になったグラスを置く。
独特の酸味と渋味があるワインだが、あっという間に飲み干した彼の顔はこころなしかサッパリしていた。
「じゃ。おれはオーキッド様のところに行ってきます」
「なっ……!」
あ、あとは適当にやって下さい、とひらひら手を振る側近。
ジェンティアンは思わず声を上げた。
「お前、さんざんわたしに言っておいてそれか!」
「おれは王子と違って気まずいことなんかないんで!」
オーキッド・レイズンは、会場の端で人々に囲まれていた。
本日の主役ひとりであるフロスティの父親とあっては当然だろうが、その表情にヒュイスにいた頃の厳しさはない。先ほど、警戒したような突き刺さる視線をもらってしまったが、それだけだ。
彼もまた娘と同様、彼に何か言ってくることはなかった。
もはや関係ない。おそらくはそういう事だろう。
かつてヒュイス王国の宰相まで務めた彼だが、現在はレイズン商会の長として精力的にあちこち飛び回っているらしい。
もともとが商人であった彼は、父王から聞いた通り本当に一介の商人に戻ってしまったのだ。
ぜひにと請われてたまにヒーザー王子やクロム国王の相談役も引き受けているそうだが、政治家として表に出てくることはない。
もちろん、裏から牛耳っているなどという事実もない。
ヒュイスにいた頃よりも明らかに生き生きした様子から、それが本望だったのだろうと嫌でも察しがついた。
スマルトは、もとはオーキッドの部下である。
一文官に過ぎないはずの彼を見て、オーキッドはすぐに彼の名を呼びにっこりと笑った。
ジェンティアンが側近に取り立てるまではさほど高い役職に就いていなかったので、それほど元宰相に近いわけでもなかったのだろう、と思っていたのだが。
この男、よく残ってくれたものだ。
しみじみと思う。
味方とばかり思っていた者たちにいいように利用され、宰相派と呼ばれていた者たちに愛想を尽かされ。
ようやくそれに気づいて無力感と自責の念に身動きが取れなくなっていたとき。呆れたように声をかけてきたのが、スマルトだった。
決して甘い言葉ではなく、むしろかなり辛辣なものだったのだが。
そのときのジェンティアンには、それを不敬だと怒鳴るほどの気力も残っていなかった。
現在。彼は、スマルトや他の部下たちの助けを借りて、ヒュイス王国の立て直しを図っている。
父王と和解し、彼や前宰相オーキッドらが積み重ねてきたものも――一度は安易に壊してしまったものの欠片だが――少しずつ拾い集め、組み立てながら。
謝罪は不要。彼らからはそう告げられた。
謝って全てが元通りになるというのなら、公私を問わずいくらでも頭を下げてみせる。しかし、事態はすでに謝って済む程度のものではなく。
それを向こうも、そしてジェンティアンも身に染みていた。
それでも感情的な部分でおさまりがつかず。
罪悪感から少しでも楽になりたいという彼の弱音すら見透かしたように、謝罪の申し入れは断られた。
甘えてんじゃないですよ、とスマルトには小言をもらってしまった。
まずは己の傲慢と無知が招いた混乱をおさめ、国を建て直す。
せめてかつて以上の国力をヒュイスにつけた時には、彼らに謝罪ではなく感謝の言葉を伝えたいと思う。
それくらいは、許されるだろうか。
決して安易な道ではない。
しかし二度と目を逸らさない。
彼は自らが引き起こした現実を見据え。ぐ、と奥歯をかみしめた。
読んでいただき、ありがとうございます^^
8/5 コレの後のお話(フロスティとヒーザー王子サイド)をオマケとして投稿しました。
http://ncode.syosetu.com/n0693ee/
検索除外になっていますので、シリーズから探して下さいませ。
以下、読まなくてもいいですが。
あとがきのようなもの↓↓↓
「ぬるい!」とかいう声が聞こえてきそう・・・
もっと明確なざまあとか、ヒュイスの滅亡エンドとか期待していた方もいらっしゃるかもしれませんが、まあ最初からぬるい話だったので、こんな最後でもいいかな、と思っております。
ジェンティアン王子にとっては、引退でもして、ローズ嬢とつつましく穏やかに生活できたほうが幸せだったかもしれません。
でも、逃げは許しませんよ。
自分のやったこととちゃんと向き合って、自分のやったことの始末を付けてもらいます。
さっさと死んだり追放されたりするより、精神的にはきついと思います。
まだまだひよっこですが、これを乗り越えれば、もしかしたらいい王様になれるんじゃないでしょうか。
これで「月がかくれるとき」のシリーズは完結とさせていただきます。
全部読まれた方、続きを待って下さった方(・・・まだいるかな)、ほんとうにありがとうございました。
ではまた。