805.「チープ・ナイトメア」
胸の左側が大きく、そして不規則に鳴っている。さっきまで仲間の立っていた場所には、ささやかな砂山があるだけ。
人が砂になるなんてありえない。そんな異常が目の前で起こったのだ。
右手の指先をゆっくりと腰に運ぶ。本来そこにあるべきはずのサーベルの感触はなかった。
深く長いまばたきを何度繰り返そうともハックたちの姿は戻らず、景色に変化もない。靄が白々と周囲を曖昧に隠しているものの、滑らかな白骨も切り立った崖もキチンと存在している。時間の流れに生命感を濾しとられた静謐な腐臭も、依然として鼻に入り込んでくる。
不意に手が握られた。ちょうど斜め後ろのあたりから。先ほど同様、やけにひんやりとした小さい手だ。手付きや力の具合からは、なんの物怖じも感じられない。
それを合図に、シャツの裾、太腿、腰を次々といくつもの小さな手に掴まれた。ちらと視線を下に向け、すぐに顔を正面に戻す。さっきはなにも見えなかったし、見ようとした瞬間に感触が消えたけれど、今度は違った。
わたしの身体に伸びるいくつもの細く白い手を、バッチリ見てしまったのである。それらは地に落ちた白骨のごとく滑らかな白に染まっていて、ほんの一瞥でも生者のそれとは異なることを把握出来た。
決して気分のいい思い出ではないけれど、騎士時代は何度も同僚の亡骸を弔ったことがある。比較的損壊の少ないものは遺族に渡すことになっているのだけれど、とてもじゃないが見せることの出来ない遺体がほとんどで、そういった場合には遺品のみが遺された者の手に渡るようになっている。その役目は決まって騎士団長が負っていた。遺族の反応は、わたしにもだいたい想像出来る。泣き崩れる者。行き場のない怒りを吐き出す者。虚ろな目で、なんとか一度の頷きを返す者。あるいは、慰藉としての金貨を受け取って卑屈な感謝を述べる者。そうした遺族たちと相対するのは――たとえそれが絶対に必要なことであったとしても――並々ならぬ負担だったと思う。
もちろん、生き残った騎士にもそれなりの役割があった。亡き者の埋葬は生きている者にしか出来ない。弔いは生き残った騎士にとって重要な仕事である。
ふと思い出したのは、一本の腕を埋葬したときのことだ。その騎士は、腕以外になにも遺らなかったのである。キマイラ相手に勇猛に突っ込んで、そして、腕以外すべて敵の胃袋に消えた。
勇敢で屈強な同僚。その腕は生きていた頃の活力を一切喪失した、生白い物体だった。
さきほど視界に入った腕も、その同僚と同じく、生命の欠片もない不自然な白さを持っていた。
たぶん、ハックたちが消える前にそれを目にしたのなら、わたしは跳び上がって悲鳴を上げ、みっともなく取り乱したことだろう。もしかしたら泣いちゃったかも。なんて。
小さな手は、不揃いなリズムでわたしの服や手足を引っ張っていた。よろめくには程遠い、ただただ気を引くだけの力である。
「わたしになにか用でもあるの? だったらハッキリ伝えて頂戴。でなきゃ分からないわ」
峡谷に響き渡る自分自身の声は、ありがたいことに少しも震えていなかった。これで多少なりとも不安定な声になっていたら付け込まれてしまうだろうから。
ピタリ、と手の動きが止まった。どうやらわたしの声は届いたらしい。
誰に?
決まってる。
この馬鹿げた幻覚を作り出した奴に、だ。
砂になった仲間。消えたサーベル。身体を掴むいくつもの小さな手。ここまで異常が重なってなお、それをオバケだのなんだのと戦慄するほどわたしは素直じゃない。
普通ならありえないこと。それを可能にするのが魔術――あるいは呪術だ。
『アアアア……』
野太い鳴き声が周囲に響き渡った。それは峡谷のずっと先で鳴っているようにも、すぐそばで呻いているようにも聴こえる。呻吟に共鳴するかのように、小さな手が激しいリズムでわたしを平手で打つ。ペタペタと。先ほどと同じく、力は強くない。ただ、その狂気的な速度はなんとも薄気味悪かった。
ふぅん。
あくまでも対話をする気はないってことね……。
こちらの声は相手に届いている。それは状況の変化で明白だ。
洗脳や幻覚の魔術について、わたしはそれなりに経験してきた。そのどれも苦い記憶だけれど、こうして今落ち着いていられるのがそれらのおかげなんだから、まあまあ感謝しなければならないのかも。
ハルキゲニアの、カエル頭の魔術師ケロくん。『鏡の森』の支配者グレガー。いつか二人に再会する機会があれば、今日のことはちょっとした土産話になるだろう。あなたたちのおかげで妙な魔術にかけられても堂々としていられた、と。
「あなたの魔術、随分とあからさまなのね。ただ脅かしたいだけの魔術だって言ってるようなものよ。もっと直接的なことをしてみなさいよ」
呻き声が絶え、小さな手の感触が消えた。相変わらず分かりやすい。
周囲の様子に注意を払っていると、再び変化が起きた。
靄の先で『フシュフシュ』と荒い息がしている。そしてなにやら、トトトト、というやたら細かい足音も。
息遣いと足音は、みるみるこちらに近付いてくる。
わたしは自然にまばたきをし、自然に呼吸をしながら靄の先を見つめ続けた。心臓は今やすっかり平常通りのリズムで打っている。
それから十秒も経たないうちに、音の正体が靄の先でシルエットを表した。地を這う巨大な影だ。タテガミでも持ってるのか、頭のあたりがざわざわと不揃いに揺らめいている。
やがてそれを視認すると、さすがに顔をしかめてしまった。
骨と皮だけの身体に、同じく頭蓋骨に牛皮でも張った顔。地を這いつくばったその怪物の身体からは無数の細腕が伸びていて、それらが全身を支えているとともに背中やら頭やらで空を掴む仕草をしている。
気味の悪さなら、これまで目にしたどんな魔物をも凌駕していた。なんの心構えもなしにこれと出会ったのなら、たぶん寒気を止められなかっただろう。胃の底を揺さぶる程度にはおぞましい姿だった。
それは細腕をうぞうぞと動かしながらこちらに接近してくる。標的を目視したからか、やたらゆっくりと。
『エエエエ……エエエ……』
鉄扉の軋みに似た鳴き声が、皮張りの頭蓋骨から流れ出る。
まったく。襲うなら襲うでさっさとすればいいのに。グズグズとゆっくり距離を詰めるだなんて。
「だから、なんの用?」
スタスタと前へ歩を進める。すると、怪物はわたしの歩みに合わせて後退していった。
……うん。やっぱり、この幻覚はわたしを怖がらせるためのものでしかない。危害を加える雰囲気はちっともないじゃないか。さっきの手といい、呻き声といい、果ては見かけだけの怪物といい、ハリボテもいいところだ。
「かかってこないなら、こっちから行くわよ」
わずかに膝を落とし、本来サーベルのある腰へと右手を伸ばした。そしてさながら見えない柄を握るように手を形作り――ひと息に抜き去る。そして両手でかまえたそれを引き、怪物目がけて跳び込んだ。
『ウェ!?』
怪物はなんとも間の抜けた声を発し、あろうことかその場にべたりと伏した。そして無数の腕を懸命に伸ばして頭を抱えている。哀れな頭蓋骨は、まるで泣きそうな表情をしていた。
……逃げるなり消えるなりすればいいのに。どうせ幻覚なんだから。
振りかぶった透明な刃を、空中で静止させた。
「今すぐ魔術を解除しなさい。あなたが魔術を使うように、わたしも魔術のひとつやふたつ簡単に使えるのよ。たとえば、今わたしが手に持ってる透明な刃みたいに」
もちろんハッタリだ。刃を抜いたのも、こうして振りかぶっているのも、全部ポーズでしかない。
「……もし疑ってるなら、答え合わせをしましょうか? これを振り下ろしてあなたがどうなるのか、それで全部ハッキリするわよ。もっとも、結果が分かる頃にはあなたは真っ二つなわけだけど」
ぐにゃりと景色が歪んで、足元が不確かになった。よろめく感覚はないものの、視界が滅茶苦茶だ。崖が縮んだり道が急激に細くなったりと忙しない。平衡感覚が狂っている気もするし、眩暈もある。じわじわと嘔吐感も強くなっていって――。
まばたきがひとつ。そして、ぱちん、となにか薄い膜の弾ける音。その直後、景色が一変した。
枯れ枝で作られた、巨大な鳥の巣のような場所にわたしはいた。そして目の前には、頭を抱えて縮こまった、身長五メートル以上は確実にある巨大な――しかし痩身の獣人。その頭には、妙なことに一本の枯れ木が生えていた。
わたしは相変わらず刃を振りかぶっていたのだが、手には確かにサーベルの感触があった。
巨大な獣人はぶるぶると震えながら、体躯に似合わぬ細い声で言った。「うぅ……ごめんよぅ。意地悪してごめんよぅ……」
その大きな瞳から、じわりじわりと大粒の涙が毛に滲むのが見えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『騎士団長』→名はゼール。王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『呪術』→魔物および『黒の血族』の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて




