804.「骨と笑いと消失と」
峡谷は進めば進むほど深くなっていった。頭上を仰いでも、重なり合った靄に阻まれてなにも見えやしない。靄のなかで光が散乱し、あたり一面が白々と煙っている。
遥か頭上で風の唸りがしているけれど、谷底はしんと凪いでいた。風が通らないのだろう、空気には停滞した腐臭がいくらか混じっている。トロールが一時的な根城にしていた山岳地帯の谷よりはマシだけれど、なんだか物寂しさを感じる臭気だ。生物的な臭いというよりも、空気そのものが時間の流れから置き去りにされて死に絶えたような、どうにも侘しい臭い。
どこかにネズミでもいるのか、ときおりカリカリと岩肌に爪を立てる音がしている。そのささやかな営みが却って寂しさを誇張しているように感じてならない。
例の巨大な影を追って歩き出してから、もう一時間以上経っている。道幅はさして変わらない。多少の起伏はあるものの、ゆるやかに下っているのは確かだった。
ここまで、ほとんど無言の行軍だ。憂鬱な景色がギクシャクとした雰囲気に拍車をかけている。聞きたいこともあるし、話しておきたいこともあるのに、言葉が胸の奥でぐるぐるとわだかまっていた。下手なことを言うととんでもない破綻が訪れそうな予感があって、言葉をアレコレと選んでいるうちに沈黙が積もってしまったのだ。特にリリーはずっとピリピリしている。顔に『不愉快』の三文字がハッキリと書かれていた。
彼女の機嫌の悪さが子供じみた理由ならば気楽に応対出来るのだけど、なかなかどうしてそうもいかない。彼女の抱いているであろう不安は、わたしだって簡単には否定出来ないのだ。
相談もなく進んでいくハックを全面的に肯定するのは難しい。きっとひとつひとつの決断に彼なりの葛藤があるのだろうけど、それを表に出してくれない以上、スッパリと迷いなく判断を下しているように見えてしまうのだ。もちろん、物事によっては彼のやりかたは正しい。特に『霊山』でのその態度は目を見張るものがあった。しかしながら、今は裏目に出ているように思う。血の臭いのするデリケートな物事を説明もなしに進めていくその姿には、少なからず不信感を覚えてしまうのが自然だろう。
とまあ、穿った目線で考えているのだけれども、そんなわたし自身はハックを――そしてリリーを――どう捉えているのかと考えると、途端にあやふやになってしまう。手段を選んでいられる状況ではないことは理解しているし、かといってリリーと同じくとことんまで悲劇を回避したい想いもある。
「……うぇっ!?」
わたしの喉から溢れた間抜けな音を、自分自身の耳が捉える。わずかな浮遊感ののち――。
「あうっ!」
不意に足が取られ、派手に転んでしまった。足元が見えなくなるくらい考え事をするなんて、我ながら迂闊だ。
「大丈夫にゃ!?」「ちょっと、大丈夫?」「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫」
ほとんど同時に放たれた心配の言葉に、なんだか頬がゆるんだ。自分の迂闊さや空気の憂鬱さが、ふわり、と身体から離れていく。そんな具合だった。
ハックは柔らかく笑っていて、リリーの表情には呆れが浮かび、ジェニーはわたわたと心配してくれている。
「まったく、躓くなんてどんくさいこと」と、リリーはうんざりした口調でわたしの服を払ってくれた。
「ありがとう、リリー。あなたってホント優しいわね」
「ふ、ふん! 当たり前でしょ!」
「そうね。高貴だものね」
「そう、ワタクシは高貴――って、ちょっと馬鹿にしてない!?」
「滅相もないわよ、お姫様」
パシン、と背中を叩かれる。それでもわたしは笑ってしまった。ほんの少し声を出して。
不安はいくつもあるし、上手く言葉にすらなってくれない鬱屈もある。それでもこの瞬間だけは、全員が憂鬱を頭から追い出してくれたんじゃないか。そんなふうに思うのはやっぱり傲慢だろうか。分からない。分からないからわたしは、とりあえず明るい方向に捉えようと思う。
「それにしても、なにに転んだのよ」
言って、数歩後戻りをしたリリーが短い悲鳴を上げた。
「どうかした?」
彼女へと歩を進めて――ハッとした。わたしが足を取られた物がなんなのか分かり、心臓が鼓動を強める。
「骨ですね」と、ハックは平然と言った。
そう、わたしが転んだのは紛れもなく骨だった。背骨と肋骨。骨格は人に似ているけれど、随分と骨太だった。全体がないのでなんとも言えないけれど、獣人のものと考えるのがしっくりとくる。
「た、たかが骨じゃない。まったく」
そう口にしたリリーが、わたしのシャツをちょこんと摘まんでいることには気付いている。可哀想なので指摘しないでおくけど。
「そろそろラップさんの住処なのかもしれないです」
ハックは行く先を指で示した。目を凝らすと、靄の先に細い倒木がいくつも転がっている。……いや、よく見れば倒木じゃない。
「ひっ……」
リリーがシャツにしがみつくのを感じたけれど、道の先から目を逸らせなかった。
ゆるやかな下り坂に点々と落ちた骨。それらは薄靄に包まれて、滑らかで非生物的な趣を放っていた。
『骨の揺り籠』。
ラップは自分の住処をそう称した。例の巨大な影も、そこに住んでいるのだろう。さして考えずにいたけれど、随分と不穏な響きだ。物騒でもあり、ひどく静かな印象もある。
「ホネホネだにゃ」
ジェニーがぶるりと身体を震わせるのが、視界の端に映った。とぼけた言い回しだけれど、彼女なりに怖がっているのだろう。
「とにかく進んでみましょう」
わたしのシャツを掴む手を取る。ひんやりしていて小さい。子供らしいと言えば子供らしいけど、リリーの手ってこんなに小さかったっけ?
「そうね、怖がってる場合じゃないわ。というか、怖がってなんてないわよ」
リリーが、すっとわたしの横を通り抜け、ジェニーやハックと並んだ。
わたしは立ち止まったままだ。そしてこの手には、小さな小さな感触がある。冷えた手のひらと五指。
え。
わたしは今、誰と手を繋いでるの?
勇気を出して振り返ると――というか、ほとんど無意識に振り返ると――そこには誰の姿もなかった。不自然に突き出したわたしの手には、なにも握られていない。そして、振り返った瞬間に感触も消えていた。
「ちょ、ちょっと待って……!」
ぞわぞわぞわ、と悪寒が背を這いずる。ほとんど無我夢中でハックたちの背を追った。
魔物ならいい。獣人だってかまわない。血族は、立場によるかも。
なんにせよ正体の分かっている者なら、誰が相手だろうと覚悟を決められる。けれど、オバケは勘弁していただきたい。だって、正体も分からない上に戦って勝てる存在じゃないんだから。
「どうしたのよ、クロエ。真っ青よ」
リリーは呆れ顔で振り返る。
「う、えと……うん、なんでもない! なんでもないのよ」
上手く説明出来る自信がなかったし、なにより、リリーまで怖がらせてしまうのは忍びない。わたしだけが抱えていればいいんだ。それに、なにかの錯覚かもしれない。
魔術の可能性もあるけれど、ここまで見事な隠蔽魔術を獣人が扱えるとも思えなかった。しかも谷底で、手だけ繋ぐような無意味な悪戯をするわけもない。
……くそう。考えれば考えるほどオバケとしか思えなくなってくる。どうしよう。
不安に耐えかねて口を開こうとした瞬間だった。
「オ~ホッホッホ!」
「アッハッハッハ!」
「ニャハハハハハ!」
三人が一斉に笑い声を上げたのである。こちらに背を向けたまま。
「え。なによ。どうしたの……?」
「オホホホ!」
「アハハハ!」
「ニャハハ!」
三人の笑い声はやまない。わたしが面食らっていると――。
「え!?」
三人の姿が、さらさらと砂のごとく崩れ去ったのである。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『隠蔽魔術』→魔力を包み込むようにして隠す術。術者の能力次第で、隠蔽度合いに変化が出る。相手の察知能力次第で見破られることも
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて




