803.「巨大な影の行く先へ」
乾いた埃っぽい空気が、喉の奥のほうで停滞していた。思考が静止していたのはわずかな間だったと思う。
こげ茶色の毛に覆われた巨大な手が、ラップの姿とともに靄に消えていく。わたしがハッとしてサーベルを抜き去ったのは、その直後だった。
靄の先で揺らめく巨大な影は、どう少なく見積もっても十メートル近くあった。かつてキュラスで目にした『噛砕王』が脳裏に浮かぶ。影は、それに近い身長を持っていた。が、身体の線は『噛砕王』とは比べ物にならないほど細く、両腕は異様に長い。
「なによ、あれ……」
戦慄を湛えたリリーの声が、すぐ隣から聞こえた。見ると、彼女もハックもジェニーも洞窟から外に出ていて、一様に靄の先を凝視している。
「分からない……魔物の気配じゃないけど、他種族の気配とも違うし、血族でもないわ」
そのどれもが微妙なバランスで入り混じっているようにも感じる。ともかく、今まで感じたことのない奇妙な気配が肌を刺激していた。
靄の先で軽やかな地鳴りが遠ざかっていく。巨大な影はラップを掴んだだけで、わたしたちには目もくれず去っていくようだった。
ラップだけを襲撃した?
いや、違う。危害を加えようとするような手付きじゃなかった。
なら、ラップを攫うため?
たぶん、それが正解だろう。
「ラップさんの仲間ですね、きっと」と、ハックは冷静に呟いた。
同感だ。あの手に掴まれる瞬間のラップの表情に、恐怖らしいものはなかった。それどころか、リラックスする直前の頬のゆるみさえあったように思う。あっという間の出来事だったので確信はないけれど、少なくともラップは抵抗を見せなかった。
影は随分と大股で移動しているのか、地鳴りをともなう足音を鑑みるに随分と遠ざかってしまっている。もうその姿は確認出来ない。音を頼りに追うとしたら今のうちだ。
「とにかく追うわよ」
踏み出した瞬間、ぐいとシャツを引かれた。振り返ると、リリーがぶんぶんと顔を左右に振っている。
「なに考えてるの!? あんな大きな相手に近付こうだなんて正気じゃないわ! ワタクシたちを無視して消えてくれたことを幸運に思うべきよ!」
たとえばあの巨大ななにかがわたしたちの敵になるようなら、確かに大問題だ。
けれど、どうしてもそうなるようには思えない。あれがラップの仲間だとするのなら、彼の抱くルドベキアへの恐怖を共有しているかもしれない。これは希望的観測でしかないのだけれど、例の影がラップと同じくルドベキアに対してマイナスの感情を抱いているのなら、わたしたちのために協力してくれる可能性だってある。
「ラップがルドベキアの名前を聞いたとき、どんな態度を取ったか思い出して。……もしかすると『灰銀の太陽』を手伝ってくれるかもしれないわ。もちろん可能性は低いと思うけど……」
言い終わらないうちに、ハックはわたしの横をスタスタと歩いて行った。巨大な影の消えた方向へと。
「お姉さんの言う通りです。協力者を増やしておいて損はありませんです。『灰銀の太陽』の本隊にはすでに指示を送ってますので、僕たちは僕たちで堅実な行動を取らなければならないです」
影を追うのがはたして『堅実な行動』なのかどうかは怪しいところだけれど、異論はない。リリーは文句がありそうな表情だったけれど、渋々わたしのシャツを離してくれた。
「信じられないわ……。襲われたらどうするの……」
ぶつぶつと呟きながらも、リリーがわたしの後ろをついてくるのが分かった。
「もし襲われるようなことになったら、わたしが戦うわ。囮になってみんなを逃がすから大丈夫よ」
「ふん。逃げるならワタクシの『陽気な浮遊霊』を使うほうがいいに決まってるでしょうに。まったく」
「でも、『黄金宮殿』みたいな例外があるかもしれないわ」
「クロエ……『黄金宮殿』で全員を助けたのは結局誰だったか、忘れてしまったの!? 信じられない!」
……それを言われると、ちょっと反論出来ない。計画通りにいかなかったにもかかわらず、やはり脱出への手引きをしてくれたのはリリーだ。
「そのことは本当に感謝してるわ。ありがとう」
「どういたしまして……。まったく……」
振り返りはしなかったけれど、リリーがどんな表情をしているかは容易に想像出来た。腕組みし、口をツンと尖らせていることだろう。
「にぇあぁ……喧嘩は駄目だにゃ」なんてジェニーがあわあわと困ったように言う。
「喧嘩なんてしてないわよ。ふん。高貴なワタクシが庶民と喧嘩するなんてありえないわ」
「でも、ご機嫌斜めにゃ?」
「だから、庶民にアレコレ言われたってワタクシはなんとも思わなくってよ。ワタクシの機嫌がアナタがたにどうこうされるわけないでしょ」
「じゃあ怒ってないにゃ?」
「ええ、まあ……別に怒ってないわよ」
振り返ると、ジェニーがリリーに笑顔を向けているのが見えた。ふにゃふにゃとした柔らかい笑みである。それを前にして、リリーも苦々しい笑いを浮かべていた。
「リリーさん」と、先を行くハックが静かに言葉を投げる。正面に向き直ると、彼は足を止めてこちらを振り返っていた。なんとも真剣な表情で。
「なによ」
「リリーさんの危惧は確かに正しいです。それと同じくらい、クロエさんの想定も正しいです。それともうひとつ、あの影の行く先へ歩く理由があるんです」
もうひとつの理由?
なんだろう。
「ラップさんはルドベキアに拒否反応を示しましたですけど、彼の仲間もそうとは限りませんです。『骨の揺り籠』がどんな場所かは知りませんですが、もしそこがルドベキアと……つまり『緋色の月』と繋がっていたらどうです?」
わたしたちが今、峡谷にいることが知られたら……。
ゾラが約束したのはルドベキアから脱出するまでの安全であり、それ以降は無関係だ。むしろ、包囲網を張るのが妥当だろう。なにせハックは、去り際にルドベキアを再訪すると宣言までしている。ゾラとしては鬱陶しいことこの上ないはずだ。
『灰銀の太陽』のリーダーとその仲間の居場所が知れれば、もちろん襲撃に打って出るだろう。そうなれば厄介だ。リリーの『陽気な浮遊霊』で出し抜ければいいのだけれど、一度見せてしまっている手法である。当然対策を練った上で仕掛けてくるはず。
「……口封じでもするわけ?」
なんともトゲトゲしい口調でリリーは返す。
「説得出来なければ、そうする以外にありませんです」
「……」
リリーはなにも返事をすることなく、ただ黙ってハックを睨んでいた。彼のことだから口封じだって平和的な方法でなされるはず。……というか、そもそも彼ひとりにそんなことが出来るわけがない。いざとなればその役目を負うのはわたしやジェニー、あるいはリリーなわけで、ハックの思惑を量ったところでさして意味があるとも思えなかった。
結局返事を聞くことなく、ハックは再び歩き出してしまった。
「リリー」じっとハックを睨む彼女の肩に、そっと触れた。「ひどいことにはならないわ。きっと。もしどうしてもハックが穏やかじゃない方法を取るようなら、なんとか説得するから」
するとリリーはわたしを一瞥し、さっさと歩き出してしまった。
慌ててあとを追いながら、ふと思う。
こういうとき、わたしはどうすればいいんだろう。無理に引っ張っていってしまったら、下手をすると取り返しのつかない決裂に発展するかもしれない。かといって、ハックもリリーも譲るような性格には思えなかった。ハックは論理一辺倒だし、リリーはどうしたって感情が先行している。ジェニーはきっとあたふたとしながら二人の間に立とうとするだろうけど、彼女だってクロとの一件で深く傷付いているわけで、精神的に盤石とは言い難い。いつ崩壊したっておかしくないのだ。
……あれ?
なんとか足を運びながら、思う。
わたしたちは、いつ瓦解してもおかしくないんじゃないか?
胸に走った不安は、晴れることなく澱となって心に積もっていった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『クロ』→ケットシー。ジェニーの幼馴染。ルドベキアの獣人とともにケットシーの集落を滅ぼした。詳しくは『Side. Etelwerth「集落へ」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『噛砕王』→別名『育ちすぎた魔猿』。『黒の血族』だが、ろくに言葉を扱えず、粗暴な性格。人里離れた場所を好む。毛むくじゃらの巨体が特徴。テレジアに拾われ、頂の街キュラスで青年ハルツとして暮らしていた。ロジェールに撃たれ、絶命。詳しくは『294.「魔猿の王様」』『362.「破壊の渦」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『陽気な浮遊霊』→周囲の無機物を操作する呪術。リリーが使用。初出は『618.「大人物の愛娘」』
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




