86.「魔力の奔流」
「どうして」と無意識のうちに呟く。
あれほど頑なに掟の維持を叫んでいたハンバートがどうしてここにいるのだ。彼は泉の不可侵に関しては例外的な存在なのだろうが、ドローレスも同じなのだろうか。そもそも、彼らがここにいる理由がはっきりしない。
今更阻止しようとしているのだろうか。少なくともドローレスは掟の破壊に賛成していたのではなかったのか。
「これはこれは、村長さん」とヨハンは呑気に言う。
いや、呑気を装っているのだ。その証拠に、彼はわたしを鋭く一瞥した。
「ああ、ヨハンか。なんだ、お前も一枚噛んでいたのか」
「いえいえ、巻き込まれただけです。甚だ不本意ながら」
ハンバートは見下すようにこちらをちらりと見た。不愉快な視線だ。
「そうか。やはり、小娘の突拍子もない考えというわけだな。どうせ勝算もなかろう」
こいつはこの状況でも優位に立っていないと気が済まないのか。
いや、今が作戦阻止の最後のチャンスと捉えているのかもしれない。ならば、彼の狙いは聖域を侵犯したわたしとヨハンを縛りあげて泉に投げ込むことだろうか。しかし、縄らしきものはどこにも見えなかった。
「勝算ですか……どうですかね。やってみなきゃ分かりませんなぁ」
ヨハンはニタニタと気味の悪い笑顔を浮かべている。
「それを勝算がないと言うのだ」
これ以上ハンバートの無駄話に付き合うつもりはない。彼の思惑がどうであれ、わたしは成すべきことを成すだけだ。
「……なんの用かしら。今更わたしを止めようとしているの? だったら無駄よ。引き返すつもりなんて一切ないわ」
ハンバートは鼻で笑い、ドローレスに話しかけた。「そら、結局この小娘はなにも分かっちゃいない」
苛立ちから、思わず拳を握った。なぜこうも煽るのだ、こいつは。
一方でドローレスはやはり厳粛な無表情だった。ひとつ咳払いをして口を開く。「クロエさん、でしたね? 私たちは貴女の邪魔をするつもりはありません。最期を見届けに来ただけです」
言って、彼女は寂しそうに俯いた。
「本当にそうなのかしら? どうも村長さんの態度を見ていると信用ならないわ」
「ふん、信用ならんのはお互い様だ。ドローレスの言葉に偽りはない」
本当にそうだろうか。妙な企みがあるのではないだろうか。
ここまで来て問題が更に増えてしまった。彼らの護衛もしつつ、戦わなければならない。それに、その護衛対象自体が腹に一物を抱えているときた。全く、厄介極まりない。
「……あなたたちは状況が分かってるの? 今からここには大量の魔物が押し寄せて来るのよ?」
「クルスから聞いている。そんなもの覚悟の上だ」
言って、ハンバートは腰の短剣を抜いた。ドローレスも同じく短剣を下げている。
馬鹿なんじゃないだろうか。老人二人でどう立ち向かうというのだ。剣の握り方ひとつ取っても素人丸出し。足手まといにならないと本気で考えているのだとしたら、お荷物なんてレベルじゃない。
「ねえ、悪いことは言わないから今すぐ村に戻りなさい。どう見てもあなたたちは足手まといよ。ここにいることが既に邪魔なのよ」
「馬鹿な小娘になど言われたくない」
こいつはどこまで反抗的なんだ。どうしようもなく意固地で、そのくせ状況が読めていない。
「私からも言いますが、帰って下さい。ただでさえ厄介な敵ですからね。余計なハンデを背負い込むつもりはないです」
ヨハンも同じ意見、ということだ。つまり、誰の目にも明らかなのである。
「申し訳ありませんが、私たちはここから離れるつもりはありません。足手まといになるのなら、どうぞ斬り捨てて下さい」
ドローレスは静かに告げる。どうにも意志は固いようだ。
なにがそこまで彼女を駆るのだろうか。今回の行動はハンバートの考えというよりも、ドローレスの想いから起こっているのではないか。でなければ、こうもはっきりと彼女から口走るとは思えない。
ドローレスの性格について全て知っているとは言わないが、少なくとも、ただ命じられたからといって危険極まりない場所に赴くとは思えない。
その凛とした佇まいには、強い自我が表れていた。
これはどうにも、動かしがたい。
「……好きにするといいわ。ただし、危険を感じたらすぐに逃げて頂戴。あなたたちの命の保証をするつもりはないから」
言い捨てて、ハッとした。
ドローレスがにこやかに微笑んだのだ。そうして一言。「ありがとうございます」
彼女がそこまでこの泉と掟と、元凶である魔物にこだわる理由は知りようがない。多分、訊ねても本心から答えてくれないだろう。ただ、そこに並々ならぬ決意を感じないわけにはいかなかった。
復讐心。ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。
村を襲い、自分の姉を呑み込んだ怪物に一矢報いることが出来るとすれば、それは今夜しかない。いや、だとしたらなぜ掟に反抗しなかったのだろう。姉と同様の犠牲者を出し続けることは、復讐心とは矛盾している。
「さて、お嬢さん。疑似餌をかけますよ。ご準備はよろしいですか?」
ヨハンの声で疑問を振り払う。いくら考えたって答えは出そうにない。
サーベルを抜く。この武器に宿る僅かな魔力とヨハンの魔術が干渉を起こしてしまわないだろうか、と少し心配になった。ともあれ、疑似餌はラーミアが出現するまでの一時的なものだ。それまでは魔力の干渉で多少刃が鈍っても戦える程度の相手しか寄ってこないだろう。
ヨハンはわたしの目の前まで歩を進める。そして額に、彼の指先が遠慮がちに触れた。魔力の流れを感じる。
そしてヨハンは仕上げとでも言うように、軽くデコを弾いた。
なによそのふざけた魔術のかけ方は、と返そうとしたがその余裕はなかった。
全身に魔力が溢れている。とんでもない違和感だ。身体が鉛のように重い、というより、自律神経が狂っているように触覚や聴覚、視覚までもあやふやになっていた。これでは魔物の気配なんて到底感知出来ない。魔術師は常に、これだけの魔力をコントロールしているのだろうか。
まだ周囲に魔物の姿はない。やはり、この時間帯で助かった。これではとても戦いにならない。
四方に目を向けていると、泉が黒く縁取られていくように見えた。視界が常に揺れるのではっきりとしないが、その縁取りは段々と広がっていくようだ。
「お嬢さん、蛇です!」
ヨハンの叫びが妙に遠く聴こえた。ただ、その意味は理解出来る。
軽く二、三度サーベルを振る。触覚と視覚の情報が一致しない。刃を振った感覚と、実際の軌跡にズレがある。
この不快な感覚は、ニコルの触覚奪取に近かった。あのときは触覚が一切なくなったが、今回は乱れているだけだ。
深呼吸をする。
落ち着け。イメージさえ正しく持てば問題ない。今まで飽きるほど剣を振ってきたんだ。その軌道の想像はわたしを裏切らない。視覚や触覚の情報が邪魔なら、信頼しなければいい。
蛇の群に一歩踏み込むと、ヨハンの叫びが聴こえた。「一メートル前方!」
ありがたい。
地面近くに向けてサーベルを振るう。映像がやや遅れてこちらに届く。
なるほど、一秒未満の遅れが生じている。聴覚まで誤差があるかとも思ったが、蛇が蹴散らされたところを見るに、耳は遠くなっているが誤差はない。あとは視覚情報が一秒間の遅れをきたしている事実を考慮して動けば大丈夫だ。
重要なのはイメージだ。それを忠実になぞればいい。
ハンバートとドローレスは不器用に剣を握っているだけだった。やはり、どうしようもない。
ヨハンは結局ハンバートたちを守るように器用な戦い方をしていた。腰を落とし、ナイフを地面すれすれで一気に振る。
そちらに加勢することも出来たが、蛇は主にこちらを目指して這い寄ってくる。はぐれた敵をヨハンが始末しているのだ。余計な敵を増やさぬよう、ヨハンから距離を置いた。
そうして暫くサーベルを振るっていると、この状態にも慣れてきた。気持ちが悪いことには変わりないが、蛇ごときを倒しそびれることはなさそうだ。両手に握ったサーベルもイメージ通りの動きをしてくれている。
不意にヨハンの叫びが聴こえた。「疑似餌を解除しますから、状態の変化に気をつけてください!」
直後、映像が飛んだ。
音が戻り、触覚も確かになる。全てが鋭敏に感じられた。感覚のツマミを一気に上げられたような、そんな具合。
身体が震え、サーベルを何度か握り直す。見た目には握れているのにしっくりこない。耳鳴りが頭を揺するように響き、眩暈がした。同様に吐き気もある。
ただの揺り戻しにしては強烈過ぎる。
そもそもヨハンが疑似餌を解いたとすれば、理由はひとつではないか。
泉が盛り上がり、そこから急速に成長する植物のように細長い――泉の表面積と比較して、だ――肉体が伸び上がった。
飛沫が上がり、全身を濡らす。
蛇腹。鱗。下部は泉の中に隠れていたが、上半身は木々の半ばほどの高さに位置していた。
上半身は人間そのものだった――目と牙を除いて。縦長の瞳孔に黄色く濁った両の眼。薄く開かれた口から覗く鋭い二本の牙。
惨劇の元凶。こいつが守り神だなんて、笑わせる。
邪悪で狡猾な蛇の魔物――ラーミア。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ニコルの触覚奪取』→勇者の使った呪術。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




