85.「聖域へ」
「それで、作戦は?」
訊くと、ヨハンは肩を竦めた。「私とお嬢さんで魔物を寄せて、ラーミアが現れたら私は取り巻きの魔物に集中します。メインターゲットは騎士様にお任せしますよ」
「あら、助けてくれないのね」と少し意地の悪いことを言ってみる。
「私は本来、前線で戦うタイプじゃありませんから。弱い魔物の相手は出来ますが、それ以上となるとお手上げです」
「ヨハンさんでも相手に出来ないくらい強いのですね、泉の魔物は」
クルスは苦しげに呟いた。それなら自分たちでは歯が立たない、と感じているのだろう。
「強い魔物が出るのは本当に稀なことなの。この村でそれが起きていることが不思議なくらいよ。多分、ハルキゲニアから近いことも理由のひとつだと思う」
「それはどういうことだ?」
クルスはすっかりわたしに対しては敬語を使わなくなった。昼間の一件で信頼してもらった証だろう。
「魔物は魔力に引き寄せられるの。小型も大型も、弱いのも強いのも、殆どがそうよ。ハルキゲニアに魔術師が集まっているのなら、それに中途半端に寄せられた厄介な魔物がいるのも自然だわ」
クルスは納得したように頷く。
「そういえば昼間ハルキゲニアの騎士の話があったと思うんだけど、それについて少し聞かせてくれないかしら? ハルキゲニアにも騎士団があるの?」
クルスは力強く頷いた。「『ユートピア号』の馭者から聞いたのだが、ハルキゲニアの女王を守る側近が騎士と呼ばれているらしい」
「女王を守るだけ? 魔物の討伐は?」
「さあ、そこまでは聞いてないな。とにかく実力者揃いらしい」
おそらくは魔物の討伐もしているのだろうが、女王の警護のみで騎士を名乗るなんて妙な話だと思った。王都では王宮の警護兵や近衛兵に要人警護を一任し、騎士は専ら魔物討伐などの任務に専念していた。地域によって騎士の役割が異なるのだろう。
「ふうん。ところで、女王だけを守るのかしら? 王様は?」
クルスは首を傾げた。そこまでは知らない、ということだろう。代わりにヨハンが口を挟む。「ハルキゲニアに王様はいませんよ。女王陛下が統治しているだけです」
それも妙な話だったが『最果て』の、それも閉鎖的な魔術都市のシステムなど特殊でしかないだろう。王都を基準に考えても仕方がない。
そろそろ小屋を出るべき時間だった。ノックスは前夜同様、自警団の警護を受けられるとの話だった。
門まで送ると言うクルスを押し留めようとしたが、根負けした。これでは律儀なのか頑固なのか分からない。
辺りはすっかり暗くなっていた。しかしながら、まだ魔物が出現するような時刻ではない。空気は乾いており、風は殆どなかった。静かな夜。
これが嵐の前の静けさでないことを願った。
門前に辿り着くと、クルスは姿勢を正してわたしたちを交互に見つめた。そして深々と頭を下げる。「この村を救って下さい。……こんなことを言うのは無責任だと分かっています。しかし、言わずにはいられないのです。これで私たちの罪が消えるとは欠片も思ってはいませんが、これ以上子供の犠牲を知って生きているわけにはいきません。私の目を覚まさせてくれてありがとうございます。どうか、お気をつけて」
言葉は酷く身勝手だった。しかしそれを口にするクルスはどこまでも誠実で、嘘などひとつもない。鈍感で、不器用で、だから真っ直ぐに言うしかないのだ。そんな彼を責めることは出来ない。却って、その心に報いてやらなければ、と思った。
「大丈夫、任せて頂戴。必ず平和な朝が来るわ」
「まあ、どうなるかはお嬢さん次第ですが……なんとでもなるでしょうね。多分」
わたしたちは一旦の別れを告げて北の森を目指した。
暫くして、門の閉まる音が背後で遠く響いた。これで朝が来るまで逃げ場はない。
村長ハンバートの話によると、小型の蛇は夜の浅い時間帯に出現していたとのことだった。すると、ラーミアも活動時間の幅は広いのだろう。今の段階でラーミアを引き寄せられれば、あとは取り巻きの蛇だけを相手に戦えばいいことになる。
条件としては悪くない。グールはともかくとして、子鬼まで現れたら困ってしまう。そもそも、この村周辺で子鬼が出現するかどうかも分からないのだが、用心するに越したことはない。
勿論、それよりも厄介な奴を引き寄せてしまう可能性だって充分にあった。
たとえば……。
昨晩のフードの人型魔物を思い出す。あれがラーミアと一緒に現れたら、わたしたちに勝ち目があるだろうか。人型魔物がどれだけ強いかは分からなかったが、大量のグールを蹴散らしてしまえるくらいの実力があるのは確かだ。
わたしが思っている以上に厳しい状況なのかもしれない。
「泉に着いたらすぐに疑似餌をかけますから、そのつもりでいてください」
ヨハンは神妙な調子で言う。いつになく真面目な顔付きだった。その脂ぎった長髪と骸骨顔と、よれたコートとくたびれた靴がなければ、様になっていただろう。
「あなたは取り巻きとどう戦うつもりなの?」
「必要なら二重歩行者を使って戦います。なに、小型の蛇なら大したことはありません。いつものナイフで事足りますな」
「……蛇だけなら、ね」
「ええ、まさに」
ヨハンはこの先の展開をどう読んでいるのだろうか。その顔付きを見るに、決して楽観していないことは明らかだ。
ふと思った。「もしわたしが負けそうになったらどうするの?」
「そりゃあ」言葉を切っていつものへらへら笑いを見せる。「逃げますよ、全力で」
「薄情ね」
「ビジネスライクと言っていただきたいですな。自分の命以上の資本はありませんから」
でしょうね。
彼が命を賭けてまで敵と対峙する姿なんて想像できなかった。彼が戦うのは、あくまで勝算がある場合のみ。劣勢が明らかになれば尻尾を巻いて逃げ出すのがお似合いだ。
けれど、それでいい。これはわたしの戦いであり、ヨハンは半ば巻き込まれたようなかたちになっているだけだ。逃げてくれるほうが却ってありがたいくらいである。
森に入ると、草を掻き分けて進むわたしたちの音がやけに大きく聴こえた。虫の囁きや夜行性の小動物の立てる微かな音を除けば静寂と言っていいくらいである。
森全体が眠りつつあるような具合だ。今からそのまどろみを破ることになる。それも、盛大に。
昨晩の記憶を頼りに進む。あのときは人型魔物を追っていたので随分とおぼろげな記憶だった。それでも蛇行しつつ進んでいく。
ヨハンもわたしも、森に入ってからは一切口を開かなかった。魔物の気配はまだないので警戒する必要はなかったが、暗い森を歩いていること自体が精神的な余裕を奪っていくのだ。無意識に暗がりへ注意を向けてしまう。
やがて木々の向こうに泉が見えた。ようやく戦地へ辿り着けるわけである。まだ魔物の出ない時間帯であることが幸いだ。
心配事は主に二つあった。狡猾な蛇の魔物、ラーミアに対してたったひとりで有利に戦えるのか。そして、人型の魔物とラーミアが結託して襲いかかってきたらどうするべきか。
いくら考えてもなかなか答えの出ない問題だった。あまりに巨大過ぎる障害である。
加えて、想定外のことも往々にして起こるものだ。
泉に出ると、涼しさが身体に広がった。いや、寒気と言い換えてもいいかもしれない。
「やっと来たか、小娘」
そこには高圧的に呟くハンバートと、会釈をするドローレスがいた。
想定外の事実は案外早く訪れるものである。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて




