84.「悪夢~七人の倒すべき人間~」
一旦眠ることに決まると、クルスは夜になったら起こしに来ると告げて去っていった。どこまでも律儀な男だ。
状況的には到底眠ることなど出来そうになかったが、今夜の戦闘を考えると休息は必須であった。
自警団長クルスの小屋と、その隣の小屋は相変わらずわたしたちが使用して大丈夫とのことだった。
いそいそと隣の小屋へ向かったヨハンを呼び止める。「ノックスは大丈夫だった?」
ヨハンは足を止め、半身でこちらを見る。「ええ。私が戻って暫くしたら起きました。朝食を一緒に摂って、あとはチェスで遊びました」
朝食は自警団員が届けてくれた、と言い添えた。クルスもそうだが、自警団の人間も随分と親切だ。それが掟への後ろめたさの裏返しとは考えたくなかったが真実は分からない。
「そう……。ところで、チェスはまたノックスの勝ちなのかしら?」
「今日は一勝一敗といったところです」
そう言い残してヨハンは隣の小屋に入っていった。
クルスの小屋に戻ると、簡素なテーブルの上にはチェスが置いたままになっていた。ノックスはテーブルに座り、ひとりで駒を動かして遊んでいる。
「ただいま。遅くなってごめんね」
ノックスはこちらを向いて一度頷いた。おかえり、ということだろう。チェスの横には布巾がかかった籠があった。
ノックスは布巾を取り、「朝ごはん」と呟いた。
「わたしの分?」
彼はこくりと頷く。いじらしい仕草だ。
籠の中には丸パンと干し肉がふたつずつあった。
「残しておいてくれたのね。ありがとう」
またもノックスは頷く。そしてチェスに目を落とした。
パンと干し肉をひとつずつ平らげると、あとは昼食として食べるようノックスに伝えた。
「ノックス。悪いけど、少し予定が変わったの。今日もこの村に泊まることにするわ。それで明日、ハルキゲニアに行く予定よ。わたしは少し眠るけど、なにかあったらすぐに起こして頂戴」
彼は薄く頷く。そこにある感情を読み取れないのがもどかしかった。
あまり彼を構ってやれず、結局服と時計を与える程度のことしか出来ていない。あとはわたしたちの都合で本来の日程を変更しながら進んでいる。
ノックスを振り回している、とまではいえないだろう。元々彼をハルキゲニアに送るための旅だ。それでも、どこか後ろめたさがあった。
ベッドはひとつだけだった。おそらくは、ノックスが使ってそのまま乱れたままになっているベッドに潜り込む。まだ少し温かい。
目を瞑るとすぐに頭がぼんやりとし、手足に快い痺れが広がった。そして意識は下へ下へと落ちていく。なにも考えまいと、そのまどろみに全てを委ねた。一度考え始めると、きっと抜け出せない。そのくらいの悲劇がこの村にはあるのだ。
意識は更に下へと落ちていく。ゆっくりと、確実に。
泉に立っていた。耳には鳥の囀り。背の高い木々が神秘的な木漏れ日を届けている。対岸には十字架と、磔にされた幼い少女がいた。
瞬時に『わたし』だと気付く。姿かたちは覚えのないものだったが、その少女が『わたし』だと確信した。大人のわたしと子供のわたしが、泉を挟んで存在している。
わたしは泣いていた。ぽろぽろと、とめどなく溢れる熱い雫が頬を伝う。そんなわたしを、磔にされた幼いわたしが虚ろな表情で眺めている。
子供のわたしは『なぜ大人のわたしは涙を流しているのだろう』と、やや不審に思っている。子供のわたしは両親に裏切られ、その月の生贄に決まったのだ。今夜、蛇に食われる運命だということも全て知っている。
なのに怖くはなかった。
この世界の全部から見捨てられてしまった事実に、感情の一切を奪い去られてしまっていた。哀しみも、怒りも、その発露としての涙や叫びも、不要である。それは誰にも伝わらない。自分で自分を慰めたり、同情したりするようなものだ。
大人のわたしは、子供のわたしの感情を充分に理解しながらも、しかし涙を止めることが出来なかった。なぜかは分からない。理由があって泣いているというよりは、自然と流れてしまうのだ。わたしは子供のわたしを助けられないことを知っている。だから、ただ泣いて見せることしか出来ない。そんなところだろうか。
やがて辺りは急速に暗くなった。泉の中心は、ぽっかりと空が見える。そこを流れる雲は、時間を圧縮したような速度で過ぎていく。陽光は黄色から山吹色に、そして赤紫に染まって最後は黒に塗り潰された。
ああ、夜だ。そう思って空から目を離すと、幼いわたしは消えていた。その代わり対岸にはニコルと、勇者一行として旅立ったメンバーがずらりと並んで立っていた。
力が抜けて、膝から崩れ落ちる。それを見て微笑むニコル。無表情のシフォン。他は見下すような表情をしていたり、軽蔑の色を顔に浮かべていたりした。その中でわたしを指さし、大口を開けて笑う女の子がいた。笑い声は聴こえない。というより、耳は一切の音を拾っていなかった。その女の子が誰だったか思い出そうとした。大きな三角帽子と、ひらひらした可愛らしい洋服、手には身の丈以上の箒。魔術師だったはずだ。勇者一行の中でもひときわ強い魔力を惜しげもなく纏っていた少女。
ルイーザ。確かそんな名前だったはずだ。あの幼さで過酷な旅を耐え抜いたのだ。すごいなあ、と凱旋式で思ったのを覚えている。
相変わらずルイーザは大笑いしている。わたしは彼女を静かに見つめていた。屈辱からの怒りなど欠片もない。敵わないと諦めて絶望するような虚しい脱力が全身に広がっていた。
六人のメンバー。ニコルを入れれば七人。
それをわたしは倒さなくてはならないのだろうか。たったひとりにだって勝てないのではないだろうか。
そう思った瞬間、景色が遠ざかる。
木々が遠ざかり、荒野、砂漠、海、氷河、沼地、そしてなにもない平原で静止する。
湿った下草をぎゅっと握った。そして拳を地に打ちつける。何度も、何度も。
彼らに勝てない自分。子供のわたし自身を救うことすら出来ず、遠く離れた大地の上、悔しさで胸をいっぱいにする。なんて情けないんだろう。
空気は透き通り、風は豊かな香りを運び、星は美しく瞬いて、そして、わたしはこんなにも無力だ。
涙が溢れる。とめどなく、いつまでも。
誰かがそれを、拭っていた。
目を覚ますと白いハンカチが見えた。そして、びくりと身を離すノックスの顔。頬の辺りが冷たかった。
指で触れると濡れていた。ああ、そうか。
「ありがとう、ノックス」
彼はなんとも曖昧に頷いた。
身を起こして、彼の頭をひと撫でする。
情けないなあ。嫌な夢を見て寝ながら泣くなんて。
ノックスは、ケロくんに反響する小部屋をかけられたときも涙を拭いてくれた。
なぜだろう、と思う。けれどもそれを追及するつもりはなかった。
わたしは泣いた。彼は涙を拭いた。それを嬉しく、また、ありがたく思う。それだけだ。これ以上、内面の追及なんて必要ない。
ノックスの時計を見ると夜七時前だった。午後一番で眠りについたのでたっぷり寝たことになる。身体は重く、頭はぼんやりとしている。
起き上がって伸びをした。ノックスはわたしを不思議そうに見つめていた。
悪夢の断片が頭に浮かんでは消える。胸に残った切ない苦しさも、ちくちくと心を刺激する。
無力感、か。
正しい感覚だ。ニコルとその取り巻きに比べれば、今のわたしはどれだけ小さな存在だろう。実際全てのメンバーの実力までは知らなかったが、誰もがシフォンくらいの実力者だとすると、たったひとりにさえ勝てないのは明らかだ。だからこそ王都で戦力を整え、わたし自身も強くならなければならない。
今は無力だが、一歩ずつでいい。確実に前進する。それだけがわたしに出来ることだ。
やがてヨハンが現れ、次に食事を持ったクルスが訪れ、計四人で食卓を囲んだ。
ひとまずは今夜の戦いに集中しよう。この村を陰惨な掟から解放するために。
そして、わたし自身が前進するために。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士。詳しくは『43.「無感情の面影」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の男。正式にはケラケルケイン・ケロケイン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』参照
・『反響する小部屋』→ここではケロくんの使用した洗脳魔術を指す。詳しくは『65.「反響する小部屋」』にて




