82.「卑怯者と頑固者」
自警団長の小屋の前では、ヨハンが腕組みをして壁に背を凭せかけていた。相変わらずの不健康な風体で、いかにも不愉快そうな呆れ顔を浮かべている。
彼の前で立ち止まると、その口から盛大なため息が漏れた。
「随分遅いお帰りですなぁ。間もなく出発時刻です。お嬢さんには悪いですが、睡眠を取っている暇もない。さあ、支度をしてください」
ヨハンの口振りは、どこか皮肉るような響きを持っていた。
知っているのだ、きっと。日程変更を余儀なくするような厄介事を持ち込んだのを。
クルスはわたしとヨハンを交互に見て頭を掻いた。面倒な場面に付き合わせたかたちになってしまい、なんだか申し訳なくなる。
「ねえ、悪いんだけど――」
言いかけたところでヨハンは即座に遮った。「またですか」
「ええ、ごめんなさい。またなのよ」
「全く、言ったじゃないですか。首を突っ込んでも碌なことにならないと。で、今回は何日です?」
「えー、と……一週間くらい、かしら?」
ヨハンは沈黙してわたしを睨んでいた。さすがに許容範囲を超えてしまっているのだろう。
「一週間も待てません。こちらにも都合がある」
断ち切るような言葉だった。そこに妥協や隙は見出せない。ヨハンがどのような事情で急いでいるのかは知らなかったが、一週間の猶予はないのだろう。
それなら出来ることはひとつだけだ。
「ごめんなさい。『関所』での契約だけど、ここまでにしてくれないかしら?」
これっきり。そうするほかない。
いずれにせよ、今日ハルキゲニアに到着すれば別れる関係だ。半日早まるだけである。
なんだかんだヨハンにはそれなりに感謝していた。不意打ちのような心遣いや、窮地での手助け。マルメロまでの宿代や食事代だって彼が立て替えてくれなければ絶望的な旅路になっていた。
手を前に差し出す。
別れの握手くらいなら、してもいい。
「なんですか、その手は」
「お別れの握手」
瞬間、ヨハンが噴き出した。
それから堰を切ったように笑い続ける。からからと、乾いた声が曇天の下に広がった。ヨハンは腹を抱え、玄関の前にべったりと腰を下ろした。
笑いは徐々に収まり、「ああ」と口に出して息を吐いた。
なにがそんなにおかしいのだろう。差し出した手を引っ込めて、少し恥ずかしい気持ちになった。
「お嬢さん」とヨハンは思いのほか低く言う。「契約はハルキゲニアまでです」
すると、無理矢理でも連れて行こうと言うのだろうか。それだけは絶対に承知出来ない。村長ハンバートに啖呵を切ったのもそうだし、クルスの期待もそうだ。なにより、この村の悲劇を知って素通りなんて出来ない。
「……でも、わたしはここに留まる必要があるの」
「のっぴきならない事情なんでしょうなぁ、きっと」
「ええ、とっても」
それを聞いて、ヨハンは自分の頭を指でトントンと突いた。思案しているふうだったが、考えているというよりは満を持しているような雰囲気がある。
クルスはひたすら沈黙して成り行きを見守っていた。わたしとヨハンが折り合いをつけなければ物事は進まないと、そう感じているのだろうか。その心配はいらない。たとえ拒絶や否定の嵐に遭っても決めたことを覆すつもりはないからだ。
ヨハンがどう返そうとも、この村で泉の魔物を討伐する予定に変更はない。
「事情を聞かせてください」
ヨハンは酷くつまらなそうに言った。
「知っているんじゃないの? あなたは全て見透かしているように見えるけど」
そう、きっと彼は全て知っている。
絶妙なタイミングで交信魔術を使ってみせたことが気になっていた。わたしの置かれた状況は彼に筒抜けで、だからこそ注意を与えることが出来たのだ。それはつまり、最低限わたしの聞いた内容は知っていると考えられる。
「知っているかもしれないし、知らないかもしれない。どっちだって構いませんでしょう? 私はお嬢さんの口から事情を聞かせてもらいたいんですよ」
なるほど、ヨハンらしい。自分の手の内を明かすようなことは口走らない。たとえ相手に確信されていたとしても、白黒混在ねずみ色の状況を守り続けたいのだろう。
卑怯者だ。その分、わたしは頑固者だろうけど。
クルスを見つめると、彼は頷いた。話してもいい、ということだろう。
村の内情を全て語ると、ヨハンはため息をついて立ち上がった。そして肩を竦めて見せる。「お嬢さんはまるで正義の味方ですね」
「そうよ、元騎士だもの」
クルスがぎょっと目を見張った。「今、騎士と?」
彼の反応に却ってこちらが驚いてしまった。クルスは王都の騎士を知っているのだろうか。
「え、ええ。騎士よ。今は事情があって辞めてしまったけど……」
クルスはいかにも得心したように息をついた。「どうりで強いわけだ。ハルキゲニアの騎士なら魔物の討伐も容易いでしょう」
瞬間的に、頭に疑問が浮かぶ。「ハルキゲニアの騎士?」
「そう、ハルキゲニアの騎士」と言って、クルスは怪訝そうに続けた。「そうではないのか?」
「残念ながらハルキゲニアの騎士じゃないわ。もっとずっと遠い場所――グレキランスの騎士よ」
クルスは首を傾げた。グレキランスが、どうもピンときていないようだ。地図で示してやりたい思いに駆られたが、おそらく伝わらないだろう。
彼の純朴な様子を見るに、グレキランスはおろか、『最果て』以外の土地については全く知らないのだろう。もしかすると地図だって見たことがないのかもしれない。
「まあ、そんなことはどうだっていいじゃないですか」となぜかヨハンが話を畳む。それから本題へと移っていった。「私からは、質問と提案と要求がひとつずつあります」
ヨハンは指を一本立てた。
「まずは質問です。お嬢さん、あなたは勝算があると思っているのですか?」
「負けるつもりで戦う者はいないわ」
「そうじゃありません。具体的な方策があるのか、ということです。なにより魔物の正体について、見当はついているんでしょうな?」
「ええ」頷いて答える。「ラーミアよ」
「よろしい」とヨハンは返す。彼も知っていたのだろう。どこまで知識があるのか、底知れない男だ。
しかしながら、彼なら見当がついていても不思議ではないと思っていたのは確かだ。今までも、魔術や魔物に関して正しい認識を持っていたのだから。
ラーミア。半人半蛇の魔物。子供を攫う習性はどの書物でも触れられている。小型の蛇を使役するが毒性は決して強くはない。小蛇単体は大した脅威ではないが、量には注意する必要がある。一度に八方から噛みつかれればさすがに麻痺毒で動けなくなるだろう。
なにより危険なのは、ラーミアの肉体と頭である。下半身――蛇の部分は治癒力が異様に高い。騎士団時代は数人で絶えず切りつけていても一向に倒せなかった相手だ。従って上半身を切り飛ばす必要があるのだが、そこで問題になるのが頭である。狡猾さにかけてはトップクラスの魔物だろう。脅し、交渉、詐術、なんでもありだ。弱点である上半身を守るために必要な防衛手段はなんでも使ってくる。それこそ、予測のつかない方法まで。
確かに驚異的な相手ではあった。だが、怯んでいい状況ではない。
「具体的な作戦はないわ。ただ、必ず倒してみせる」
「随分と自信がおありですなぁ。いつか足元を掬われますよ」
「そうなったら、また立ち上がればいいわ」
ヨハンは困ったように首を横に振った。「まあ、結構です。……次に、私からの提案」
瞬間、目付きが険しくなる。いかにも真剣な表情ではあったが、そこに不穏な影が見え隠れしている。
「一週間はナンセンスです。到底承知出来ない。だから――」
邪悪な笑み。
「一日で、なんとかしましょう」
願ってもない提案だと喜ぶことは出来なかった。彼の表情と、飛躍した言葉。
『関所』での作戦が脳裏に蘇る。子鬼の大群、怪鳥ルフ。犠牲が出る前提の、あまりにグロテスクなアイデア。
ヨハンは、あのときと同じ顔をしていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『絶妙なタイミングで交信魔術を使ってみせたこと』→耳打ちの魔術。『76.「好奇心は猫をも殺す」』での交信魔術のことを指した表現。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『『関所』での作戦』→具体的には『31.「作戦外作戦」』付近参照




