81.「わたしがわたしであるために」
ハンバートの口が開き、喉から濁った風音が漏れ出た。それを取り繕うように何度か空咳をする。彼の焦りが手に取るように分かった。
「魔物が増えないとは言い切れん。お前は部外者だから気楽に言えるのだ。泉の魔物を殺したあと、劇的に魔物が増加したら、お前は責任を取れるのか?」
もはやため息も出ない。怒りはとっくに通り越している。
「責任なんて取らないわ」
わたしの言葉に、ハンバートは即座に反応した。「そらみろ! 馬脚を現したな、小娘! 貴様は――」
ハンバートは言葉を止めて、わたしを凝視した。
「貴様……なんて目付きをしやがるんだ」
意識して睨んだわけではないし、今、自分の表情がどうなっているかなんて知ったことではない。
ただ、心の底からハンバートを軽蔑しただけだ。
口を半開きにしながら瞳をぶるぶると震わせる老人を、なんだか哀れに思った。
彼は、ずっとこうして生きてきたのだろうか。馬鹿げた掟にどっぷり浸かって、自分の醜悪さと向き合ってこなかったに違いない。もし彼に自己を顧みる力があったとすれば、『ユートピア号』の子供を貰い受けることなんて出来るはずがない。
「責任は」と言葉にすると、ハンバートはぴくりと身を震わせた。なぜこの男は、こうも怯えているのだろう。彼の高圧的な態度が臆病の裏返しであることは、今や明らかだった。「責任は、あなたたちが取るのよ」
クルスとドローレスは神妙な面持ちで沈黙を守っていた。
それは逃避的な沈黙ではなく、こちらの言わんとすることを理解し、承認する意味の沈黙だった。
ハンバートだけが、「ハッ」と笑う。
「掻き回すだけ掻き回して、あとは好きにしろ、ってわけか。身勝手な奴だ」
「ええ、そうよ。わたしは風習を粉々に壊す。それから先は、あなたたち村人が戦うしかない。けれど、それは本来あるべきものよ。あなたたちは歪んだものを正しいと信じ切っているのよ。悪いけど、今のあなたたちはとんでもなく醜い」
「だから身勝手だと言っているんだ!」
またも立ち上がり怒気を噴出させるハンバートは、まるで子供じみていた。
彼が過去にどんな苦しみを負ってきたのかは知らない。脳裏に蛇の魔物がちらついて、怯えが骨まで浸透してしまったのかもしれない。いずれにせよ、考えることや疑うことをやめ、苦痛を忍ぶのが責務と思い続けるような男にはなにひとつ出来やしない。
「責任転嫁しないで頂戴。魔物の腹を満たそうとするのは勝手だけど、なにも知らない子供を犠牲にして、どの口が身勝手なんて言えるのかしら?」
「お、お前の言葉を信用するような奴はいない! おおかたクルスも騙されただけだろう。馬鹿な男だ」
この老人は、想像したことがあるだろうか。
『ユートピア号』に揺られながら、魔術師を夢見て心躍らせた子供。あるいは、両親に裏切られて失意に沈んだ子供。ハルキゲニアは目と鼻の先。一晩眠れば魔術都市へ到着する。そんなタイミングで、その小さな命を十字架にかけ、邪悪な魔物の餌にしたのだ。幼い目は、鋭い牙や、身の毛もよだつ唸り声や、真っ赤な舌を見ただろう。恐怖が全身を駆け巡り、しかし磔にされた身体は動かすことが出来ない。
そして、無抵抗な命は儚く消える。
「私は騙されてなどいません。自警団長としてクロエさんを信頼します。他のメンバーも、きっと同じ思いを抱いてくれると確信しています」
クルスは真っ直ぐハンバートを見据えた。
彼は一度目に応接間に来たときの、従順で大人しい忠実な従者ではない。自我を持ち、いずれかを選び取った男である。簡単に曲げてしまうような意志は持ち合わせていない。
王都の騎士には、クルスくらい純粋で不器用な奴が大勢いた。だからこそ、クルスのような人間が固めた意志の強靭さもよく知っている。
「ハンバート」とドローレスは呼びかけた。冷たい声だったが、奥底にはどこか憐れむような音色があった。「この娘に任せましょう。もうたくさんでしょう?」
怒り、苦悶、呆れ、諦観、脱力、悲哀。ハンバートの表情は目まぐるしく変化した。
ドローレスの姉は魔物に殺されている。一番最初の『供物』として。
その地獄のような記憶を幾度もなぞってきたのだろう。やがて表情は消え、顔全体も険しさが凍りついた。そんな経緯が容易に想像出来る。そして彼女は、これを好機と捉えているのだ。
「馬鹿ども……馬鹿どもが」頭を抱えてハンバートは呟く。ぶつぶつと、呪詛のように。「……貴様らはあの魔物を見ていない」
「私は見ました」
凛と返すドローレスを、ハンバートは弱々しく一瞥した。それから首を横に振る。「お前は幼かった」
「あなたもただの青年でした。……すっかり臆病者になりましたね、ハンバート」
「……うるさい」
「そんなことしか言えないじゃありませんか。あなたは結局、あの日からなにも変わっていません。誰かを犠牲にして、けれども肝心のものは守れない」
ハンバートはすっかり消沈したように肩を落とした。
「……村を守っているじゃないか」
「いいえ、守ってなどいません。あの化け物に屈服しているだけです」
平手打ちのような言葉だった。それが殺された初恋の相手の妹なのだから、余計に堪えるだろう。
やがてハンバートはぽつりと言った。「好きにしろ」
それが精一杯なのだろう。とても歯切れのいい返事とはいえなかったが、村長の口から合意を取り付けたことには変わりない。
「それじゃ、好きにさせてもらうわ。……ところで、次の犠牲が出るのはいつなのかしら?」
「一週間後だ」
一週間。決して短期間ではない。それだけの時間、ここに留まる必要があるのだ。
一旦、王都への焦りは捨て去らねばならない。目の前の悲劇から目を背けてまで歩みを進められるような育ち方はしてこなかった。元騎士として、直面しなければならない問題がここにある。
「ドローレスさん、でしたっけ? わたしの武器を返して頂戴」
ドローレスは軽く頷いて、応接間を出ていった。
ハンバートはなにも言わない。ソファに深く沈み込んで、ただ呼吸しているだけだ。きっと今でもわたしのことを信じてはいないし、認めることも出来ないだろう。口では合意したようなものだったが、ぐるぐると悩み続けているに違いない。
いつまでもそうしているといい。内心で呟き、部屋を出た。すぐあとにクルスも続く。
ドローレスは玄関でサーベルを返し、わたしたちを見送った。言葉なく、心持ち頭を下げて。
ドローレスもハンバートも、もっといえばこの村で真実を知る老人たちに対して、決して寛容になれなかった。彼らは共犯関係にあったのだ。
無論、クルスも同様だ。その純粋さや誠実さを除けば、ただの臆病な人間である。しかしながら彼の助力がなければ、ハンバートから最終的に合意を得ることは出来なかったかもしれない。自警団を動かし、魔物から村を守り切る宣言は、あの応接間に曇りなく響いたのだ。
「クルスさん、どうもありがとう」
「私はなにもしていない。あなたの言葉で状況が変わった」
「だとしてもクルスさんがいてくれて助かった。だって、心の底から変えようと思っている人がいなければ、状況は変わらないわ」
クルスは相変わらず不器用なくらい硬く真面目な表情で前方に広がる曇天を見つめていた。雲の僅かな切れ間から光芒が降りている。それが希望を暗示していると思うほど迷信的なタイプではないが、もし願いが聞き入れられるなら、この村で二度と子供が犠牲にならないよう祈りたい。
ただ、それは全て終わってからだ。
祈るより先にすべきことがある。
蛇の魔物。泉の主。子殺しの元凶。そいつを討ち倒す。
元騎士として。
そして、わたしがわたしであるために。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
【改稿】
・2017/10/19 魔法都市→魔術都市




