80.「あまりに醜悪で歪んだ取引」
「そのあと蛇は森へと消えていった。そのとき殺された娘が、ドローレスの姉だ」
ハンバートはそう締めくくった。
濁った静寂が部屋の底を流れ、行き場なく淀んでいる。時計の音がいやに大きく鳴っていた。
ドローレスは厳粛な表情のまま佇んでいる。しかし、その目の奥には憂鬱な暗い色が宿っていた。
彼女は今、記憶の中で死んだ姉を見ているのだろう。惨劇は鮮やかに蘇り、耳には救いを求める叫びがこだまする。悲劇の照射する暗い光が、ドローレスの瞳に表れているのかもしれない。
様々な感情が心を揺さぶっていく。けれど、ここで立ち止まってはいけない。
口を開こうとしたところでクルスが立ち上がった。大きく肩で息をしている。呼吸を止めて、痛みに耐えるように悲劇を聞いていたのだろう。
「村長……なぜ今まで黙っていたのです。どうして真実を語ってくれなかったのですか」
ハンバートは素っ気なく答えた。「知る必要がないからだ」
クルスの手が震えていた。拳を握るのを必死に抑えているのだろう。
「多分」と言って、クルスの手首を掴んだ。ぐっと力を込めて引くと、彼は渋々といった調子でソファに戻った。「村長さんは事実を改変して、村人に受け入れられやすくしたんでしょう? 『子供好きの守り神』も、それへの『供物』が『泉の精霊』になることも、掟を破った人が泉で『身を清める』のも。勿論、事実を知る人々と結託して作ったんでしょうね。次の世代の、疑いと躊躇いを濾し取るために。村人は自分たちのしていることがなんなのか薄々気付きながらも、目を背けることが出来るわ。だって、供物は村のために必要で、自分の良心を押し殺せばいいだけだもの」
ハンバートの顔にまたしても怒気が広がった。ただ、反論は言葉にはならなかった。舌打ちと歯軋り。それだけだ。
言葉にしたものの、内心では疑問がどくどくと脈打ち背を凍らせていた。
なぜ子供を犠牲に出来るのだ。親はなにも感じないのか。心を貫く苦しみを感じたとして、身を引き裂かれるような痛みを覚えたとして、どうして結託して止めなかったのか。
わたしは綺麗事に浸っているのかもしれない。反抗出来ないほど無力で孤立した魂もあるだろう。それは理解出来る。けれど、絶対に納得したくなかった。
「村長、答えてください。クロエさんの言うことは正しいのですか?」
クルスは静かに訊ねる。内面には煮え立つ怒りがあるだろうか。それとも、自己嫌悪だろうか。
「……小娘の言う通りだ」呟いて、ハンバートは額に手を当てた。「村を襲わせないためなら、あの程度の作り話は容易い。掟で事実を隠してしまえば、正義感に酔った馬鹿が村を破滅に導くこともない。最小限の犠牲で済むのなら、それが正しいと私は信じている」
正当化。反吐が出る。
ハンバートは本気でそう思い込んでいるのだろう。でなければ冷酷に風習を継続することなんて到底出来ない。
「最小限の犠牲、ね。……ところで、半年に一度の犠牲がどうして今、ひと月に一度になっているのかしら?」
確かクルスが語ったところによれば『供物』はひと月に一度だった。それがハンバートの昔話では半年に一度になっている。
「……蛇の要求だ。五年ほど前に、奴はそう脅した」
すると、ハンバートは泉の魔物に二度会っているのか、それとも村人から魔物の要求を聞いたのか。
どちらでも同じだ。彼は村長として承諾したのだ。
「ひと月に一度、子供を犠牲にしているわけね。狂ってるわ。心底軽蔑する」
「なんとでも言え。私は全て正しいと信じてやっている。部外者の言葉など、なんの責苦にもならん」
視野の狭い悪人。これで一応は権力者なのだから村人が気の毒だ。
「ところで、ひと月に一度の犠牲なんて成立しないようにわたしには思えるけど。半年に一度でも精一杯でしょうね。……どんなペテンを使ったのかしら?」
ハンバートは視線を泳がせて口籠る。代わりに、ドローレスが粛々と答えた。
「仰る通り、半年に一度ならなんとかやっていけました。しかしひと月に一度となると、村の子供だけでは現実的に不可能です」
「村の子供だけでは?」
ドローレスは頷いた。その様子はあまりに落ち着き払っている。異常な人。いや、異常な経験から醸成された、凍結した人格ではないだろうか。目の前で姉を食い殺され、半年に一度消えていく子供を無言で見送らなければならない。そんな日々が心をズタズタにしてしまったのだろう。
「……蛇の魔物が追加の要求をしてから半月後、それは訪れました」
「なにが訪れたのかしら?」
「ハルキゲニアからの使者です」
ここでその名が出るとは思わず、無意識に「え」と零していた。ハルキゲニアの使者?
構わずにドローレスは続ける。
「使者は、いえ、ハルキゲニアは魔術師育成のために毎月各地から子供を集める計画を立てているようでした。そして馬車の休息地としてこの村を頼るつもりだったようです。……渡りに船。私たちは馬車を受け入れる代わりに、ひとつの条件を提示しました」
喉がからからに渇いていた。唾を飲むことも上手く出来ない。
街道を走る大型馬車『ユートピア号』を思い出す。
「馬車の子供をひとり、村に提供する。それが条件でした。使者は承諾しました」
少し眩暈がした。
どうしてこうも残酷な考えになるのだろう。ペテンどころの話ではない。
「……あなたたちは、魔物がしたのと同じ要求をしているのよ……?」
ドローレスは首肯し、淡々と答えた。「そうです。私たちはただの悪党でしょうね」
どうして彼女はこうも冷静に話すことが出来るのだろうか。既に通り過ぎた苦しみゆえ、なにも感じなくなっているのか。
魔物の言いなりになるだけでは済まず、村の外にも災いを広げている。無力と恐怖。非力と諦念。それらが歪みを生んだのだろう。
「一旦は問題が解決しましたが、馬車は決して正確にこの地を踏むわけではありませんでした。大幅に遅れることもありましたから。そんなときは、やはり、村から犠牲を出すほかありません」
遅れの原因。盗賊たち――特にグレゴリーの姿が頭に浮かんだ。
なるほど、タソガレ盗賊団が『ユートピア号』を襲撃したのであれば、復帰までに暫くかかるだろう。その遅延の分は村で補う必要がある。
もし、と考えた。
もし、『ユートピア号』がグレゴリーとその側近たちに襲われることなく、無事ハイペリカムまで辿り着いていたとしたら。
そこで生贄として選ばれたのがノックスだったら……。
ぞわぞわと背が冷たくなる。それとは逆に、四肢に力が籠るのが分かった。
「もういいわ。犠牲の話はもう結構よ。それとは別に、魔物について知りたい」
ハンバートはそれまでじっとドローレスを眺めていたが、今度はこちらに視線を移した。
「わたしはてっきり、本当に魔物が夜の守護をしていると思っていたけれど違うのね?」
「そうだ、違う。事実は、小型の蛇が消えただけだ」
それに関してハンバートはどう読んでいるのだろうか。元凶である魔物を絶っても、蛇は消えないどころか涌いて出ると考えているような雰囲気があった。
案の定、彼はその旨答えた。「蛇の化け物が操っているから魔物は増加しない、お前はそう思っているんだろう? しかし、事実は分からない。そうである以上、最悪を想定するのは当然だ」
親玉が討伐されたら、却って蛇たちは思い思いの場所へ散り、人を噛んでは毒を送り込む。そうやって蛇は夜毎の戦闘を苛酷にする。そう考えているのだろう。
浅い。無知だ。
「使役されていない魔物なら、そんな事態も考えられるわね。けれど、親玉は取り巻きとして蛇を操っているようなタイプでしょう? なら、自分が討伐されれば手下も消える」
死霊術師の丘でのリッチ戦を思い出す。親玉が消えたら、取り巻きのゾンビも溶け去った。
「信用に値しない」とハンバートは呟いた。
「別に信じてくれなんて言わないわ。ただ、論理的に考えて頂戴。小さな蛇型魔物は、親玉が出る数日前にはじめて現れた。そして、定期的に供物を与えていれば小型の蛇は姿を見せない。明らかに、親玉に依存した存在よ。でなければ、これまでクルスたちが目にしているはず。そうでしょう?」
クルスは力強く頷いた。「今までそんな魔物は目にしたことがありません」
ハンバートは不審なものでも見るかのような目付きをしている。わたしは真っ直ぐに見つめ返した。
あと一歩。そんな気がした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ハルキゲニアの使者』→詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
・『グレゴリー』→タソガレ盗賊団の元頭領。詳しくは『45.「ふたつの派閥」』参照
・『死霊術師の丘でのリッチ戦』→詳しくは『16.「深い夜の中心で」』参照




