76.「好奇心は猫をも殺す」
「それで、報告というのは?」
口火を切ったのはハンバートだった。
「この旅人――クロエが聖域に侵入しました」
簡潔な言葉。ただ事実のみシンプルに伝えるつもりなのだろう。
「なるほど」ハンバートの、それまでも厳めしかった表情が更に険しくなった。が、口調は落ち着き払っている。
「勝手なことをしてくれたな、小娘」
じっとりと嫌な汗が背を伝う。下手なことは言わないほうがいいだろう。
「すみません。軽率でした」
「軽率か」言って、ハンバートはクルスに視線を移した。「禁足地であることは伝えたんだろうな?」
クルスは頷いた。「伝えました。ただ、クロエさんは魔物との戦闘の際に北の森へ飛び出していったのです」
ハンバートの眉がぴくりと動いた。
「ほう。北の魔物は問題ないと知っていたか?」と今度はわたしに問いかける。
「クルスさんから聞きました。ただ、それを信じることが出来なかったんです。わたしは魔物を感知する力がありますので、北側に大量のグールが集まっていることを知っているのに手を出さないのは信条に反します」
「ふん」とハンバートは鼻で笑った。「信条? 小娘が一丁前に」
きゅっ、と唇を噛んで堪える。下手な反応は身を滅ぼす。
「第一、戦力にならんだろうが。なあ、クルス」
ハンバートの言葉に、クルスは淡々と返した。「事実を述べます。クロエさんは自警団の誰よりも強いです」
「お前よりもか?」
「はい、間違いなく。昨晩は、魔物が大量発生しました。私の防衛線でも数十体単位です。その全てをクロエさんひとりで討伐しました。私たちの割って入る余地はありませんでした」
またもハンバートの眉が微動した。クルスの言葉は信用しているのだろう。自警団長がどれほどの地位を持っているのかは知らないが、一目置かれる立場であることは確かだ。
「……小娘よ。北でなにを見た?」
暗く鋭い眼光がわたしを貫いた。ヨハンとは別種の嫌な視線だ。
クルスに全てを話した手前、言葉を偽るわけにはいかない。
「まず北側に到着したとき、人型の魔物を見ました。フードを目深に被って、大剣を持った奴です。既にグールの姿はありませんでした。武器に返り血が付いていたので、そいつがグールを全滅させたことは明らかです」
またもハンバートは鼻で笑う。「クルスはそいつを見たか?」
「いえ。私は確認していません」
「そうか。……小娘、続けろ」
嫌な老人だ。人を見下すような高圧的な態度は気に入らない。ともあれ、話すしかなかった。
「……そいつを討伐しようとしましたが、森の中へ逃げられました。追ってはみたのですが、振り切られて途中で気配も辿れなくなりました。それで、足を止めたところに泉がありました」
ハンバートは暗い目付きでこちらを凝視している。「……見たものはそれだけか?」
「……あとは十字架を見ただけです」
「……どんな十字架だった?」
細かく語るべきか否か。ここで進退が決まるのなら、下手な返事は出来ない。しかしながら、どう答えるのが正解かも分からなかった。
『聖域』に足を踏み入れた事実が変わらないなら、なぜ十字架に関して追及されるのか。それは暗に、泉以上に十字架が重要であることを示してはいないだろうか。
詳しくは見ていない、そう答えようと一瞬思ったが、はたと思考に歯止めがかかる。
どうせ疑いが拭えないのなら、いっそ深く切り込んでいったほうがいいのかもしれない。そこになにか秘密があるのなら、知りたい気持ちもあった。
口を開きかけたところで、耳元に囁きが聴こえた。「好奇心は猫をも殺す」
ヨハンの交信魔術に違いない。空耳ではなく、はっきりと耳に響いた。
「どうした。早く答えろ」
「……よく見てはいません。人型魔物のことで頭がいっぱいだったから」
ハンバートは相変わらずじっとこちらを睨んでいた。やはり、疑われている。
「クルスよ。お前はどこまで事実を目にした」
「私はクロエさんを追って北に行ったのみです。森には足を踏み入れていませんので、クロエさんの言葉の真贋は判断出来ません」
「なんだ。お前も北に行ったのか」
「申し訳ございません。クロエさんを止めるのが先決だと思いまして」
やはりクルスは正直な男だ。いかに不利であろうと真実のみを告げる。そうやって信頼を勝ち得てきたのだろう。
「お前に関しては不問だが、小娘は……」
ハンバートは言葉を切り、腕を組んだ。表情にこそ出ないが、処遇について考えているのだろう。
ふと思う。この村で『聖域』を犯した場合、どの程度の処罰が妥当とされているのだろうか。
クルスの様子を見るに、かなり厳格な掟であることは間違いない。想像したくなかったが、処刑もありうるのではないか。ただ、それが旅人に対してもなされるかどうかだ。
「一旦保留する。昼にもう一度来い。それまでは、クルス、お前が逃げないように見張っておけ」
「分かりました」
初老の女性、ドローレスが扉を開いた。「玄関で武器をお返し――」
ドローレスの言葉を、ハンバートは瞬時に遮った。「小娘の武器は渡すな。処遇が決まるまではこちらで預からせてもらう。異存ないな?」
異存ならあるに決まっている。だが、ここで揉めて面倒なことになるのは避けたかった。
頷いて、部屋を出た。
ドロ―レスは別れ際も表情を変えなかった。やや吊り上がった目尻や、直線的な口元は生来のものなのだろうが、どうしても厳格な人に思えてしまう。
それからクルスは柵際に造られた粗末な小屋にわたしを招き入れ、内側から鍵をかけた。どこまでも律儀な男だ。ノックスやヨハンに会わせるようなサービスさえ控えるくらい真面目なのである。
「申し訳ないですが、昼まではここにいてもらいます。食事も面会も許すことは出来ません」
クルスは沈痛な面持ちでそう告げた。
彼も複雑な立場に置かれているのだ。一晩中魔物と戦ってくれた恩義と、自分がなすべき役割の間で、感情が痛みを訴えている。そうに違いない。
却って気の毒に思えた。
「わたしは構わないわ。ノックスはヨハンが見てくれているもの。それに、こうなったのも自業自得でしょう?」
「クロエさんは旅人です。聖域がどれだけ重要な意味を持っているかは知りようがありません。それに、掟を破った理由も魔物を倒すためです。それを自業自得と判断してしまうことは私には出来ません」
やはり、彼は誠実さの塊だ。自警団長の義務は最優先するが、道理を理解している。葛藤や逡巡でその潔白さが穢されないことを願わずにはいられなかった。
昼までには時間がある。わたしもクルスも動くことは出来ない。となると、有意義に使うべきだ。
「クルスさん。少し訊きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、答えられる物事とそうでない物事がありますが」
「構わないわ。……聖域に踏み入った人は、普段どんな処罰を受けるのかしら?」
クルスは露骨に顔を背けた。答えられないのだろう。
ただ、誠実過ぎる彼のことだ。押せば教えてくれるに違いない。可哀想な気もするが、少し揺さぶろう。
「ねえ……わたし、恐くて堪らないの。自分がこれからどうなるのか……。なにも知らされないまま処罰されるのって、苦しいのよ。もし事前に教えてくれたら、仮に処刑だったとしても気構えが出来るじゃない」
クルスは何度か唸り、俯いたり天を仰いだりした。「逃げないと約束するなら、教えます。ただし、知らない振りをして下さい」
「勿論よ! ありがとう、クルスさん!」
クルスは、ぐっと口元を引き締めてから答えた。
「村の人間が聖域に踏み入ったことは、今まで数えるほどしかありません。ただ、どの村人も二度とこの村に姿を現すことはありませんでした」
「それは死んだってこと? それとも、追放かしら?」
「前者です」
やはりそうか、と納得する。その事実によって掟の強度を上げているのだろう。
「どうやって処刑するのかしら?」
「……処刑はしません」
思わず首を傾げる。「ならどうするの?」
クルスは瞼と口元をきつく結んだ。これ以上は答えない、という意思表示だろう。
内心で謝りつつ、追及する。
「中途半端は嫌よ。自分がどうやって死ぬか分からないなんて一番恐いわ! ねえ、お願い。教えて頂戴……」
暫くクルスは黙っていたが、やがて喘ぐように息をした。
呼吸を止めていたのだろう。なんて分かりやすくて、不器用なんだろう。
「分かりました。……処罰は、手足を結んで泉に落とすことです」
「……それって処刑でしょ」
クルスは頭を掻いて頷いた。「魂を洗い清める、と我々は呼んでいます。ですが、クロエさんの言う通りですよ」
彼の顔をじっと見つめた。そこには苦しげな表情が浮かんでいる。「あなたも、その処罰に加担したことはあるの?」
クルスはかぶりを振る。「いいえ。それをしない代わりに自警団長として毎晩戦っているのです。自警団はその役割を負わなくて済むよう、村長にかけあって合意を得ましたから……」
しかし、その残酷な役割は別の人間が負っているわけだ。押し付けているとは言わないが、どうして誰も反抗しないのだろう。
そして、『聖域』にどれだけの価値があるというのか。
クルスの痛々しい表情を見つめつつ、わたしは首を突っ込む決心をした。
好奇心は猫をも殺す。やってみろ。こちらは栄光ある王立騎士団ナンバー4のクロエにゃんだぞ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・「ヨハンの交信魔術」→耳打ちの魔術。初出「31.「作戦外作戦」」
・「クロエにゃん」→クロエの軽率さをヨハンが揶揄した表現。初出は『70.「自分自身の誠実さに関わる問題」』




