75.「村長ハンバート」
森から戻ると、柵の辺りでクルスが腕を組んで仁王立ちしていた。
彼はわたしを認めると駆け寄ってきた。
「クロエさん! お怪我はありませんでしたか?」
意外な言葉だった。てっきり叱咤されると思ったのだ。
クルスの顔には心配や不安がありありと表れていた。
「え、ええ。大丈夫よ」
「よかった。……とにかく、早くここを離れましょう」
クルスはこちらの返事を聞く前にわたしの手を引いて歩き出した。そしてランタナ側の門と北側の柵の丁度中間辺りで足を止めて振り返る。彼の不安気な表情は消えていなかった。寧ろそこに憂鬱な色が加わって、深刻に思い悩んでいるように見える。
「正直に答えてください。……聖域に入りましたか?」
重い口調だ。なるべくなら口にしたくないが、聞かないわけにはいかない。そんな気持ちが窺える。
「……ごめんなさい。泉を見たわ。多分、あなたたちが聖域と呼んでいる場所まで行ったみたいね」
クルスは露骨なまでに肩を落とした。
「本当にごめんなさい」
「北でなにを見ましたか?」
「ええと」どこまで話そうか一瞬迷ったが、彼の誠実さの前で嘘を語ったり秘密を持つのはフェアではない。「魔物を切り伏せるフード姿の奴がいたわ。そいつから魔物の気配がした」
「フード?」
クルスは首を傾げる。どうやら彼は奴の存在については知らないらしい。
「そいつが森へ逃げたから追ったんだけど、途中で気配を見失ったの。それで、近くに泉があるのを見つけたの……」
「それでつい足を踏み入れた、というわけですね?」
「ええ……。泉のほとりに十字架が立っているのも確認したわ。わたしが見たのはそこまで」
クルスは苦々しく口を歪め、それから目を瞑った。きつく閉じられた瞼は、彼の逡巡を表していた。
やがてクルスは重々しく口を開いた。
「……クロエさん。あなたは村の禁を破ったことになります。勿論、魔物を倒すためという動機は酌量すべきものでしょう。しかし、私には村長への報告の義務があります。村の一員として、自警団長として。そのうえでどのような処遇になるかは分かりません」
どこまでも深刻な口調だ。掟を破った者を放っておくことが出来ない事情があるのか、それともあまりに真面目過ぎるからなのかは分からなかった。いずれにせよヨハンの言った通り、面倒を呼び込んでしまったことには違いない。
全く、なにもかもヨハンは正しい。悔しくなる。
「クルスさん。確かにわたしはこの村の掟を破ったんでしょうね。けれど、魔物を放置しておくわけにはいかなかったの。……ごめんなさい、言い訳よね」
クルスは首を横に振って南側へと歩き出した。門前を通る際、またしてもヨハンと目が合ったが、そこには軽蔑も落胆も見出せなかった。
南側に到着すると、自警団員たちはばつの悪そうな表情を見せた。
「……一旦、先ほどのことは忘れてください。夜が明けるまでは魔物に集中しましょう」
クルスの言う通りだ。
今はまだ夜の中心で、わたしたちはそこを切り抜ける必要がある。掟を破ろうが、禁忌を犯そうが、まずは生きて朝を迎えるのが最も重要だ。
それからは最前と同様、朝までほとんどわたしひとりで凌いだ。
北でも魔物の気配はぽつぽつとしていたが、クルスの手前、二度も迂闊な真似は出来ない。それに先ほどより数はだいぶ少なかった。奴らが柵を破壊しないことを願いつつ剣を振るう。
空が白む頃には、北から感じる魔物の気配もふっと消えた。これ以上魔物が現れる様子もない。異質な気配もなかった。
クルスはわたしの隣までやって来ると、深々と頭を下げた。
「ありがとう、クロエさん。あなたのおかげで私たちはひとりの犠牲もなく朝を迎えることが出来ました」
どこまでも真面目だ。その真っ直ぐな誠実さをひと欠片でもヨハンに分け与えてやりたい。爪の垢を煎じて飲ませれば変わるだろうか? いや、拒否反応を起こして吐き出すのがオチだ。
クルスは顔を上げ、厳粛な、しかし労り深い口調で続けた。「申し訳ないですが、これから村長のところへ報告に行きます。クロエさんも一緒に来てください」
「ええ、分かったわ。けれど、ヨハンと少し話をさせてくれないかしら?」
「構いません」
ぐるりと柵を回ると、門は既に開かれていた。
入り口付近でヨハンは柵に背を凭れて曇天を仰いでいた。
わたしたちに気が付いたのか、彼はこちらに視線を向けた。どんよりと淀んだ目。口は呆れたように薄く開かれている。
「ヨハン」
「はい、なんでしょうか」
絶対にへそを曲げている。
「今から村長のところへ行って来るから、ノックスのことを頼んでいいかしら?」
ため息ひとつ。ヨハンは腕を組んで頷いた。「勿論ですとも」
それ以上、彼はなにも言うつもりがないらしく黙っていた。クルスがいるからなのか、はたまたわたしに愛想を尽かしたのか……。
「さあ、行きましょう」と先を促すクルスに頷いて応える。
村長の家は集落の中心部に位置していた。まあ、当然だとは思う。最も安全な場所だ。
他の民家と比較するといくらか立派な造りの木造家屋である。二階建てで、廂も大きい。陽射しの強い日には随分と涼しく過ごせるだろう。
クルスは家屋の扉をノックし声を張り上げた。「村長! 自警団長のクルスです! ご報告があります!」
ややあって、内側から小さな鐘の音がした。クルスは振り向いてわたしに頷いて見せる。それから扉を開き、中へ入っていった。わたしも彼のあとに続く。
厳格な顔付きをした初老の女性に先導され、わたしとクルスは奥まった部屋に通された。
ローテーブルを挟んでソファがふたつ。本棚、書き物机、壁にはランプと掛け時計と風景画。応接間と考えるには質素だったが、村のグレードを勘案すれば充分に豪華といえる。
初老の女性は「武器を預かります」と言った。クルスは大人しく納刀した剣を彼女に渡す。
手元から武器が消えるのは落ち着かなかったが、従うほかない。サーベルを外し女性に渡すと、彼女は怪訝そうに呟いた。「随分大きい武器……」
妥当な感想だろう。女性が振るうにはあまりに大きく、そして重い。それが常識的な印象だ。
「そうかもしれないわね。でも、わたしには丁度いい」
初老の女性は長いまばたきをひとつした。それから、わたしたちに座るよう促して部屋を出ていった。
クルスと隣り合って座りながら、これからのことを考える。村長の人格、あるいは掟の厳しさ次第では厄介な仕打ちが待ち受けているかもしれない。
クルスはただただ黙って座っていた。背筋はぴんと伸び、微動だにしない。
王都の騎士団にもこんな奴はいた。四角四面、融通が効かず、いつだって張り詰めた緊張感を持った人間。わたしも似たような頑固さは持っているので、あまり非難は出来ない。
やがて部屋のドアが開き、先ほどの女性が盆を持って入ってきた。そしてわたしとクルスにひとつずつ、向かい側にひとつだけマグカップを置いた。中では濁った茶の液体が湯気を上げている。
女性は扉の横まで下がり、そこで直立した。
この人もクルスと同じようなタイプなのかもしれない、とぼんやり考えた。しかし、その歳で立ったままというのはいくらなんでも辛くはないだろうか。
それから少しして、ドアの先に濃紺のローブ姿の老人が現れた。クルスが瞬時に立ち上がったので、わたしもそれに倣う。上背のある老人だった。
「村長、おはようございます。早朝から申し訳ありませんでした」
「いや、いい。とりあえず座ろう」
この老人が村長なのだろう。厳めしい顔付きをしている。
頭は綺麗に禿げあがっていた。杖なしで歩けるのが不思議なくらい不健康な痩せ方をしている。
老人は腰かけると、初老の女性に声をかけた。「ドローレスも座ったらどうだ? 立っていると疲れるだろう」
ドローレスと呼ばれた初老の女性は身じろぎせずに答えた。「結構です」
ぴしゃりと戸を下ろすような口調。まるで取りつく島のない拒絶だった。老人は大きなため息をついて、マグカップを口元に運んだ。喉がごくりと波打つ。
カップをテーブルに戻して「どうぞ、遠慮なく」と誰へともなく発した。
クルスは一礼し、その液体を飲む。わたしもマグカップを口元まで持っていった。渋い匂いがする。ひと口飲むと、案の定、口いっぱいに渋味が広がった。
「さて、クルス。そのかたは誰だ?」
「旅人です。ヨハンさんの同行者で、ハルキゲニアへ行く予定だそうです」
「ヨハン……ヨハン……」
老人は記憶を辿るように斜め上へと視線を向ける。「ああ……あの胡散臭そうな男か」
思わず老人と握手したくなった。同感です、と。
「わたしはクロエと申します」
「はあ、クロエさんねえ。私はハンバート、村長をやっている」
老人――ハンバートはいかにも関心なさそうに言った。クルスより、この老人のほうがずっと気楽な性格をしているように思えてならない。身体の周囲に倦怠感が漂っている。
すると、掟を破った報告も、形式的なものでしかないのかもしれない。不問で解放してくれればなによりだ。
固唾を飲んで次の言葉を待った。




