70.「自分自身の誠実さに関わる問題」
ヨハンに追いつくと、彼は心底疲れたとでも言うようにげんなりとした表情をしてみせた。
「どうです、ろくな目に合わなかったでしょう? 好奇心は猫をも殺す。クロエにゃんはしぶとく生き延びましたが、幸運は続きませんよ」
「うるさい……」
なにがクロエにゃんだ。鬱陶しい。
ただ、今のヨハンにあれこれとやり返す気にはなれなかった。言葉こそふざけていたが、彼は事実を述べている。好奇心とひと括りに出来る動機ではなかったが、拒絶する彼に無理やり同行し、結果散々な思いをしたのは確かだ。それをフォローして、なんとか状況を立て直したのは骸骨男である。
罪悪感の渦。その感覚がまだ身の深くに残っていた。
そこから救ってくれたヨハンに感謝する気はあったが、それよりもある感情が先行していた。
恐怖。多分、それに近いなにかだ。
ケロくんを屈服させ、アリスを出し抜き、誰ひとり命を落とすことなくあの場を凌いだヨハン。廃墟の一室は間違いなく彼の支配下にあった。一体ヨハンという男は何者で、その同行者たるわたしはこれからどうなるのか。
自由に振る舞っているつもりで、全てはヨハンの掌の上で踊っているだけなのではないだろうか。
馬に跨り、わたしたちはランタナを目指した。到着する頃には日暮れだろう。相変わらず雲は厚い。
街道に入った頃、ノックスに呼びかけた。「ノックス……わたしが自分を見失ったとき、引き留めていてくれてありがとう。それから――涙を拭いてくれて、ありがとう」
ノックスの返事はなかった。その代わり、ぐらりとわたしに凭れかかる。
俯いた彼の顔は見えなかった。
てっきり無表情で首を傾げるものだと思っていたので、彼の沈黙と仕草が意外に思えた。返す言葉が見当たらず、なんとなく身を寄せるような、そんな器用な子だったろうか。
暫く彼を見つめていると、呼吸に合わせて肩が安らかに上下し、ささやかな寝息が聴こえてきた。なんだか微笑ましくて、馬の速度を緩める。
前方でこちらを振り向いたヨハンも、同様にスピードを落とした。
到着する頃には、夜の入り口くらいだろうか。魔物が出るには少し早い時刻。
どうせ今日はランタナで一泊する予定だ。それより先は、明日の旅程である。
やがてヨハンの馬と隣り合った。少し息を整えて小声で訊ねる。「訊きたいことが山ほどあるわ」
ヨハンは遠く道の先に視線を向けたまま「そうでしょうね。しかし、山ほどは教えられません」と答えた。
「それなら好き勝手に質問させてもらうわ」
「どうぞ」
蹄鉄が緩やかなリズムを刻んでいる。傍から見れば、いかにも気楽そうな旅行者だろう。荷物は少なく、子供は眠っている。わたしたちが血や闘争を越えて生きている全くの他人だなんて、誰が見破れるだろうか。
「ケロくんの正体について、あなたは知っているんでしょう?」
「ええ、勿論」
「それをわたしに教えるつもりはないってことね?」
彼はぽつりと、しかしきっぱりとした口調で答えた。「そうです」
「ケロくんに対して色々と言っていたみたいだけど、それはなんのため?」
「さあ……なんのためやら」と呟いてヨハンは鞄をごそごそと漁った。それから一枚の布巾を取り出す。
「いかがです? 召し上がりますか?」
布巾に包まれた干し肉を差し出してくる。
「……遠慮しとく」
「そうですか」とヨハンはそれを小さく千切って自分の口に放り込む。それからもそもそと顎を動かしていた。
「アリスの魔弾を攻略した魔術はなんなの? あんなもの見たことも聞いたこともない」
「……」ヨハンは咀嚼を続けながらそっぽを向いた。黙秘。そういうことだろう。
「あなたはアリスの妙な弾丸を読み切っていたのかしら?」
ヨハンは相変わらずもそもそやりながら、今度は頷いた。おそらく三発分の微かな銃声を聴いたときから、ヨハンはその後の展開を読んでいたのかもしれない。
「三発の銃声のあとで、これから起こることを全て先読みしていたの?」
ヨハンの喉が大きく鳴る。しっかり噛まれた干し肉を呑み込んだのだろう。
「全て完璧に、というわけではありません。たとえば銃声を耳にしたあと、弾丸はすぐに飛んで来るだろうと思っていましたから。ただ、それがいつまで経っても訪れない。となると、この不自然さの理由はアリスが握っている。別のなにかを撃ったのか、あるいは今後のために利用できる不意打ちを用意したのか。……アリスが階下で足音を鳴らしたときから、前者の可能性は消えました。彼女が三発も消費するような対象がいるのなら、あんなに平然とした歩調で階段は登れない」
ヨハンは階下の物音に耳を澄ませ、その歩き方からアリスの調子に別段問題のないことを把握したのだろう。もし三発もの弾丸を使わなければ倒せないなにかがいたのなら、その歩調は乱れがちになる。
「そうすると、あの三発の標的は私たちだと逆算出来ます。ケロくんから視野の提供を受けていた事実からも容易に想像出来ました。もはや不意打ちのために撃たれた弾丸で間違いないわけです。……それは任意のタイミングで我々に放たれる。最も厄介で、いかにもありそうなパターンです。彼女ほどの魔術師なら、魔力装填の段階で弾丸に細工を施すことなんて大した仕事ではないでしょうから」
「で、その三発をわざと使わせたのね?」
「ええ。私にとって一番困るのは、それぞれの弾丸が全く別の対象を攻撃することです。そうなれば、さすがに守り切ることは出来ない。無論お嬢さんは無事でしょうが、坊ちゃんの身までは保証出来ないわけです。となると、アリスを激昂寸前まで煽り立てて、事前に用意した三発分のリソースを全て私に使わせるのがベストだったわけです」
「なるほど。あなたは妙な魔術を使えるものね。……で、それをただ消費させるだけじゃ満足出来なかった」
彼は鼻で笑って、続けた。「ええ、そうです。利用出来る物は余すところなく利用します。ひとつは、私の魔術と彼女の魔弾の相性を思い知らせるため。もうひとつは、傷によって格付けをしてやったわけです。ああいう手合いは少し卑怯な手を使ってでも屈服させるほうが後々楽ですから」
「……悪趣味」
理知的なサディストだ。
「失敬な」とヨハンは顔をしかめる。
「それで、あなたはアリスが廃墟にいることを知っていたわけ?」
彼は頷いてみせた。「二重歩行者で昨晩確認しました」
「……先に言いなさいよ」
ヨハンはぺろりと舌を出しておどけた。「教えてもお嬢さんはついてきたでしょう?」
「……そうね」
否定は出来ない。たとえアリスがいると知っていても、ヨハンひとりで行動させる気にはなれなかったはずだ。
それに、アリスの存在を知ったら余計意固地になったかもしれない。
ヨハンと彼女が手を組んで、とんでもなく邪悪な計画を練り上げる想像は簡単に出来るのだから。
「ルフがアリスをあの廃墟に運ぶことも、彼女が生きていることも、はじめから知っていたんじゃないの?」
そう、はじめから。
ヨハンがアリスに手渡した手紙は、即席で用意した物とは思えない。アリスの手元に届く前提でヨハンに託された物だとすれば、その時点からヨハンは今日の一幕に向けて計画を作り上げていたのではないだろうか。わたしに会うずっと前から。
ヨハンは首を振って否定した。「それは勘繰り過ぎです。お嬢さんが疑っている通りだと、私は手紙を受け取った瞬間から計画を練り上げていたことになる。さすがに妄想じみていますよ、クロエにゃん」
ヨハンのニヤニヤ笑いは、どこまでも信用ならなかった。彼ならやりかねないと思ってしまうくらいには、その尋常ではない狡猾さに絡め取られてしまっている。
ため息をひとつついて、空を見上げた。どんよりと曇っている。気分もさっぱり晴れない。
「なにを信じればいいか分からない」
自然と漏れ出た言葉だった。
「目の前の物事をひとつひとつ解釈していけばいいだけですよ。あとは経験と狡賢さがものを言う。……私はそうやって生きてきましたよ」
「でしょうね……」
それからは言葉を交わすことなく、ゆっくりと馬を進めた。辺りはじわじわと暗さを増していく。
ランタナの町並みが見える頃には、すっかり暗くなっていた。
「さて、ようやく休めますね。いやはや大仕事でした。今晩はぐっすりでしょうなあ」
そう言ってヨハンは首をボキボキと鳴らした。
彼に言っておかなければならないことがあった。それは、わたし自身の誠実さに関わる問題だ。
「ヨハン」
真剣な口調で呼びかける。
彼は聞いているのか聞いていないのか、町並みに視線を注いでいた。
気にせず言葉を紡ぐ。
「わたしがケロくんに魔術をかけられたとき……あなたが行動してくれなければ、どうなっていたか分からない」
言葉の末尾は、随分と小さくすぼまってしまった。悔しいやら、恥ずかしいやら、どうにも情けない気持ちになる。
「ありがとう」と呟いてから猛烈に恥ずかしくなった。自尊心が眩暈を起こしているような感覚。どうにも落ち着かなくなって、誤魔化すように付け加える。「……にゃん」
ヨハンは噴き出して、からからと愉快そうに笑った。「どういたしましてにゃん」
こんなふざけたやり取りは元騎士としてどうかと思う。
それでも、少しだけ気持ちが楽になった。
ぐっすりと眠るノックスの頭を、そっと撫でた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・ルフ→大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて




