67.「クロエ、クロエ、クロエ」
心臓の鼓動はいつの間にか速くなっていた。
窓の向かいに建物はない。となると、一体どうやって部屋の入り口付近に立つわたしを正確に狙うことが出来たのか。
ケロくんはぽっかりと口を開けていた。まず間違いなく彼が関係している。しかし、交信魔術らしき魔力は感じなかった。なにかが狂っている。あるいは、ケロくんの存在自体がわたしの経験や想像を遥かに超えているのだろうか。
「ケロくん。どういうことか説明して!」
窓から目を離さずに叫ぶと、ケロくんは焦ったようにつっかえつっかえ返事をした。「し、知らないケロ! な、なんで魔弾が飛んでくるケロ!? もしかしてあんたら、アリスの敵ケロ!?」
ヨハンはすかさず口を挟んだ。「一度敵として向かい合ったことはありますが、今は敵でも味方でもないです。お互い雇われて戦ったようなものですからね。ノーサイドですよ。少なくとも、こちらとしてはね……。カエルくん、もしアリスが我々を攻撃するとしても、君は傍観しているほうが賢明ですよ。何度でも繰り返しますが、私は君を殺したくない」
言葉の終わり際は冷えた口調だった。ケロくんが動く前に牽制する目的だろう。しかし、アリスが本気で彼に攻撃を命じれば、なりふり構わず厄介な魔術を仕掛けてくるに違いない。そうなると、こちらは断然不利になる。
「ケロくん聞いて! わたしはアリスと争うつもりはない! だから彼女を説得して! あなたも血が流れるのは望まないでしょ!」
ケロくんは返事をしなかった。考えているのだろうか。
背を汗が流れる。嫌な感覚が全身に広がった。とにかく今は、ノックスを巻き込まないことが第一だ。そのためならリスクだって負ってやる。
ケロくんの目の前に立って、その肩を掴んだ。右手はいざというときのためにサーベルを握ったままにして。
彼はびくりと身を震わせる。
「ケロくん、落ち着いて。わたしに敵意はない。ケロくん、もし今アリスと交信しているのなら伝えて頂戴。わたしと戦いたいなら一対一の状況でやって」
ケロくんはややあってから、躊躇いつつも口を開いた。「僕はアリスと交信なんてしていないケロ」
ヨハンが横から彼の目を覗き込んだ。「ええ、そうでしょうとも。交信してはいないでしょうな。では、広く聞きましょう。アリスに現在の状況を提供しているのではないですか?」
ケロくんは露骨に視線を泳がせた。なるほど、図星か。
魔力の隠蔽。ケロくんはそれに長けているはずだ。でなければ、あそこまで見事な変装魔術が出来るはずはない。彼の持つ技術の範囲内でカバー出来るもの。
「な、なにをするケロ! 前が見えないケロ!」
彼の大きな目に腕を押し当て、その視界を遮った。その動揺具合から、ケロくんが視覚共有を隠蔽している疑いは益々強くなる。
これでひとまず、アリスの攻撃は正確性を欠くはず。そう思ったが、ヨハンはわたしの腕をずらしてケロくんの視界を確保した。そして彼に呼びかける。「視覚共有ですね?」
ヨハンのどろりと剥き出した目にさらされて、ケロくんはただただ沈黙している。
「沈黙は雄弁です。カエルくん、今からアリスに呼びかける方法はありますか?」
「ないケロ」
きっぱりとケロくんは答える。
瞬間、鋭敏に研ぎ澄ました意識が遥か遠くで鳴った音を捉えた。
――魔銃の発砲音。それも三発続けてだ。
即座に窓を向き、サーベルを構える。それは一瞬で訪れるはずだ。息を止めて待つ。
しかし、それはいつまで待ってもやってこなかった。
代わりに、階下で物音がした。それは階段を登ってくるようだった。
アリスの黒いブーツを想像する。彼女は今、悠々とわたしたちがいる部屋を目指して歩みを進めているのだろうか。
なぜ、みすみす敵が潜む部屋までやって来るのだろう。彼女の狙いが分からない。
一歩ずつ近づく靴音に焦りを覚えつつ、アリスという魔術師について記憶を辿る。
一対一の戦いを好む戦闘狂。弐丁の魔銃のほかに防御魔術も会得している。ノックスを助けるあたりそこまで非情でもなさそうだが、わたしに手心を加えてくれると思わないほうがいいだろう。
「ヨハン、ケロくんの目を塞いで」
「はいはい」
ヨハンは指示通り、ケロくんの目を両手で抑えた。
「やめるケロ」「いじめるなケロ」と、やたらに罪悪感を煽る台詞を吐いていたが取り合わず、入り口の真横でサーベルを構えた。ノックスはケロくんとヨハンの後ろで待機させている。
やがて、部屋の入り口で靴音が止まった。閉じた扉の先に、アリスがいる。彼女はこのまま大人しく部屋に入るつもりはないようだった。
説得するチャンスかもしれないと思ったが、しかし、迂闊に声を出すわけにはいかなかった。こちらの位置が知れてしまえば容赦なく弾丸が飛んでくるだろう。それも、回避する時間もないくらい近距離の弾丸が。
沈黙が流れる。一体どうすればこの状況を打破出来るのか。
静寂を破ったのはヨハンだった。
彼はケロくんの目を塞いだまま、扉に向かって呼びかける。「ごきげんよう、アリスさん。私はアカツキ盗賊団の元用心棒のヨハンといいます。あなたと交渉がしたい」
一拍開けて、扉の先から押し殺した笑い声が漏れ聴こえた。
それは次第に、大胆な哄笑に変わる。
「ウフフフフフフ……。ヨハン。ああ、あまり知らない名前ね。でも、アカツキに雇われていたとするなら『関所』にいたのかしら?」
声からアリスの位置を読み取る。扉の向かいの壁の辺りだろう。きっと魔銃を構えつつ、壁を背にしているのだ。
「ええ、私は『関所』にいました。だからこそ、あなたがクロエお嬢さんにこだわる理由も理解出来る。あなたがたは実にお強い。まさに宿敵同士でしょうからねぇ」
「クロエ! クロエ、クロエ、クロエ……。いい名前だわあ。何度繰り返したか分からない……。ねえ、クロエお嬢ちゃんはそこにいるのかしら? わたしと殺し合いしましょうよ、ねえ」
アリスの恍惚とした声。思わずため息をつきそうになったが、なんとか堪えた。位置を勘付かれるわけにはいかない。
おそらく、ヨハンでもアリスとの交渉は難しいだろう。戦闘狂の執着は常軌を逸している。
一度、完膚なきまでに叩き潰してやるしかないかもしれない。あくまでアリスの狙いはわたしひとりなのだから。
ヨハンは易々とわたしを差し出すかと思ったが、案外頭を捻って次の言葉を考えているようだった。
きっと彼には別の景色が見えているに違いない。アリスをいかに攻略するか。それも、血が流れることなく。
全てはヨハンにかかっているように思えてならなかった。




