66.「廃墟の魔女」
ともあれ、わたしはケロくんを一旦は許容することにした。
酷く警戒心が強く、また、然るべき理由もあるのだろう。それについて追及する気にはなれなかった。その役目を担うのはヨハンだ。
正直、ケロくんについて接近することに苦手意識が生まれつつあったのだ。
「さて、カエルくん」ヨハンは改まった口調でケロくんに呼びかけた。「私の質問がまだ残っています。とりあえず、お嬢さんからはもうありませんね?」
わたしが頷くと、ヨハンは満足そうに微笑んだ。
「……というわけで、まず私からひとつ。ここは君の根城ですか?」
ケロくんは慎重に頷いた。既に首元のナイフも、もうひとりのヨハンも存在しない。にもかかわらず、虚言を躊躇わせるなにかがあるのだ。それはヨハンが先ほどケロくんの耳元で囁いた内容かもしれないし、それまでヨハンが丁寧に積み上げてきた恐怖の印象付けのせいかもしれない。
「よろしい、カエルくん。素直さは美徳です。……ここが君の住処とすると、それはいつからです?」
ヨハンの問いに対し、ケロくんは考え込むように腕を組んだ。天井へ向けた目がきょろきょろと動く。
それを見ていると、なんとなく落ち着いた。わたしが彼を簡単に許してしまえたり、警戒を解くことが出来るのはひとえにそのフォルムが由来している。つまりは、カエル頭だ。
昔からカエルが好きだったのだ。騎士になる前は、自宅に実物を忠実に模したカエルの置物やクッションを置いていたものだ。
それを指して二コルが「あんまり女の子らしくないね」と言ったことを思い出して歯噛みした。彼に関する記憶を辿るとき、思い出の輝きと現在の状況を比較して胸苦しく思わずにはいられない。
ようやくケロくんは自信なさげに答えた。「確か、半年前だケロ」
ヨハンはこれまた満足気に頷いて微笑んだ。それから真剣な顔付きに戻る。わざとらしいくらい表情の変化の多い奴だ。
「よろしい、よろしい。いやはや、いい答えです。半年前、ね。ならそれまでは各地を放浪しつつ、宿なしの身だったわけですか?」
「その通りケロ。野宿は当たり前で、何度盗賊に捕まりかけたことか分からんケロ」
「そうでしょうねぇ。四六時中変装魔術を施しているわけにはいかないですからね。さてさて、半年前からこの廃墟に住み始めたということは、昼はマルメロやランタナで時間を潰し、夜には廃墟へと戻る生活だったのでしょう?」
「なんで分かるケロ?」
ヨハンは首を横に振る。「分かりますよ、そりゃあ。ただ、質問には素直に答えてほしいですなぁ、カエルくん」
カエルは慌てたように「あんたの言う通りケロ」と付け足した。
「よろしい。それじゃあ、私も君の問いかけに答えましょう。なぜ君の生活模様が分かるか。この廃墟にいた魔物の生態から考えれば逆算出来る、ただそれだけのことです」
「なるほどケロ」
二人のやり取りを聞きながら、わたしはいまいち腑に落ちなかった。廃墟に魔物がいたということは、今は討伐されたのか住処を変えたのだろうか。「わたしは全然、なるほどケロ、じゃないんだけど」
ヨハンはにやにやとわたしを見つめる。
なんだ、もう。わたしがケロケロ言っちゃ駄目なのか。
「私から説明するケロ」と切り出してヨハンは指を一本立てた。「まず、この廃墟の魔物は消えました。その理由はこれからカエルくんに聞きます。さあ、ここからは私も知らない事実の話になります。さて、カエルくん。どうしてここの主が消えたのか、話していただけますね?」
ケロくんは「あんたらケロケロうるさいケロ」とぼそぼそ呟きながら、腕を組んで咳払いをひとつ。そして大きく息を吸った。
「僕がこの廃墟に住み着いたところから始める必要があるケロ」
ケロくんは流暢に――ただし、ケロケロと付けながら――話した。
この廃墟を発見したのは盗賊に追われている途中の、ほんの偶然のことだったという。廃屋の影に隠れて震えていたのだが、どうも盗賊たちは廃墟には一向に侵入してこなかったらしい。加えて、不思議なことにグール一体も見当たらない。夜毎に自分を悩ましてきた盗賊と魔物の両方から自然と身を守ることが出来る、そんな場所だったのだそうだ。
聖域、とケロくんは表現した。そこで半年近く、ケロくんは安全な夜を過ごしてきたのだという。
「しかし、物事には必ず理由があります」
ヨハンは訳知り顔で呟き、わたしを一瞥した。
どうです、分かりますか、お嬢さん。そんな内心の声が聞こえるようでちょっぴり悔しくなる。
「そう、その通りケロ。あんたはなにもかも知っているんじゃないケロ?」
ヨハンは首を横に振り「知りません」と返した。それが嘘かそうでないかは彼自身にしか分からないことだ。よくよく考えれば、実にアンフェアなやり取りに思えてならない。
「……続けるケロ」
ケロくんが語るところによると、今からひと月近く前、廃墟に異変が起こったのだという。その魔物は深夜、廃墟に現れたらしい。巨大な体躯をした魔物。ただ、そいつがケロくんを襲うことはなかった。この廃墟の最も高い建造物である時計台から、じっと街一帯を見下ろしていたのだという。
廃墟のひときわ高い時計塔について思い出してみた。確か、この場所に足を踏み入れてから一番最初に目についたのがその建造物である。先端部分が無残に破壊され、文字盤の半分から下だけが残った建物。おそらくはこの街のシンボルだったもの。
そいつが現れた翌日は警戒して廃墟に戻らずにいたのだが、次の日の日中、様子を見に行ったのだという。
時計台にいたのは、先日目にした巨大な魔物よりもひと回りもふた回りも小さい『魔物の雛』だったという。それが計五、六体。
そこでケロくんは思い知ったのだという。その廃墟は主である巨大な魔物が巣造りを行う場所であり、だからこそ、それを知っている盗賊や小型の魔物は近寄ろうとしなかったのだと。昼間でも消えない魔物が存在することは噂に聞いていたが、実際に目をしたのははじめてだった、と語った。震えが止まらなかった、と。
時間の制約を飛び越えた存在は、確かに恐怖を与えるものだろう。わたしだって最初はそうだった。
夜と昼の区別があるからこそ人は立ち向かったり、あるいは賢く避けたり出来るのだ。その、いわば常識を超越する者がどれほどおぞましいことか。子鬼やグールの比ではない。
それから暫く、ケロくんは廃墟から離れていたのだという。しかし、外界の夜は盗賊と魔物の跋扈する世界である。ひと月近くの安全な夜がそれまでの勘を鈍らせていたのか、あるいは一度知ってしまった安息を殊更求めてしまう思いからか、ケロくんは盗賊や魔物に追われながら、なんとか明け方、廃墟に戻り付いたらしい。
そこで待っていたのは、巣から転げ落ちた一体の雛だった。雛、といってもその頃には殆ど成体に近かったと言う。その一体は真っ直ぐにケロくん目指して駆けてきたという。
逃げまどいつつ、廃墟の一室に潜り込んで身を震わせていると、外を跳ね回る魔物の叫びや、巣の喧噪が段々巨大になり、やがて一切が静寂に包まれた。おそるおそる外を見ると、蒸発する雛と親。街路に倒れたひとりの魔術師。なにが起きたのか理解したときには、その魔術師を保護していたらしい。
「傷だらけだったんで、廃墟で治療したケロ。包帯やら薬やらで」
言って、ケロくんは銀のアタッシュケースを机の影から取り出して見せた。開くと、そこには薬瓶や包帯が雑多に収まっている。
今や魔術師は概ね恢復したらしい。本人曰く全快らしいが、ケロくんに言わせるとまだ安静にすべき状態との話だ。
「医術に詳しくはないケロ。でも、注意してみればその人が無理してるかどうかくらい分かるケロ」
そう語るケロくんの様子には、どうもその魔術師への並々ならぬ感謝が見て取れた。
安息の日々を取り戻してくれた張本人。危機的状況から自分を救ってくれた人間。魔術師自身にその意図がなかったとしても、英雄視されるのは至極当然のことに思えた。
ヨハンはケロくんが語り終えるのを待って、拍手のジェスチャーをした。「いやはや、実に素晴らしい。なんて道徳的な話でしょうか! それでカエルくんは恩人の魔術師を少しでも守るため、あんなに警戒していたのでしょうね。今でこそ理解しているでしょうが、我々はその魔術師に危害を加えるつもりなんてありません。寧ろ、称賛に値します。ねえ、クロエお嬢さん」
「え、ええ」
仰々しい奴だ。なぜその魔術師が敵ではないと言い切れるのか、わたしには分からない。
「カエルくん。……ときに、その魔術師の名前は? ぜひとも知りたいものです」
ケロくんは頷いて口を開いた。
瞬間、高速で進む魔力が窓の先に見えた。それは一直線にこちらへやって来る。
「伏せて!」
そう叫んだ瞬間にガラスが粉々に割れた。全てがスローモーションに見える。わたしの顔めがけて直進する小さな魔力球。飛び散るガラスに光が反射する。
サーベルを瞬時に抜き、その魔力を逸らすように弾いた。
腕に広がる痺れ。その魔弾の、魔力の凝縮具合をわたしは知っている。彼女の高飛車な口調といやに気取った姿が脳裏に浮かぶ。
狂弾のアリス。彼女は生きている。




