65.「反響する小部屋」
それからはどろどろと溶け出すように溢れる罪悪感との戦いだった。
わたしはヨハンに刃を向けた。それも随分理不尽な理由で。エゴで剣を抜き、あまつさえ振り下ろすなど、あってはならないことだ。憎悪に身を支配され、それまで大切に保ち続けていたはずの倫理観は腐食し、指一本分の影響力さえ肉体に及ぼすことが出来なかった。
耳を貫くのはニコルの声。
彼は見下すように、軽蔑するように、わたしを責め続ける。
「君は騎士じゃなかったの?」「ただの野蛮な女性じゃないか」「だから君は選ばれなかった」「僕を殺す権利があるのかい?」「君は正義だろうか」「憎悪に溺れていたとき、君は気分が良かったろう?」
これらが全て、現実の言葉でないことは理解していた。けれど、止まらない。頭の中でびりびりと響く。
使命。それを果たすだけの器がある人間だろうか、わたしは。ヒロイックな感情を盾にして、狂気を愉しんでいるのではないだろうか。
視界に白い布がちらつく。そうか、涙を拭ってくれているんだ。誰が?
気付くと、ノックスがしゃがみ込んだわたしの傍で、無言で頬を拭っている。
白いハンカチ。それをノックスは持っていたのだろうか。
ああ、そうか。ヨハンがノックスに渡したんだろう。
「ごめんなさい」
口が自然に動いていた。脳には相変わらずニコルの呟きが満ちている。
ヨハンがしゃがみ込んでわたしを覗き込んでいる。
哀れんでいる。そんな表情だ。
「ごめんなさい」
繰り返し、何度も何度もそう呟いた。意味が剥離し、ただの音に変わってしまうまで、何度も何度も。
ヨハンはそれをじっと聴いてくれているようだった。そしてノックスはわたしの目元を拭い続けている。とすると、涙が止まらないのだろう、きっと。この罪悪感以外はなにも分からない。目的も、自尊心も、羞恥心も、ぼんやりとかすんでしまっている。
これに終わりはあるのだろうか。生きている限り、この感情から永久に逃れられないのではないか。ああ、わたしは逃げることを考えてしまう最低な人間だ。『元』であろうと、騎士を名乗る資格はどこにもない。単に、倫理的に壊れた心が呼吸を繰り返しているだけだ。
やがて口を動かすのも億劫になった。
「カエルくん」とヨハンは振り向きがちに呼びかけた。「お嬢さんが元に戻るのを手助けしてくれないでしょうか? ノーとは言いませんよね、まさか」
元に戻る? わたしはどこまでもわたしのままだ。一瞬たりとも自分から離れたことはない。だから、この黒々と渦を巻く後悔も全てわたしだけのものだ。
「……ごめんケロ」
わたしの前まで来て謝罪するケロくんに、ヨハンは叱咤するような口調を浴びせた。「今言ったって仕方がないでしょうが。さっさと戻すんですよ」
なにをそんなに怒っているのだろう。ヨハンは被害者なのに。憎悪と手を取り合って剣を振るったわたしに怒ってよ、ねえ。
ケロくんがじっとこちらを見つめている。吸い込まれそうな目だ。カエルの目って面白いなあ。
「深呼吸を繰り返すケロ」
言われるまでもない。わたしはぐったりと項垂れ、深く長い呼吸をし続けた。
先ほどまでの罪悪感は消えかけていた。多少尾を引いている趣はあったが、心を掻き乱して使命を曇らせるほどの闇雲な力は持っていなかった。
一体わたしはなにをされたのか。徐々に呼吸を正常に戻しつつ、考えた。
「やってくれたわね、ケロくん」
睨むと、ケロくんは身をすくませて一歩後ずさりした。少し目付きが鋭過ぎたか。
「ようやく元に戻りましたねぇ、クロエお嬢さん」
ケロくんの横でヨハンはへらへらと笑ってみせた。安堵が透けて見える笑いだ。
「おかげさまでね。さっきのあれはケロくんが魔術をかけたせいだと思うけれど、だけど……」なかなか素直に言葉が出てこない。普段の自分は、こんなにもへそ曲がりだったとは。少々嫌になる。「だけど、あなたに切りかかったことは事実よ。本当に……ごめんなさい」
「なあに、全てカエルくんの悪戯のせいですからお気にせず」
「……ありがとう」ぽつりと呟く。
するとヨハンは乾いた笑い声を立てた。「ははは……どういたしまして」
それから、ノックスを見つめる。彼の手にはぐっしょり濡れたハンカチが握られていた。思わず彼の頭に手を乗せる。
「ノックスも、ありがとう。情けないところ見せちゃったね」
ノックスは小さく首を横に振った。気遣いのできる子だ、本当に。わたしよりずっと立派じゃないか。どこか安心してしまった。
長く息を吐き出して、ケロくんに視線を戻す。彼はもじもじとやたら申し訳なさそうにしていた。「ごめんケロ」
「別にいいケロ。気にしてないケロ」とおどけてみせる。カエルに謝られても、こちらが申し訳なくなってしまう。しかし、想定していた以上にケロくんは油断ならない。ヨハンがいなければ今頃わたしは罪悪感に潰されていたし、そもそも憎悪から引き戻されることもなかっただろう。「けど、ひとつ教えなさい。あなたはわたしになにをしたのかしら?」
ケロくんは躊躇うように口を何度か開閉させた。それから意を決したのか、息を吸い込んだ。「洗脳したケロ」
「は?」と思わず聞き返す。洗脳魔術なんて簡単に使えるものではない。
ケロくんは焦ったように腕をばたつかせた。「せ、洗脳といっても些細なものケロ! その人が持つ感情を少しいじるだけケロ!」
「感情をいじるって……随分と大袈裟に聴こえるけど」
「感情ひとつひとつにツマミが付いているのを想像するケロ。僕はさっき、憎しみのツマミを少し捻っただけケロ」
思わずケロくんを睨みつけた。まだ嘘を言うのか、このカエルは。「少し?」
「ごめんケロ……かなり捻ったケロ」
「そうでしょうね……」
でなければあんな強烈に、憎悪に引きずり回されるはずがない。しかし、本当に彼が洗脳魔術の使い手なら、わたしが察知できないのも理解出来る。被術者には、それがいつどのタイミングで仕掛けられたのかも分からないとされているから。
「昨日あなたが牛を操ったのも同じ魔術かしら?」
ケロくんは素直に頷く。こんな具合に平然と交わされる会話の合間に洗脳をかけられたのなら、誰が抵抗出来るだろう。厄介極まりない。
「お嬢さん、あまり警戒しなくて大丈夫です。もうカエルくんが我々に危害を加えることはない」
「どうして?」
ヨハンはニヤリと笑う。「しっかり契約を結んだからです。ギブ・アンド・テイク。お嬢さんもよく理解しているでしょう?」
確かに、ヨハンは損得の妥協点を見出しつつ、互いが間違いなく益を受け取れるよう調整するのが上手い。彼が契約上大丈夫と言えば、それは水も漏らさないのだろう。
ケロくん次第のところはあるだろうが、ひとまず安心してもよさそうだった。
「ケロくん……洗脳魔術についてわたしは詳しくないけれど、それも種類はあるでしょう? どんなものを使ったの?」
再度それをかけられないためにも、得られる情報は得ておく必要がある。
「反響する小部屋ケロ」
「……反響する小部屋」
確かそれは、脳で特定の言葉や音を反響させる魔術だったように記憶している。レコード代わりに音楽を鳴らしたり、そんな使い方をされていた。
王都でそれを用いた洗脳が流行らなかったのは、それが魔術師には簡単に破棄されてしまうことと、他の魔術師にすぐ見破られてしまうことが影響している。
なるほど、わたしに魔力は殆ど存在しない。反響する小部屋の絶好の的だろう。ただ、それで憎悪を煽ったり動物を操ったりが容易に出来るとすれば、ケロくんの魔術は熟達している。
ヨハンの言葉通りなら、もはや敵ではないのだろうが、やはりとんでもない厄介者であることに違いはない。




