63.「ノイズ~あるいは最も適切な誤謬~」
こほん、とひとつ咳払い。緩んだ空気を締め直す。
「ケロくん」と口にしたが、続く言葉に辿り着く前にどうも気が緩んでしまった。なんだか動物に呼びかけているような感覚になってしまう。いや、確かに頭はカエルである以上、動物と捉えて差し支えないのかもしれないが。
「なんだケロ」
ケロくんは続きを急かすように言う。
深呼吸ひとつ。もう一度、気を引き締め直した。
「あなたの持っていた銀のアタッシュケースなんだけど、あれはどこで手に入れたの?」
暫しの沈黙。ケロくんは考え込むよう目を閉じた。
「忘れたケロ。だいぶ前に手に入れたから」
ヨハンは、ケロくんの言葉に偽りはない、とでも言うように頷いた。
「それじゃ、白衣の男についてあなたは知っているかしら?」
「白衣? なんだケロ?」
いささか漠然とし過ぎたことを反省する。「……質問を変えるわ。マルメロで白衣を着た男を見かけたかしら?」
「見てないケロ」
確かめるようにヨハンを見ると、彼はまたしても頷いた。ケロくんのアタッシュケースは、彼が記憶を辿れるより以前に所持していたものであり、マルメロでは白衣の男を目にしていない。すると、あの微量の魔物の気配とは無関係なのだろうか。
「なら、あなたはキュクロプスや微弱な魔物の気配や、タソガレ盗賊団を襲った敵の正体についてなにも知らないのね?」
「クロエだったケロ? あんたの言ってることはなにひとつ理解できないケロ」
無関係。それで間違いないだろう。すると、銀のアタッシュケースというだけで彼を追ったのは思慮が欠けていたと言わざるを得ない。しかしながら、あのときは全てがひとつの糸で繋がっているのではないかと疑わずにはいられなかったのだ。
「良かったわ。とりあえずケロくんはわたしの敵ってわけじゃなさそうね。でも、勿論、場合によっては簡単に立場が切り替わる。だからこそ、あといくつか教えてほしいことがあるの」
「なんだケロ」
「あなたが姿を隠している理由は、その頭を隠すためでしょう?」
カエル頭がまばたきをひとつ返す。「その通りケロ」
「なら、あなたがそんな頭になった理由について教えてくれないかしら?」
魔術で自分の姿かたちを変化させることは出来る。ただ、それは通常変装魔術のように一時的な策謀のために用いられるのだ。
ケロくんの頭は、固定化され、どうにも石のように動かしがたい魔力で覆われていた。凝固しているのだ。自分でも解くことなど出来ないだろう。
今でこそ固まってしまってそれほど大きな魔力は感じないが、この頭を作り出し、それが固定されるまで維持し続けた魔力について考えると、気が遠くなる。
膨大な時間と、大量で上質な魔力。もしケロくんが自分自身でそれを実行したのだとすると、彼はとんでもない大魔術師かもしれない。
躊躇いつつも答えようと口を開きかけたケロくんをヨハンが制した。「カエルくん、この問いには答えなくていいですよ」
ケロくんはほっと安堵したような表情を浮かべた。一方でわたしは納得いかずにヨハンを睨む。
「どうして邪魔するのかしら?」
「彼のこれまでの生活に関するような質問は適切だと思いません。お嬢さん、あなたはカエルくんを辱めてどうしようというんです?」
「けど!」と叫びかけたわたしに、黙れというジェスチャーを送る。唇の前で指一本を立てて。
なんとも腹立たしく、そして憎たらしい。
敵かもしれない存在なら全てを知ろうとするのが当たり前ではないか。
「時間の無駄です、お嬢さん。彼について必要最低限のことを訊けばいいんです。カエルくんのパーソナルに迫ったところで一体なんの利益が生まれますか? 短時間で全てを知ろうだなんて思い上がりは捨てるんですな。でないと、騎士様であっても早死にしますよ」
「うるさい。……ほんとにうるさい」
ああ、ヨハンの声はまるでノイズだ。どうしたって調子を乱される。いっそ彼とはここで縁を切ったほうがいいのかもしれない。いや、そうなると契約に背いたことになる。
ならば、どうすればいい。どうすればルールの上で問題なくヨハンと関係を解消できるのだろう。
道中は助け合う。そう、わたしたちは助け合って歩んでいる。そこには和解や妥協といった譲歩がいくらか作用しているだろう。となると、絶対に譲れないものが出来た場合、契約はどうなる? 片方が一方的に諦めるのか?
「お嬢さん?」
ヨハンの声が遠く聴こえる。それはあまりに小さく、言葉として認識するに足るようなものではなかった。
絶対に譲歩できない場合。それは、決めるしかない。どうやって? その方法は様々あるだろう。平和的解決、賭博的解決。
そのなかで、最もわたしに適した方法はなんだ?
いや、答えは既に出ている。わたしは大切な瞬間には、必ずこうした解決手段を用いてきた。そして概ね思う通りに物事を動かしてきたように思う。
「……お嬢さん!」
ヨハンの語調が強くなる。知ったことではない。
「お嬢さん! 剣を納めてください!」
サーベルの切先をヨハンに向ける。
そして一言、決して相いれない者に対してのみ用いてきた台詞を吐いた。
「黙れ、悪党」




