62.「ケラケルケイン・ケロケイン~つまりは、ケロくん~」
二重歩行者。
それを仕掛けていたからこそ、ヨハンは妙にあっさりと引き下がったのだろう。おおかた予想がついていた。彼がカエル男の住処を突き止める手段はそれしかないだろうから。
そして今この瞬間まで潜伏し、一気に実体化させたのである。
おそらく二重歩行者を仕掛けたタイミングは、カエル男を引き止めたあのときだろう。どのような方法で行ったのかは分からない。そもそも、その瞬間をわたし自身は確認できなかったからだ。
カエル男は勿論、わたしの魔力察知能力でさえヨハンは凌駕しているのだ。正直、二度と敵に回したくはない。
カエル男は手足をばたつかせて抵抗しながら、もごもごとなにやら喋っていた。
ヨハンは人差し指を唇の前で立てた。「カエルくん。少し静かにしていただきたい。でないとろくに会話もできませんからねぇ。それに、あんまり暴れるとナイフが予期せず動いてしまうかもしれない」
カエル男は一度ぶるりと身を震わせたあと、手足と口の動きを止めた。あとはぷるぷると小刻みに震えるのみだ。小心者なのだろう。
しかし、相変わらず卑劣極まりない脅し文句を使う男だ。
「よしよし、それでいい。なに、私は君を傷付ける気はありません。誓いますよ。ただ、こちらに危害を加えたり、無暗に暴れたりするとその限りではなくなります。理解できますね?」
カエル男はゆっくりとまばたきをして見せた。イエスの意思表示だろう。首にナイフを当てられて頷くような胆力を持った奴なんてそうそういない。
「カエルくん、君は実に賢明な男です。状況を見ることに長けている。逃げおおせる充分な勝算があれば一直線にそこへ向かうが、上手いアイデアが見出せない場であれば大人しく相手に従っておいて機を窺う……。君のような男は個人的に嫌いじゃないですよ。ただねぇ、どうも油断ならないので気疲れしてしまいますなぁ」
そう言ってヨハンは何度か首の骨を鳴らした。相手に恐怖感を与えることにかけては卓越している。
「いやね、君が逃げたって私は一向に構わないわけですよ。また捕まえて今以上の脅しをするだけですから。そうなれば五体満足というわけにはいかないでしょうねぇ、きっと。……私は他人を傷付ける趣味はありません。ただし、必要であれば慈悲なく実行する。それだけのことです」
カエル男に今、頭を回すだけの余裕があるだろうか。彼はわたしたち一行を完璧に出し抜いて安全な隠れ家に潜んでいたのだ。そこを突き止められ、加えて正体不明の魔術によって自分はもうひとりの骸骨男に羽交い絞めにされ、首元には鋭いナイフ。骸骨の目付きは前日同様、一切の虚言を見抜いてしまうおぞましい色をしている。ついでにサーベルを持った仲間がひとり。放心し、全面降伏して然るべき状況だろう。
「さて、カエルくん」
ヨハンは部屋のなかを左右に行ったり来たりしている。カエルの目はひたすら彼の姿を追っていた。
「君は私と話をしてくれますか? その気があるのかどうか、答えはシンプルであればあるほどいい。そのほうが私もどうすべきか判断し易い……。さて、イエスならまばたきひとつ。ノーならふたつでお願いしますよ。既にご存知でしょうが、私に嘘は通用しませんからね」
ゆっくりと一回瞼が降りて、再び開かれた。イエス。
二重歩行者は彼の口を塞いでいた手を離した。代わりにそれを腕に回して拘束を強める。
カエル男は喘ぐように繰り返し呼吸をした。
「よろしい。素直なのは美徳です。私は君に訊きたいことがいくつかある。そして、おそらくはお嬢さんもいくつかご質問がおありでしょう。……それらに率直にお答えいただけますか? 今度は口に出して意思を伝えてください。イエスか、ノーか」
薄気味悪い視線が、カエル男を射殺さんばかりに注がれる。さすがに同情したくなった。ここまで露骨な脅迫をまざまざと見せつけられると、ヨハンが邪悪な存在にしか思えなくなってしまう。いや、彼が邪悪であるのは確かだ。敵にとっては。
「す、す、素直に答えるケロォ……」
返事の直後に、カエル男はぐったりと脱力した。
そのしょんぼりした姿とケロケロ語尾があると、どうも弱い者いじめをしているような気になる。しかし、ここで情を見せようものなら昨日と同じくつけこまれるだろう。心を鬼にし、必要な追及を不足なく行うだけだ。
「さあ、お先にどうぞ」とヨハンはわたしに譲った。
いきなり促されたので言葉に詰まってしまう。「まず……」
そう言ってから、いきなりアタッシュケースのことを訊くべきか否か迷った。物事には段階というものがある。交渉事に就いた経験は少なかったが、ある程度のノウハウは心得ている……つもりだ。
「まず、自己紹介から始めましょう。わたしはクロエ。よければ、あなたの名前を教えてくれないかしら?」
カエル男は大きく息を吸い込み、素早く回答した。「ケラケルケイン・ケロケイン」
耳から入った妙な情報に、脳の処理が追いつかない。
「ケロ……なに?」
カエル男は「はぁー」と声に出してため息を吐き出した。それから、もう一度繰り返す。「ケラケルケイン・ケロケイン」
「えーと……分かったわ。ケロくんね」
カエル男は盛大に落胆して見せた。肩を落とし、特大のため息ひとつ。「……もう、それでいいケロ」
馬鹿な問答は終わりにしよう。段階を踏むのは大切だろうけれど、その段階の第一歩目で躓いていてはどうしようもない。
わたしは本題について切り出すべく、彼の顔を真剣に見つめた。




