5.「人形使いとメイド人形」
遥か遠くで、かすかに音がしていた。なんだろう、と不思議に思って感覚を澄ます。
すると、土の匂いに気が付いた。豊かに湿った土の香り。
遠くで鳴っていた音は、段々近寄ってくるように感じた。次第に音の輪郭が整う。不揃いながらも一定のリズムがあるように思えた。石畳を突くヒールの音を少し柔らかくしたような、そんな感じ。背景音楽のように、衣擦れや木板の軋みが微かに混じる。
瞼を開くと、木組みの天井が見えた。梁にはくすんだランプが下がっている。瞳だけで周囲を見渡すと、明かり取りの天窓や食器棚の上半分が見えた。
一定間隔で続いていた音が止まる。代わりに靴音が二、三歩分こちらに近づいて来た。と、わたしの視界に顔が現れる。
透き通った黒の瞳がこちらを覗き込んでいた。薄い唇も、張りのある頬も、細い首も、どこか生命力の失せた印象だった。無機質な無表情。眉ひとつ動かさない。肌には透明感がなく、作り物めいていた。
身につけたカチューシャは、彼女の頭の上に波のような白いヒダを形作っている。髪は後ろで束ねているのだろう。艶のある黒髪が一束、首の横から下がっていた。
「マスター、目覚めまシタ」
その声音は少女のそれだったが、口調は硬く、表情ほど無機質ではないにしろ機械じみていた。
身を起こそうとすると、頭に鋭い痛みが走った。その女性はわたしの頭に手を当てる。そしてゆっくりと枕に押し戻した。安静にしなさいと語りかけるような仕草だった。顔にあらず、案外優しいのかもしれない。
頭を横向けると、彼女の全身が見えた。裾の長い黒地のワンピース。上腕部から袖にかけて、腕のラインがはっきり分かるくらいぴったりとした作りになっている。袖口には質素なボタン。襟元には藍色のリボン。肩からはロングのエプロンが下がっている。
メイドは王城で何度も見かけたことがある。彼女の装いは確かにメイドではあったが、王都のそれと趣が違って見えるのは、飾りの質素さからだろう。襟にはブローチのついたスカーフ、袖口には銀の飾りボタン、それが王都流である。
なんとなしに眺めていると、彼女のスカートを握る小さな手に気が付いた。
「マスター、彼女が混乱していマス」
メイドは振り向いて、その小さな手を何度か指でつついた。
おどおどと姿を現したのは、十歳そこそこの少年だった。俯いて、シャツの裾を掴んだり離したりしている。首元で結んだ肩掛けのマントは灰色で、それより淡い同系色のシャツは彼には少し大きいように思えた。代わりにズボンは、ぴったりと身の丈に合ったサイズ。これも鼠色で、見事に色彩感の欠けた冬の雲のような服装だった。
とはいえわたしは、彼の装いや、落ち着きない様子なんて少しも気にならなかった。
包帯が彼の両目を覆うように、ぐるりと巻かれていた。怪我なのか盲目なのか分からないが、一種異様な感じがした。
「こ、こ、こんにちは……」
まだ幼い声。語尾が消え入るような話し方は自信のなさからだろうか。それとも単に人見知りなだけなのか。
「……に……わ……」
わたしの声は切れ切れになって、すっかりかすれていた。まったく、嫌になってしまう。
そんなわたしの声を怪物の呻りとでも思ったのか、彼は後ずさりしてメイドのスカートに隠れた。
「マスター、彼女は目覚めたばかりで上手く話せないようデス」
それを聞くと、彼はどこかに駆けて行って、またすぐに戻ってきた。手には木製のコップ。わたしは痛む頭で半身を起こした。
冷たい水だった。身体に染み入って、癒しを与えてくれる。
何度か深呼吸をする。今度は上手く声が出せそうだ。
「ありがとう」
微笑んでみせると、彼は恥ずかしそうに俯いた。そうしてぽつりと呟く。「そ、外で寝ると、風邪ひくよ……」
「え?」
「深夜、庭の畑に寝ているアナタをワタシが保護したんデス。マスターには、酔っ払いが寝ていると報告しまシタ」
「……酔っ払い? わたしが?」
思わず笑ってしまった。お酒なんて一滴も呑めないのだ、わたしは。加えて、騎士団員の私的な飲酒は禁じられていた。非番であっても気をゆるめるな、ということだ。どれだけ守られていたかは知らないが、わたしは律儀にも一滴のアルコールさえ口にしたことはない。
「ひとの庭で寝ているヤツは、酔っ払いか泥棒デス」
一理ある……のかもしれない。弁明すべき立場に立たされているのだろうか。
さて、なにから話そう。というより、どう話せば納得してくれるだろうか、彼女たちは。騎士団員で、勇者の結婚相手で、その勇者は魔王に奪われて、転移魔術でここに飛ばされた。まるで酔っ払いのうわごとじゃないか。というより、ここがどこなのかすら分からない。
説明すべきことも、知るべきことも多すぎるように思えた。目が回る。
「マスター、彼女は疲れているようデス」
「ね、寝てていいよ……。僕たちは今夜のスープを作るから……」
「そうでスネ。そういえば料理の途中でシタ」
使い古された暖炉の上には丸い大鍋が乗っている。そのそばには水瓶があり、そのまた横には調理台があり、小ぶりの包丁と、切りかけの芋。あとは見たこともないぐるぐる捻れた茎のようなものが転がっていた。目覚める前に聴いた音は、どうやら芋をざく切りにしている音だったようだ。
メイドは袖のボタンを外し、腕まくりをした。それから思い出したようにこちらを振り向いて「オネエサン、お名前ハ?」と訊ねた。
少年はメイドの横に立って、やたらと深呼吸している。
「わたしは……クロエ」
名乗ってからしばらくは沈黙が続いていた。少年だけが落ち着きなくもじもじしている。メイドは彼を見下ろして「ホラ」と小さく囁いた。
彼は大きく息を吸った。
「は、は、は、はじめまして、クロエお姉ちゃん。僕はネロ……」
またしても沈黙。
「ホラ」
「う、うん……。彼女は……」と言ってメイドを指さす。「か、彼女はハル」
紹介されたメイド――ハルはスカートを上品に広げて小首を傾げる。「ゴキゲンヨウ」
「は、ハルは僕の大切な人形で、ぼ、僕は人形使いさ!」
言い切って恥ずかしくなったのか、ネロはまたしてもハルのスカートにしがみつく。
「よく言えましタネ、マスター」
「う、うん……!」
なにやら誇らしげなネロたちとは打って変わって、わたしはただただ唖然としていた。
【改稿】
・2017/11/11 口調及び地の文の調整。ルビの追加。
・2017/12/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。