60.「やさぐれヨハン」
その晩ヨハンは、明日はランタナより先には進まないと告げた。それ以上の説明はせず、追求しようにも「私用です」とだけ返されてしまった。もやもやとした感情を抱えつつも、そう突っぱねられてしまったら引き下がるほかない。
深夜、ノックスの寝息が聴こえてきた頃にリビングへ戻ると、ヨハンは案の定起きていた。ソファで腕を組んでひたすら沈黙している。向かい側に腰を下ろすと、ちらとわたしを見ただけで視線を床に落とした。
じっと彼の顔を見つめる。相変わらずの骸骨顔だが、どうも思案に暮れているような雰囲気だ。
「ねえ」と声をかけると、どろりとした目がこちらに向いた。怯まずに続ける。「あなたが今、なにを企んでいるのかは知らない。わたしの道中に影響が出ないのなら邪魔をする気はないわ。ただ、そう隠されると気になって仕方がないの」
ヨハンは押し黙っている。
「教えてくれとは言わないわ。ただ、道中助け合う契約でしょう? 助けになれることがあったら言って頂戴」
わたしが言い切るのを待ってヨハンは大きなため息をついた。それから諦めたように首を横に振る。「お嬢さんもしつこい人ですね」
「ええ。わたしは内緒や秘密が嫌いなの。きっとあなたが考えていることって、昼間のカエル男のことでしょう?」
ヨハンは仰向いた。視線を交わすことの放棄。そのように見えた。「あー……。そうですよ。あのカエルくんのことで、色々と頭が痛くてね」
「その頭痛、わたしにも分けてくれないかしら?」
「お断りです」きっぱりとヨハンは言った。相変わらず仰向いたままだ。
この強情張りをどうすれば籠絡できるだろうかと考えたが、どうにも上手い方法が思い浮かばなかった。そもそも、騙し合いや言葉の上でのやり取りならわたしはこの男に大きく後れを取っている。
「……分かったわ。じゃあ、わたしは明日好きなように行動させてもらう。勿論、邪魔はしない。あなたの跡をつけるだけだもの、邪魔にはならないでしょう?」
仰向いた骸骨からため息が漏れ出した。「なんでそれが邪魔しないことになるんですか。……全く論理的じゃないですよ」
立ち上がり、ヨハンの顔を覗き込む。怪訝な表情をする彼に、ニッコリと笑いかけた。「お生憎様。わたしは論理で生きていないのよ。それじゃ、おやすみなさい」
寝室の扉に手をかけたところで、振り返った。ヨハンもこちらを向いていた。「言い忘れていたけど、もし先にどこかへ出発しようものなら、全力で邪魔しちゃうから」
寝室に戻ると、リビングから今までにない巨大なため息が聴こえてきた。無根拠な脅しや空言はわたしの領分だ。
ベッドに潜り込んで、明日の起床時刻について考えを巡らす。日の出までにヨハンが動くことはないだろう。彼の実力から考えれば、夜間に行動を起こしたからといって大きな問題はないはずだし、襲い来るグールを倒すことなど造作もないことだ。それでも彼は動かない。
ひとつの可能性が頭の隅に兆していた。
昼間の執着と、牛の大群から逃げおおせたあとの態度、そして突然の日程変更。彼はなにかを発見したのだろう。それも、カエル男に関して。
ヨハンとその男の関係性は不明だったが、理由はあるはずだ。それがわたしにも無関係であるとどうして言えようか。あの銀のアタッシュケースに感じた不穏な予感は簡単に拭い去れるものではない。
そんなあれこれをぐるぐると考えていると、様々な思考が途切れては繋がり、また、繋がっては途切れた。そうして思考の脈絡は絶えていき、薄く膜がかかったように不明瞭になっていった。脳の訴えに素直に従い、まどろみに身を任せた。
翌朝、寝室から出るとヨハンはひとりでサンドイッチを摂っていた。律儀なことに、ノックスとわたしの分もきっちり用意されている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
ヨハンは昨晩の追及の余波を感じさせないくらい普段通りだった。いつもの少し嫌味な口調。
「ええ、おかげさまでぐっすり」
「そりゃよかった。どうぞ、ごゆっくり朝食を召し上がってくださいな。私はひと仕事済ませてきますから」
そう言って立ち上がりかけたヨハンの肩を掴む。「待ちなさいよ。ひとりで食事を摂るのって寂しいのよ?」
「ノックスがいるでしょう?」
「ノックス。ええ、そうね。ところで坊ちゃん呼びはやめたのかしら?」
ヨハンは頭を掻いて唸った。「わーーーーーっかりましたよ。好きにするといい。ただし! ただし、ですよ。お嬢さんがどうなっても私の知ったことじゃないですからねぇ」
「自分の身くらい自分で守れるわ。それに、ノックスもちゃんと守ってみせる。悪く思わないでね」
ヨハンは「へえへえ」と不貞腐れたように返事をする。
これで、とりあえず一歩前進したはず。彼とカエル男の因果については今後確かめればいい。いずれにせよ、ヨハンをひとりにして妙な動きをされては困る。そんなことを考えながらも、奥底ではヨハンを屈服させた優越感が溢れていた。小唄のひとつでも歌ってやりたい気分。
寝室の扉が開き、ノックスが姿を現した。
わたしが今日ヨハンと共に行動することを告げると、彼はやはり無表情に頷いた。寝起きでも彼の感情は読み取れない。
朝食を摂るべくテーブルに座るや否や、ノックスは寝室へと戻っていった。それからすぐリビングに戻った彼の左腕には、例の腕時計が光っていた。表情こそなかったが、その姿を微笑ましく感じてしまう。あえてそのことには触れずに朝食を摂った。
ヨハンは諦めたように、わたしたちが食事を終えるのを待ってから行き先を告げた。
「はいはいはい、お食事はもう終わりですかぁ? 終わりですねぇ? よろしい、実によろしい。それじゃ、本日の予定を発表と行きましょう。いいですかぁ? これから私たちは馬に乗って、昨日辿った道を戻ります。勿論全部じゃないですが、かなり戻ります。そして横道へ逸れて、とある廃墟へ行くことになります。ええ、そうです、廃墟ですよ、廃墟。元は街だった場所です。今や建造物の墓場とも言えましょうねぇ。で、そこでなにをするか。クロエお嬢さん、どうぞあなたの予想をぶちまけてごらんなさいな」
よほどヨハンは不機嫌と見える。その捲し立てかたも、演技じみた口調も、雑な感じだった。投げやりになっているのだろう。まるで子供じみている。
「どうせ、カエル男がそこにいるって言うんでしょう?」
予想したまま答えるや否や、ヨハンはぱちぱちぱちと雑な拍手を繰り出す。「ご名答! 騎士様に金貨一枚! そう、我々、いや、私はカエル男を追います。坊ちゃんには気の毒だが、どーーーーーーしてもクロエお嬢さんが私の跡をつけたいようで、坊ちゃんをひとりきりにしておくのも忍びないですから、ご同行願いますよぉ」
ノックスはまたも小さく頷く。状況を理解しているのかいないのか不明だ。
ともあれ、本日の予定は決まった。ヨハンも渋々ながら同行を許している。やっと、あの妙なカエル男の正体を知ることができるかもしれない。加えて、ヨハンがそいつにこだわる理由も。
わたしたちは食後の休憩もそこそこに町をあとにした。




