59.「逃亡とランタナの農地」
ヨハンは灰色に濁った空を見上げていた。そして大きなため息をつく。
「思ったよりも狡い男でしたねぇ」
あなたほどじゃない、と言いかけて口をつぐんだ。上手く出し抜かれたわけだが、この先どうすべきなのだろう。あのカエル男を放置して先に進むべきなのだろうか。
「それで、どうしましょう。戻ってあいつを探す?」
ヨハンは首を横に振った。「いえ、このまま次の町に行きましょう」
「随分呆気ないのね。さっきはあんなに必死だったのに」
「そうでしたっけ? 私はいつも通りですよぉ」
剽軽な口調で言うと、ヨハンはトコトコと馬を歩かせた。こちらも跡を追うように馬を進める。
最前までのヨハンの様子が気がかりだった。馬を目いっぱい走らせてカエル男を追い、そしてあの不気味な目で奴の虚言を見抜こうとした。そこには尋常でない執着心が感じられたのだが、今の彼はまるでカエル男なんてどうでもいいといった風情だ。
どうにも腑に落ちない。しかし、それを口に出してしつこく追及しても、決して素直な返答は得られないだろう。
ヨハンにはヨハンなりの考えがある。それを尊重する気はなかったが、もしあのカエル男がわたしたちの道程に暗い影を落とすような存在であれば、無論、ヨハンは手を打つだろう。狡猾さにかけては一流なのだから。
「ごめんね、ノックス。随分馬が揺れたでしょ? 辛くはない?」
「大丈夫」
ノックスは少しわたしを振り仰いで、いつもの如く素っ気ない返事を返す。
馬のスピードを上げて、次の町であるランタナを目指した。ヨハンからの事前情報によると、カメリア同様に宿は一軒きりのささやかな町なのだそうだ。ただ、マルメロから近いこともあって、農業などの一次産業が盛んであるらしい。獲れたての野菜や穀物を新鮮なうちにマルメロに届けられる都合上、必要以上に手広くやっているらしい。大量生産のおかげか、単価も安く出荷できるというわけだ。そのせいか、カメリアのほうでは農作物のシェアに爪痕ひとつ立てられず、旅人向けの宿泊システムでなんとかやっているのだろう。
何時間か馬で走っていると、ランタナの町並みが遥か先に見えた。平坦な街道のずっと先に、ぽつぽつと民家が建っている。辺りはいつの間にか薄ぼんやりとしていた。
ふとノックスの腕時計を見つめると、彼は指で縁の部分を優しくなぞっていた。思わず口元が緩む。
彼に気付かれないようにひっそりと微笑んだ。
プレゼントが気に入ってもらえるのは、なにより嬉しい。そして、凍り付いたノックスの心を少しでもほぐせていれば、と思う。少しずつでいいから、その年齢に相応しい月並みな情動を得てくれればなによりだ。
時刻は七時を回っていた。あと三時間もすれば魔物の気配がちらほら現れるだろう。この町にもタソガレ盗賊団の警備はあるに違いない。マルメロとの交易相手だ。手厚い保護があると考えるのが妥当である。
ランタナの町は、農地に囲まれるようにして中央に民家が密集していた。どの家屋も、カメリアのそれと比べると立派な造りになっている。個々の農家がたっぷりと稼ぎをあげているに違いない。
馬を降りて歩きつつヨハンから聞いたところによると、ひとつの農家に対して農夫が大量に雇われているのだが、稼ぎの配分はある程度潤沢になされているらしい。だからどの家もがっちりとした庭付きなのだ。そのなかでもひときわ豪奢な石造りの邸宅は農地の所有者の住まいらしい。
僻地の小金持ち。そんな言葉が浮かぶわたしは、やはり王都をベースに物事を判断しているのだろう。グレキランスのように、王城が政治の中心となり、全体のバランスを整えていくような仕組みばかりではないのだ。その土地には、その土地なりのシステムがある。それは風土や習慣から醸成され、今や確固たるものとして住民を支配している。
それが良いことなのかどうかは、わたしに判断する気はない。ただ、三食無事にありつけて、魔物の凶刃から身を守れているのなら充分過ぎるくらいだ。
宿を目指す道の途中で、何度か盗賊とすれ違った。おそらく、集会には参加しなかった常駐の警備担当だろう。そのいかにもな服装で、ひと目でタソガレ盗賊団と分かった。彼らもいつかは、ウォルターのような正装に変わるのだろうか。いや、彼は装いの自由を語っていたはずだ。となると、今のようにすぐに盗賊団と判断することは今後出来なくなるのかもしれない。といっても、その頃にはわたしは『最果て』から離れているはずだ。
二コルの顔が頭に浮かぶ。日々忙しそうに、魔具訓練校と魔術訓練校を行き来していた少年の頃の姿。彼は王都でただひとり、魔具と魔術の両方を干渉させることなく使用できる逸材だった。そしてどちらの訓練校でも抜群の成績を残し、言うまでもなく将来を嘱望されたのである。
そんな彼が選び取ったのは、魔王討伐の道。実際、王やその臣下とどのような交渉がなされたのかは分からないが、王都に流れていたのは、二コルは自ら進んでその役目を求めた、という噂である。魔王の存在は語られていたが、それを討伐するために部隊が編成されたことはなかった。というよりも、王都の守護で手一杯だったのだろう。そこに有望な若者が現れ、かねてより魔物発生の元凶と考えられていた魔王の討伐を進言したのである。
そして彼は、王の期待通りの役目を果たした。
これからは平穏な日々が訪れる。魔物が全て消滅したわけではなかったが、それを新たに生み出している存在が消えたのであれば、あとは残党狩りのようなものである。
既に人間は勝利した。これからは騎士も必要ではなくなるかもしれない。
淡い夢だった。誰が、彼の裏切りを予見しただろう。そして、なぜ王都の真偽師は二コルの虚偽の報告を見抜けなかったのだろう。
暗雲は消え去っていない。それどころか、よりどす黒く頭上を覆っている。そのことを王に報せなければならない。
宿の部屋はマルメロと比較すると簡素だった。木の床に、木のテーブル。革張りのソファが向かい合わせにふたつ。リビングルームとベッドルームがそれぞれ一室。
「お嬢さんと坊ちゃんは寝室でしっかり休んでください。私はソファをもらいますから」
案外こういうところは気が利いているので、なんとも複雑な気持ちになってしまう。
「助かるわ」
「なあに、紳士ですから」
はて、どこに紳士がいるのだろうか、と辺りを見回して見せた。てっきりヨハンから軽口が返ってくるかと思ったのだが、彼は黙して顎に手を当てていた。心ここにあらず、といった具合である。なにか妙な企みでも考えているのだろうか。
ヨハンの顔を覗き込むと、彼はぽつりと呟いた。「カメリアで話したこと、覚えていますか? 日程の変更が必要になったときは合わせる、と」
「ええ、忘れてないわ」
「丸一日、日程をずらす必要が出てきました」
ヨハンの目は、どこか遠くを見つめていた。




