58.「ケロ?」
ヨハンは既にカエル男に追いついていた。
「ノックス、少し揺れるけど我慢できる?」
「大丈夫」
ヨハンは馬を降りてカエル男と対峙している。
速度を上げて駆ける。
ようやく追いついた頃には、カエル型の魔力は先ほどよりもはっきりとした輪郭をしていた。代わりに凡庸な頭のほうは微かにぼやけている。
手綱を引き、スピードを落とす。カエルのほうはこちらを振り向いたが、ヨハンはじっと男を見据えている。あの目だ。全ての嘘を見抜こうとするときの、不気味に見開かれた目。
馬を降りて彼らに歩み寄る。付近に牧場があるのだろう、牛の鳴き声が絶えず聴こえていた。
「あんたたち一体なんですか!? 僕になんの用なんだ!?」
案の定、とんでもなく警戒されている。
「ごめんなさい。ちょっとその人、おかしいのよ」
そう言って自分の頭を指さして見せた。そしてニッコリと笑いかける。偽物スマイル。
普通ならここで軽口のひとつでも言うヨハンだが、彼はただただ黙している。そして気味の悪い目付きでカエル男を凝視していた。
その視線を見ないように、カエル男はこちらを向いて困惑したような表情を浮かべている。凡庸な頭も、カエル頭も、同じような表情をしていた。
間近で観察すると正体が掴めた。やはり、カエル頭のほうが本体で間違いない。凡庸なほうは魔術で作りだした仮初めの頭で、本体のカエルは上手く透過させている。魔力を感知する技術のない人間なら簡単に騙せるだろう。
「早くこの男を連れて帰って下さい! 気味が悪くて仕方がない!」
演技じみた口調だったが言葉は本心だろう。思うに、話し方まで偽っているに違いない。徹底している。
「ええ、すぐに連れて帰るわ。……ごめんなさいね、本当に。お買い物帰りのところを驚かせちゃって……」
「全くだ!」
憤慨の演技。カエル頭のほうにぽつぽつと魔力が浮き出る。汗だ。正体を隠したがっているのは当然だと思うが、本当にそれだけなのだろうか。手元の銀色のケースが午後の光を反射している。
「あの人、たまにああなっちゃうのよね。暴れたりはしないから安心して頂戴。……お詫びってわけじゃないけど、ご自宅までお送りいたします。丁度ひとり分、馬に空きがありますから。歩くのもお疲れになりません?」
「……僕はひとりで歩くのが好きなんだ。放っておいてくれ」
「そうですか……。ちなみに、どちらまで行かれるのかしら?」
「……ランタナ」
確か、と頭の中で計算する。ここから次の町ランタナまで四時間弱。それも、馬での移動が前提だ。徒歩なら倍以上かかる。ランタナに辿り着く前に夜の帳が降りるだろう。彼は今、どこへ向かっているのか。
「嘘だ」
ヨハンが鋭く呟くと、カエル男はぎょっとして彼を振り向いた。ヨハンはカエル男にニヤリと笑いかける。なんとも薄気味の悪い笑みだ。
「化けの皮が剥がれていますよぉ……」
ヨハンは重ねて呟く。カエル頭が、いよいよくっきりとしてくる。浮かんだ汗の玉も見えるくらいに。代わりに当たり障りのない作り物の頭は陽炎のように揺らめいていた。
「ねえ、ちょっとあなたに興味が出てきたんだけれど、お時間よろしいかしら? 少しお話しましょう?」
言って、サーベルに手を触れる。ヨハンの脅しに乗っておいたほうがいいと判断したのだ。案外、揺さぶられやすい性格なのだろう。
「は、話なんてしないケロ!」
ケロ?
男の呼吸が激しくなる。それから徐々に、カエル頭に色が付き、代わりに男性の頭は消えていった。
ノックスを一瞥すると、驚いたように目を丸くして、ちょっぴり口元が緩んでいた。もはや、誰の目にも見えている。緑のカエル頭が。
「あらあらあら。さっきまでただの男の人だったのに、カエルさんになっちゃったのね? けれど、わたしたちは気にしないわ。さあ、お話しましょう?」
サーベルを抜く。しゃりしゃりと心地良い音が響いた。
「や、やめるケロ。助けてケロ……」
なんだか気抜けした。先ほどまでの跳ねつけるような強気な物言いはすっかり影を潜めている。きっとこれが本来の調子なのだろう。これではまるで、いじめているみたいではないか。顔もカエルだし……。
仕方なくサーベルを柄に納めた。これ以上彼を追いつめると自分自身が嫌いになる。
「分かったわ。乱暴しない。わたしは事情があってあなたに訊きたいことがあるのよ。街道で話すのが嫌なら、勿論場所を変えたっていい。その間、頭に布を被せて隠してあげるから」
カエル男はほっと息をついて肩を下げた。
「本当に襲わないケロ?」
両手を挙げて攻撃の意志がないことを示す。「襲わないわ」
それからカエル男はヨハンを振り向いて、「あ、あんたも乱暴しないケロ?」と訊いた。
「乱暴しないケロ」とヨハンは返す。既に目付きは元に戻っていた。よかった、いつもの腹立たしいヨハンだ。
「そんなら、よかったケロ」
そう呟いてカエル男はわたしに向き直った。
不意に、男の身体から円形に魔力が広がった。それは波紋のように薄く引き伸ばされ、一瞬でわたしの身体を通り過ぎていった。瞬時にサーベルを抜き、カエルに切先を向ける。
「ら、乱暴しない約束ケロ!」
「あなたがなにもしなければね。……ねえ、カエルさん。今なにをしたの?」
「し、知らないケロ! 助けてケロ! 殺されるケロ!」
カエル男は大粒の涙を流す。もうそんなものでは騙されない。こちらの隙をついて魔術を仕掛けようとする奴に容赦は必要ない。
カエル男はじりじりと街道脇の草原に後ずさりする。こちらはサーベルを構えたまま、いつでも切り伏せることの出来る距離を保ち続けた。
街道脇は緩やかな丘になっている。ここから丘の頂点まで十メートル前後。いくらカエル男が駆け出そうとも見失うことはない。
遠くで牛の鳴き声がする。それと、地鳴り。
それはどんどん大きくなり、やがて丘の向こうになにかが迫っていることを知った。
やがて丘の上に、牛が現れた。こちらへ向かって疾駆してくる。一頭や二頭ではない。数えるのも面倒になるくらい大量の牛。
一瞬の隙を突いて、カエル男は丘へと駆けた。
「待ちなさい!」
このままではカエル男は暴れ牛に吹き飛ばされる。
あわや直撃、という寸前で牛が道を譲った。
「クロエお嬢さん! 逃げて下さい!」
言うまでもなく、わたしは疾駆する牛から逃げて馬に乗った。急いでノックスを乗せて走り出す。ヨハンも同じく、街道を真っ直ぐ北東に馬で駆けた。牛は街道を辿ってわたしたちを追ってくる。
「なによこれ!」
「知りませんよ! おおかた、カエルくんの魔術でしょうよ!」
動物を操作する魔術なんてあったろうか。それも、これほどの群を全て動かすような魔術が。確かに、洗脳に近い魔術や大規模な操作術なら可能だろうが、カエル男が放ったのは薄い膜のような魔力のみだった。その程度で出来る芸当ではない。
混乱を抱えつつ、後ろの群を見る。猛烈な勢いで迫って来ていた。馬の速度に追いつけはしないだろうが、心臓に悪い光景だ。あれに跳ね飛ばされれば服は勿論、身体もズタズタになるだろう。
暫く駆けていると、ある地点で牛たちの動きが緩やかになり、ぞろぞろと元来た道に戻っていった。
わたしたちは馬のスピードを緩め、呆気に取られて牛を見送った。そして、気弱そうに見せておいて案外狡猾なカエルについて考えを巡らす。
曇天の下、奇妙な出来事がわたしたちの足首を掴んで離してくれない。




