54.「晩餐~夢にまで見た料理~」
宿に戻ったわたしを待っていたのは、ヨハンの邪悪なニヤケ面とノックスの無表情だった。
「随分と良いお召し物で」
ヨハンはわたしをじろじろと眺めた。
スカートはズタズタに破け、ミイナから貰ったズボンも致命的な傷がいくつもついていた。シャツだって無事ではない。服は勿論だが、顔も髪も泥だらけだろう。なんとか宵の口にはマルメロに辿り着いたのだが、擦れ違った人は皆、見ない振りをしたり目を丸くしたり、乙女としてはなんとも屈辱的な思いを味わった。わたしだってナイーブなんだぞ、と世界に対して叫びたいくらいに。
幸いなのは、返り血が付着しないことだった。魔物の血は、それを流した主が蒸発すると同時に消えていく。キュクロプスが暴れた痕跡は、でこぼこになった大地くらいだろう。
ヨハンを無視して、水を浴びる。宿に浴室が付いているのはなんともありがたい。しかも湯が出る。馬鹿にするわけではないが、近隣地域の文化度から考えれば最先端だ。カメリアでもダフニーでも、湯を浴びることは出来なかった。
狭い浴槽にお湯を張り、身を沈める。思わず長い息が漏れた。
極楽。
ただ、手足はところどころ切り傷があり、お湯が滲みてちくちくと痛む。身体のそこかしこに感じる鈍痛は、じき青あざになるかもしれない。特に両腕は持ち上げるのも苦労がいった。明日いっぱいはこの気怠さが続くに違いない。ろくに戦うことも難しいだろう。それでも、この程度の傷で済んだのは幸運だ。巨人に突っ込むような無謀と、明らかに両手用のサーベルを片手で扱う無茶を仕出かしたのだ。こうして安息のひとときを味わえていることに感謝しなければならない。
口元を沈めてブクブクと息を吐く。ちょっと楽しい。
湯から上がり、仕方なしにボロボロの服に袖を通す。ため息が自然と零れた。
居間ではノックスとヨハンがテーブル越しにチェスで遊んでいた。ノックスの隣に座って、タオルで髪を拭きつつ盤上を眺める。どちらが優勢なのかさっぱり分からない。ゲームの類には疎いのだ。
「おや、服以外はさっぱりしましたねぇ。あとで一局どうです?」
「遠慮しとく」
肉体的にも精神的にも疲れていた。『ジャック派』勝利のためのひと芝居も勿論、キュクロプスとの戦闘の疲労がどっと全身に広がっていた。ハードな一日。
タオル越しに目を瞑ると、小さな光が瞼の裏でちかちかと舞った。
「明日の出発は午後からにしましょう。次の町までは四時間もあれば着くでしょうから」
「……いいの?」
「もともとそのつもりでしたよ。変更後の日程通りです。クロエお嬢さんもひと仕事すると眠たくなるようですねぇ。明日は午前中に休むなり観光するなり、お好きに過ごすといい」
労わっているつもりなのだろう、おそらく。あるいは、こうやって信用させるのが狙いなのだろうか。けれども、ヨハンの言葉の裏を深読みするほど元気ではなかった。
「今日、ふたりはなにをしていたの?」
「店を冷やかしてから、カフェでスウィーツを食べましたよ。瑞々しい果実に、甘いクリィーム。いやはや、ちょっと胃もたれしてしまいましたよぉ」
この骸骨男め。
チェスは決着がついたらしく、ノックスがヨハンのキングを控えめに転がした。ヨハンは額に手を当て「坊ちゃんはお強いですなぁ」とオーバーに言った。それから、誤魔化すような口調で「そろそろ夕食にしましょう。少しここで待っていてください」と告げた。
ヨハンが部屋を出ると、静寂がじんわりと広がった。
「ねえ、ノックス」
呼びかけると、彼はこちらを向いた。
「スイーツ、美味しかった?」
ノックスは強く頷いた。今まで彼に投げかけた問いの中でも、確固たる応えだったので思わず苦笑してしまう。
「それなら、良かった」
案外ヨハンもしっかりと面倒を見てくれているようだ。わたしのいないタイミングでご馳走を頬張っているのはなんともやるせないが。
ノックスはチェス盤に目を落とし、じっとしていた。
これから彼はハルキゲニアで引き取られ、そこでまともな生涯を送るのだ。人並みの幸せと人並みの苦労を味わいつつ成長していく。そうでなければ駄目だ。
昨晩、作戦会議のついでにウォルターから、ハルキゲニア行きの馬車がどういう性質のものか教えられた。曰く、貧しい家庭にハルキゲニアからの使者が訪れ、子供と引き換えに金品を置いていくのだそうだ。親は金を受け取り、使者は子供を受け取る。両者にとって有益な取引であるらしい。というのも、ハルキゲニアは魔術教育の盛んな都市らしく、引き取った子供たちを『アカデミー』という施設で養いつつ魔術師としての英才教育を施すらしい。それなら、ドロップアウトした者はどうなるのかというと、幼ければ然るべき家庭に引き取られ、成熟していれば役所やアカデミーの労働力としてのポジションを与えられるのだそうだ。晴れて魔術師としての能力が開花すれば、都市防衛や魔術研究、あるいは魔具製造など様々な道が拓けるらしい。引き取られた当人にも、引き取った都市にも、メリットのあるシステムなんだとか。だからこそハルキゲニアの使者は馬車を『ユートピア号』なんて名付けているらしい。
眉唾なところもいくつかあるが、『アカデミー』が魔術師を輩出していることは確かだとウォルターは語った。『アカデミー』を卒業したばかりの双子の魔術師が都市防衛の一部を担っている、と。なぜそれを知っているのかと訊ねても、はぐらかすばかりだった。なにかろくでもない事情があるのだろう。
なんにせよ、ノックスは両親に捨てられたに違いない。いくらかの金品よりも軽い存在。そこで愛情の有無を計るほどわたしは傲慢ではないが、彼の無表情は落胆と失意の結果であるように思えてならない。
「ノックスは、これからどうしたい?」
ぼんやりと口にしてから、また迂闊なことを言ってしまったと後悔した。
一方でノックスは、相変わらずの無表情で返した。「強くなりたい」
「どうして?」
「強くなれ、ってボスに言われたから」
思わずノックスから目を逸らす。彼には未だ、グレゴリーの影響が色濃く残っている。暴力的で悪意に満ちた要求が彼のなかに根付いてしまっているのだ。
呪い。そう呼んで差し支えないだろう。どのくらいの時間と体験を経れば解放されるのだろうか。
「ハルキゲニアでは、魔術師になるための訓練をしてくれるらしいわよ。望むなら、ノックスは魔術師になれる」
彼の魔力が魔術師向きかは分からなかったが、少なくとも魔術に携わる生き方を選べるくらいの魔力量はあるように視えた。
「魔術師になりたい」とノックスは言う。これもやはり、グレゴリーの呪いだろう。
「……ノックスが幸せになれれば、わたしはそれでいい」
彼は首を傾げてみせる。幸せ。その概念が分からないといった具合に。
「スイーツを食べたときに、いい気分にならなかった?」
「美味しかった」
「そりゃあ、味はそうでしょう。大事なのは、そのときの気持ちよ」
「気持ち?」
「そう。胸が温かくなるような感じにならなかった?」
「分からない」
難しいな。どうしても平行線になってしまう。
そうだ、と閃く。
「明日も食べたい、って思わなかった?」
「思った」とノックスは素直に答える。
「そう思うことが、『幸せ』なのよ」
ノックスはひとしきり考えたあと、小さく頷いた。伝わってくれれば、それでいい。
少ししてヨハンが部屋に戻ってきた。右手には編み籠、左手には浅い鍋と円形の台のようなものを手にしている。
「お腹がすいたでしょう。特にクロエお嬢さん。今すぐ支度しますから、しばしお待ちを」
「なんで特にわたしなわけ?」
「仕事のあとは腹が減りますから」なんて呟きながら、ヨハンは敷き布の上に台を乗せ、そのまた上に鍋を置いた。台の下部には小さめのランプのようなものが付いている。下部からは三本の支柱が等間隔に上へ伸び、頂点は円形の骨組みになっていた。そこに鍋がすっぽり嵌まる作りである。
編み籠の中にはたくさんの丸パンとチーズ、あとは牛乳とよく分からない棒が三本入っていた。棒は柄の部分が木製になっており、そこから鉄が延び、先端は二又に分かれている。
ヨハンは牛乳を鍋に注ぎ、台のランプにマッチで火を点けた。
暫くすると、くつくつと沸騰する。ヨハンはチーズを小さくちぎっては投げ込み、鉄の棒で掻き混ぜた。それを何度か繰り返すとヨハンは手を止めてニヤニヤ笑った。「さあ、ご馳走ですよ。これがなんだか分かりますか!」
「チーズフォンデュでしょ」
ノックスは「チーズフォ……」と言ってわたしを見上げた。
「チーズフォンデュ」
ノックスは言葉にするのを諦めたのか、こくりと頷いただけだった。
「さすが天下のグレキランス出身ですなぁ。何度も口にしているのでしょう」
「当たり前よ」と答える。
書物の中で何度も見たし、夢の中では数回口にしている。悔しいのでそのことは伏せることにした。
ヨハンはわたしとノックスに棒を与え、丸パンをちぎって棒に刺した。そしてチーズに潜らせてから息で冷まし、口に運ぶ。
わたしとノックスもそれに倣う。
一口。二口。三口。
「おや、お嬢さんは随分空腹と見えますねぇ」
「ええ、仕事終わりだもの」と誤魔化しつつぱくぱく食べた。チーズフォンデュ。チーズの香りが鼻から抜け、パンはとろけるような食感を届ける。
このときばかりはヨハンに感謝した。でかした、と。勿論、言葉にはしないが。
夢で味わうよりも絶品だ。
わたしたちはあっという間にパンとチーズを空っぽにした。
「道具や食材をどうやって仕入れたの」と訊くと、ヨハンはなんでもないように答えた。「街のレストランで頼んだんですよ。食材と道具を借りられないかと」
「どうして? レストランに行けばよかったんじゃない?」と言ってから、わたしは自分の服のことに思い至った。どう考えてもレストラン向きの装いではない。
ヨハンはわたしを一瞥し、天井を仰いだ。「宿で食べるほうが落ち着きますから。私の都合です」
「……そっか」と呟いて、顔を逸らす。どうも気を回されると照れ臭くなってしまう。相手が皮肉屋で油断のならない詐欺師みたいな奴であるから尚更だ。「……ありがとう」
「だから、私の都合ですって」
そう返して、ヨハンは冷めた鍋と籠と串、そして台を手に部屋を出た。
こうやって少しずつヨハンを信用していくのだろうか。彼の行為は確かにありがたかったが、どこかで足元を掬われやしないかと心配になる。きっとそれは、取り返しのつかない瞬間にやってくるに違いない。
けれども、今は彼に感謝した。




