51.「災厄の巨人」
キュクロプス。別名、災厄の巨人。ひとたび現れれば破壊の限りを尽くす姿は、まさしく災厄と呼んで相応しい。その破壊劇は多くの書物で畏怖の象徴として語られていた。
キュクロプスは窪地の縁からわたしたちをじっと見下ろしていた。巨木ほどの身の丈と不気味なひとつ目は、恐怖を与えるに充分な要素であった。しかし、どうもおかしい。
つんざくような悲鳴がほうぼうで起こる。そのおぞましい巨体から、この先待ち受けているであろう惨劇を予想するのは容易い。魔物慣れしている盗賊団といえども、これは規格外だろう。わたしだって、王都でも数えられるくらいの回数しか相手をしたことがない。そのくらい珍しい魔物だ。
盗賊たちは様々な反応をしていた。逃げる者、腰を抜かす者、呆然と見上げる者。
キュクロプスはぎょろりと目を横に向けた。そして大きく拳を振り上げる。それは間断なく打ち下ろされた。
身体が浮き上がるような巨大な地鳴り。
窪地の内側にいた人間には、きっとなにが起こったのか見えなかっただろう。わたしもそうだ。おそらくそこには、窪地を抜け出して森へと駆けていった盗賊たちがいたのだろう。そして彼らが五体満足で逃げおおせたと考えるのはあまりに楽観的である。盗賊団員は、同志が潰される様を目にしなくて却って幸福だったかもしれない。巨人の一撃は、あまりに理不尽だから。
背後からウォルターの叫びが聴こえた。「おい! 奴には近寄らず、弓がある奴は構えろ! いいか、ひと塊になるな!」
彼の指揮に従う様子は見えなかった。皆、恐る恐るキュクロプスから距離を取り、武器を構えることもしない。それもそうだろう。この状況ではあまりに言葉が空転してしまっている。
ウォルターは俯きがちに、ふらふらとキュクロプスのほうへ一歩ずつ足を運んだ。その姿を、盗賊たちは凝視していた。彼は付近に転がっていた剣を手に取り、振り向いた。
「俺は戦う! もしお前らに加勢する気があるなら、奴へ向けて矢を放て!」
一瞬の静寂が広がった。そうして、なにかの合図のように、一本の矢が空を切る音が響く。それはキュクロプスの肌に刺さった。
やや時間を置いて、矢は次々に放たれた。
それからウォルターの元へと、剣を携えた男たちが確かな歩調で進んでいった。恐れを振り切って、前へ。そんな雰囲気が広がっている。
統率力。そう感じずにはいられない。最前までばらばらだった意思が、ウォルターの一喝のもとで巨大な敵へと収斂していくようだった。弓を持つ者は互いに距離を置き、剣を手にした男たちはウォルターを筆頭に、扇状に広がりつつじりじりと坂を登る。ひと塊にならないということはつまり、標的を分散させるとともに一撃ごとの犠牲も減らす作戦だろう。血は流れる前提だ。
ぎゅっ、と唇を噛む。やむを得ないものとしても、犠牲について考えることは辛い。
キュクロプスは、窪地をじっと見下ろしていた。矢が何本刺さろうとも一向に気にしていない様子だ。あの巨体にとっては蚊に刺されるようなものだろう。
巨人はまるで、ウォルターたちが拳の届く距離に入ってくるのを待っているように身じろぎひとつしなかった。その様子に違和感を覚えずにはいられない。わたしの知るキュクロプスは、もっと獰猛で、なりふり構わない暴君だ。騎士団で討伐した奴もそうだったし、書物のなかでも狂暴な存在として描かれている。
他にも異常はあった。なぜ誰もキュクロプスの接近に気付かなかったのか。なぜ夜ではないのに出現したのか。
疑問は絶えなかったが、それに拘泥しているわけにはいかない。覚悟を決める。そして、ウォルターたちから向かって左の坂を駆けのぼる。キュクロプスの目は、瞬時にわたしを追った。
「クロエ!!」
ウォルターの叫びが聴こえたが、足は緩めない。今は誰よりも早く、駆けねばならないのだ。「ウォルター! わたしが囮になる!」
「やめろ!! 死にたいのか!!」
「わたしを信用して!」
窪地の縁に辿り着き、巨人を見上げる。やはり、キュクロプスには違いない。しかし、拭い去れない違和感があった。足と、目だ。
キュクロプスは膝立ちになっていた。その理由は一目瞭然。足の先、人間でいうと踝の辺りから先が存在しなかった。ぷっつりと切れてしまっている。
畸形の魔物は今までも見たことがあるが、膝立ちの巨人というのはあまりに異様だった。しかしながら、これは一筋の光明である。機動力がなければ、それだけ付け入る隙が多くなる。無論、その拳を一撃でも受ければひとたまりもないが。
キュクロプスの背後目指して大きく左回りに走った。その不気味な瞳が追ってくる。それでいい。
ぎりぎり奴の腕が届く範囲に入ると、空気が変わった。いや、こちらの意識が変化したのかもしれない。一瞬でも油断すれば、なにもかも終わる。痛みや後悔すら感じる暇はないだろう。
奴の腕が持ち上げられる。呼吸を止めて、一段階速度を上げた。
そして腕が振り下ろされる。
なんとか直撃は免れたものの、地鳴りとともに身体が浮き上がった。耳鳴り以外、世界から音が消える。足が地面につくと同時に、大地に振り下ろされた奴の腕に筋肉が浮き上がるのが見えた。次の攻撃は容易に想像がつく。非常にまずい。
前方には、巨人の拳のかたちにへこんだ場所があった。おそらく、先ほど盗賊たちを叩き潰した跡だろう。一切の迷いなく、倒れ込むようにしてそこに飛び込んだ。――轟音。空気が押し潰されるような音と、瞬間的な風。心臓がどくどくと打っている。キュクロプスはわたしの予想通り、腕で薙ぎ払ってきたのだ。このへこみがなかったら、と薄ら寒い気分になる。
立ち上がって巨人を見上げると、奴はもうこちらに視線を注いではいなかった。その目の先は窪地の内側、ウォルターたちに向けられている。おそらく、わたしを殺した気でいるのだろう。
深呼吸をして、サーベルを抜いた。奴の背まで十数メートル。
奴の目に感じた、いや、今もありありと感じている違和感の正体ついて考える。元々魔物には、呪力を持つ種と持たない種がはっきりと分かれている。呪力を持つ種は、程度の差こそあれ必ずそれを有しているし、一方で呪力を持たない種は例外なく呪力を所有しない。経験上でも、知識の上でもそれは確かなことだ。そして、キュクロプスは一切の呪力を持たない。
キュクロプスの眼球に、靄のようにかかった呪力は不吉の象徴のように思えた。




