50.「決闘」
開始の合図が鳴り響くと同時に、ウォルターの膝がわたしの腹に入る。下品な歓声が湧き起こった。わたしはごろごろと柵の内側を転がり、腹を押さえてしゃがみ込んだ。
「嫌、酷い。酷いよ……すんすん」
顔を押さえて啜り泣く。すると、ウォルターが宣言した。「こいつは後だ。まずは一対一でやろうじゃねえか」
「今さら紳士ぶってるんじゃねえよ!」と、『グレゴリー派』の男は狼狽したように返した。いや、まさしくその通り。
ともあれ、ここまでは計画通りだ。手加減たっぷりとはいえ膝蹴りを入れられるのは嫌な気分だが、まあ良しとしよう。
これでふたりが闘い合うことになる。で、まず間違いなくウォルターが負ける。その寸前で乱入し、『グレゴリー派』の男に目に物を見せてやる。最後は疲れ切った様子で倒れて、気絶した振りを貫く。そうなると、観衆には意識を保って立っているのはウォルターだけに見えるので、なんとも歯切れの悪いことではあるが、彼は漁夫の利的な勝利によってタソガレ盗賊団のボスに就任するというわけだ。
加えて、万が一ウォルターが『グレゴリー派』の代表に気絶させられてしまった場合は、わたしがとりあえず一時的にボスの座を得て、すぐさまウォルターを次期ボスとして指名して身を眩ますという第二の案も存在した。しかし、それではあまりにも見え透いているので、あくまで最終手段として残すことに決めてあった。
覆った両手の間からふたりの様子を観察する。
一見、ウォルターが有利には見えた。『グレゴリー派』代表は動きが鈍重で、ウォルターの素早さに対応できていない。
しかしながら、数分も経つと優劣は明確に表れてきた。ウォルターの勝ちを少しでも予見した団員も、考えを改めたことだろう。
ウォルターは肩で息をし、動きはどんどん鈍くなっている。繰り出す拳や蹴りにも力が籠っていないどころか、打つごとに彼のほうが痛みに顔を歪めた。片や『グレゴリー派』の大男は平然としている。急所のみをガードし、後は打たせ放題にしているように見えた。おそらく、そろそろ反撃に出るだろう。
ウォルターが脇腹に拳を放った瞬間、大男はウォルターの顔面めがけて拳を振り下ろした。それまでの鈍重な攻撃とは打って変わって、素早いカウンターである。その緩急のせいか、ウォルターはかわす暇も、守る暇もなかった。
そして鈍い打撃音が響く。
ウォルターはぐらりと後ろに倒れ込んだ。あちこちで声があがる。歓声だったり、声援だったり、ただただ囃し立てる声だったり、多様だ。だが外野のボルテージは上がっている。
これまでだろうな、と思って顔を覆った手を外そうとすると、ウォルターの叫びが耳を貫いた。「まだだ!」
そして、ふらりと立ち上がる。口元にいつもの薄笑いはなく、きつく結ばれている。見開かれた目は一直線に大男を睨んで、拳を構えた。
確かに、たった一撃で沈むようなボスについていこうとはしないだろう。妥当な計算だ。彼らしい。
ウォルターは再び大男に突進し、直前で何度かフェイントを入れつつその顎に蹴りを放った。これは、と思ったが大男はびくともしない。お返しとばかりに強烈な膝蹴りを腹に打ち込む。するとウォルターの身体は一メートルほど綺麗に飛んだ。軌跡のように、彼の口から零れた血が見えた。
噎せ、血を吐き、それでも彼は立ち上がった。そして「まだだ!」と叫ぶ。
そう叫ぶときはまだ動かなくていい。それは事前の取り決めだった。
ぐっと堪える。まだ、彼にとっては団員を説得するに足りないのだろう。念入りだ。
それからしばらく、同じ光景が繰り返された。向かっては跳ね返され、殴っては吹き飛ばされる。シャツもズボンも泥だらけで、顔は鼻血と吐血でぐしゃぐしゃだ。それでも彼は「まだだ」と言う。
さすがの大男にも疲労が見えた。いつの間にか周囲は静まりかえっている。好奇の視線は、いつしか成り行きを見守る真摯な眼差しに変わっていた。息を呑んで凝視する団員の心には、今なにが萌しているのだろう。それがウォルターの背を押す感情であることを願った。
大男の蹴りを受けて、ウォルターはまたしてもダウンする。目は虚ろだ。
この決闘を終わらせるためか、倒れたウォルターへと歩みを進める大男。
もう限界だ。ウォルターが死んでは元も子もない。
わたしは素早く駆け、ウォルターの前に立ちはだかった。
「どきやがれ!!」と大男は激昂する。
どくもんか、でくの坊。そんな言葉を口に出しかけたが、引っ込んだ。わたしの肩に、手がかけられたのだ。ぎょっとして振り向くと、血まみれのウォルターが「まだだ」と呟いて立ち上がったところだった。
瞬間『グレゴリー派』代表の咆哮が聴こえた。咄嗟に視線を戻すと、奴の拳が目の前まで迫っていた。
と、拳がぐらりと逸れる。大男が標的を変えたのではない。ウォルターがわたしを押しのけたのだ。
景色がスローになる。
拳を顔面で受け止めるウォルターが見えた。そして、彼の脱力が見て取れた。彼の身体は大男のほうへゆらりと倒れる。誰もが終わりだと思っただろう。
ところがウォルターは足を踏み出して、カウンターを大男の顎に入れた。
巨躯がぐらりと揺れ、白目を剥く。そして大きな音を立てて倒れ込んだ。
誰もなにも言わなかった。ただ圧倒されていた。彼の執念に。事情を知るメンバーほど驚いたことだろう。あの作戦会議に居合わせた武闘派のメンバーも凝然と目を見開いて一言も発せられないでいる。
もっと楽な方法はあった。こんなにぼろぼろになる前にバトンタッチすれば『スマート』に勝てただろう。なのに、ウォルターは闘った。理由なんて分からない。いや、理由なんて必要ない。
割れんばかりの歓声が上がった。拍手も、高い指笛も、全て彼を称賛するものだ。『グレゴリー派』の男たちも、悔しそうに顔を歪めながらではあったが、頷きながら手を叩いていた。
「まだ終わってないぞ!」と審判は叫んだ。そしてこちらを指さす。全く、空気の読めない奴だ。
「あ、急に眩暈が」と言って倒れた。薄目で審判を見ると、実に困ったような表情をしている。
やがて決心したのか、再び叫んだ。
「決闘終了! 次期ボスはウォルターだ!!」
ドラが打ち鳴らされ、歓声が更に大きくなる。わたしは血まみれになっても立ち上がったろくでもない意地っ張りを、少し見直すことにした。同時に、タソガレ盗賊団も。
勝敗が決したので起き上がり、ウォルターを支えながら場外の武闘派たちに引き渡した。やがて柵を越えて小太りの男が走り寄ってくる。「ああ! 無事でよかった! 無事で! 本当に! 怪我はないかい?」
「大丈夫よ」
それから彼は、いたく感動したのか『ジャック派』へ入ると何度も宣言した。それはわたしに言われても困るのだが、気持ちは理解できる。
彼からサーベルを受け取り、瞬時に紐を結んだ。一秒もかからなかったであろう。彼は訝るよう目付きをした。そんな彼に、ちょっぴり舌を出して誤魔化してみせる。ごめんね。
時刻は六時といったところだろう。大団円、マルメロに着く頃には夕飯時だ。
不意に、頭を殴られたような衝撃を覚えた。次の瞬間には全身に鳥肌が立ち、足がふらついた。強烈な、魔物の気配。
直後、巨大な地鳴りが響き渡った。
大団円――そう考えたのが甘かったのだろうか。わたしは窪地の縁に現れたひとつ目の巨人を凝視した。




