41.「草原の蒼、海峡の青」
蹄が地を蹴る音が絶えず鳴っていた。太陽は高く昇り、わたしたちを暖めている。日差しは柔らかく、風は心地よい。『関所』を後にしてから既に三時間ほど経過していた。馬の体力を考慮し、ゆったりとしたスピードで駆け続け、途中何度か休憩を取った。
いつしか景色は赤土の荒野から、平穏な草原に変わっていた。緑色の海のような青々と茂る草むら。それを割るように街道が一直線に伸びている。
海峡に渡された橋を越え、またしばらく行けば最初の町に辿り着くという話である。焦って早駆けしても街を通過した先で野営を余儀なくされるので、今日は町で一泊すべきだ、とヨハンは提案した。可能な限り魔物との戦闘は避けるべきなのは当然であり、わたしに異論はなかった。またぞろ妙な企みをしていないだろうか、という疑念はあったが、常に目を光らせていればヨハンも下手な真似は出来ないだろう。
とはいえ、こうも落ち着いた旅程を楽しめるほどの精神的余裕はなかった。先へ先へと心が逸る。二コルの影が頭にちらついて、手綱を握る手に力が入る。気ばかり焦ってもしょうがないことは理解していても、それが心まで浸透してくれなかった。なにか別のことを考える必要がある。この焦りを意識しないで済むなら、なんでもいい。
前方を駆けるヨハンの馬がスピードを緩めた。そして彼は右手を挙げて何度か振る。あらかじめ決めた休憩の合図。わたしは手綱を引き、速度を落とした。
馬を降りるとわたしはミイナからもらった鞄から水筒を取り出して少年――ノックスに勧めた。彼は薄く頷いて二口ほど飲む。
ノックスは相変わらず無口だった。基本的には喋らない。それが生来のものなのか、それともタソガレ盗賊団のボスだったグレゴリーの影響なのかは分からない。いずれにせよ、そこに深く干渉すべきではないと思った。彼の無口が傷痕のようなものなら、自然に治癒されるのを待つほかない。元々の性格なら、それを矯正するのは傲慢だ。加えて、彼の今後の人生はハルキゲニアで始まるのだ。わたしはその橋渡しに過ぎない。
ただ、ひとつ告げていない事実がある。グレゴリーとアリス、及び『関所』を奪取した盗賊たちの死についてだ。それを知ってどういった反応になるかは分からない。見方によってはわたしたちは憎むべき存在になるかもしれないのだ。それを恐れているわけではないが、なんとなく言い出すことは憚られた。
ヨハンは馬を降りて大きく伸びをしている。それからあくびをひとつ。
「随分眠そうね。昨日たっぷり寝たんじゃないの?」
「私はいくらでも眠れるタイプですからねぇ。退屈な時間が続くと眠くて仕方ないんでさぁ。それに、『関所』で随分体力を使いましたからねぇ。その反動でしょう」
確かに、『関所』での戦闘においてヨハンの負担は大きかっただろう。二重歩行者と本体で魔物を寄せつつ馬を操り、おそらくは交信魔術でわたしたちを崖の上まで誘導し、再度二重歩行者を使ってミイナたちを崖のなかほどに架けられた橋に降ろし、最後は子鬼の大群にナイフで応戦したのだ。その苦労は認めてもいいが、やはり猜疑心は消えそうになかった。少しでも油断しようものなら、そこを突いてとんでもなく卑劣で醜悪な裏切りが待っているような、そんな気がしてならない。
「あとどのくらいで橋なのかしら?」
「もうじきでしょうなぁ。ほら、あのあたりから下草の背が高くなっているでしょう? ここの草と違って、海沿いの植物は種類が異なりますからね。近いってことですよ」
ヨハンは街道の先を指さしていた。目を凝らすと、確かに遥か前方の草原は頭ひとつ分くらい丈が高い。
「橋自体はそれほど長くはありません。徒歩だと結構かかりますが、馬ならばすぐでしょうね」
「随分詳しいのね」
「元々はハルキゲニアから来ましたから、既に一度通った道です。物覚えはいいほうなんでさぁ」
ヨハンはこだわりなく、さらりと言った。
「そう。ハルキゲニア出身ってことなのね。あなたの妙な魔術もそこで仕込まれたものかしら?」
「仕込まれた、って……失礼ですねぇ」
ヨハンはわたしの問いには答えるつもりがないようで、ただあくびを繰り返すだけだった。信用のおけない男だ。
わたしは話頭を変える。
「橋の先の町はどんなところなの? 服を売ってたりするかしら?」
「宿が一軒あるきりの、小ぢんまりしたところですよ。お嬢さんの期待している『素敵なお洋服』なんて売ってませんよ」
わたしはにっこりと微笑んで見せた。「聞いたわたしが馬鹿だったわ。あなたは生まれてから一度も服や靴の手入れもしたことないような人間ですものね」
「お嬢さんも嫌味なひとですねぇ。全く、子供の前でなんてことを言うんですか……」
そしてヨハンはノックスに向き直ってしゃがみ込む。「坊ちゃん、クロエお姉さんがいじめるんですよ。困っちゃいますね」
この骸骨男め、と思ったが口には出さなかった。ノックスはきょとんとヨハンを眺めている。
これ以上ヨハンの戯言を聞いていられないし、ノックスも突然妙な共感を求められても困るだろう。わたしはノックスの手を引いた。「さあ、そろそろ出発しましょう」
ヨハンは肩を竦めるジェスチャーをしてから、馬にまたがった。
わたしとノックスも馬に乗り、ほどなくしてヨハンが先導するように走り出した。わたしたちもそれに続く。
しばらく走ると、橋が見えた。想像していたよりも長く、大型の馬車が丁度すれ違えるほどには広かった。左右には欄干がついている。海峡は穏やかに見えたが、岸に打ち寄せる波音は強く響いていた。実際には流れが速いのだろう。
やや速度を緩めて橋を進む。蹄は軽快な音を鳴らしていた。
広がる海峡を眺めて、どこか感慨深さを覚えた。王都には川こそあれど、どれも幅は狭く、感動するような代物ではない。今、目の前いっぱいに広がる鮮やかな青は新鮮だった。本で見た景色を、今わたしは進んでいる。随分幼い頃に読んだ冒険譚の世界にいるような気分になった。陽光を受けてきらきらと輝くその水面は、純粋に美しい。王都の外には、こんな景色がたくさん広がっているのだろうか。永久に融けない氷の大地、一面の花園、針のように突き出た山並み、光舞う森、陽炎揺れる砂漠。
やがて前方に馬が見え、わたしは空想を中断した。馬はおよそ十頭。それらに男がひとりずつ乗っている。どれも粗野な格好をしていた。
男たちはわたしたちの姿を認めると馬から降り、橋を塞ぐように横に広がった。構えた剣の切っ先が太陽を反射する。
わたしたちは速度を緩め、やがて馬から降りた。それを確認して男たちが駆け寄ってくる。
ヨハンは顔をわたしの耳元に寄せ「タソガレ盗賊団です」とだけ囁いた。それだけで充分である。
なるべく穏便に済むことを願って、わたしは駆け寄るならず者を眺めた。




