40.「黄昏と暁の狭間で」
わたしはひと足先に穴ぐらの隠し部屋をあとにした。
ハルとネロは元気でやっているだろうか、と考える。ふたりの姿を思い浮かべると、胸がじんわりと温かく、同時に寂しくもなった。一日、また一日と過ぎていき、わたしは一歩ずつ先へ進んでいる。それは、思い出から遠ざかることなのかもしれない。
『最果て』は王都の南に位置する。魔王の城は王都の遥か北。わたしは今、ニコルの歩まなかった土地を旅している。きっとなにもかも違うだろう。旅路の過酷さも、それが与えた印象も。
強くならなければ。あらゆる意味で。
穴ぐらを出ると「姐さん!」と呼びかけられた。陽光の下でわたしは目を細めた。目の裏に、圧迫するような鈍い痛みが広がる。
「姐さん、来てください!」
じわじわと目が慣れてくる。「どうしたの?」
「タソガレの残党です! 今、ミイナさんも呼んできます! 姐さんは先に行っててください」
彼はわたしたちが『関所』を襲撃しに入った方角を指して、忙しなく駆けていった。
朝の光を浴びて走りつつ、腰の短剣を確かめた。大丈夫。いつでも抜刀できる。
残党、と彼は言った。すると、『関所』に留まっていたのだろうか。いや、それはない。あれだけの子鬼の群のなかで生き残れる人間などいるはずがない。なら、タソガレの援軍だろうか。いかにもありそうな話だった。タソガレの第二陣との戦闘にまで発展することも視野に入れるべきだろう。そのなかに、アリス並の魔術師がいるかもしれない。『最果て』では王都の常識など、思考を縛りつける鎖でしかないのだ。
駆けながら考える。もし魔術師と戦闘になるとしたら、勝てるのだろうか。いや、と首を振った。弱気になって足を止めることは誰にでもできる。今は敵の姿が見え次第、魔力の察知ができるように神経を尖らせておかなければならない。魔物の気配は第六感的に受け取ることができるが、魔力の察知は視覚に依存する。その姿をまず目にするのが先決だ。
やがて人影が見えた。アカツキ盗賊団の生き残りである。彼らは四人で固まっているようだった。残党はおそらくひとりきりで、それを囲むようにしている。
真っ白な髪が目に入ったとき、思わず足を緩めた。グレゴリーの罵声が耳に蘇る。矢を誤射した、あの少年だった。彼は虚ろな目でわたしを一瞥し、俯く。
「姐さん……こいつ、ここで座り込んでたんです。戦意はないみたいですけど、タソガレの連中だから一応報告しておこうと……」
彼は後ろ手に縛られているようだった。
わたしは彼の前にしゃがみ込んで、その顔を見つめた。彼はただただ俯いている。その顔立ちは怜悧で、無気力さが満ちていた。ネロよりいくつか年上だろう。彼がどうやってあの夜を生き残ったのか、不思議でならない。魔力はあるが未発達で、魔物を退けるだけの確かな魔術は使えないだろう。
「ねえ」
わたしは彼に呼びかけたが、反応はなかった。『関所』を通過する風の鳴き声が、静けさを強調するようだ。
「訊きたいことがあるんだけど、答えてくれるかしら?」
沈黙。無口というより、完全に心を閉ざしている雰囲気だった。ネロのときも思ったが、子供の扱いがまるで分からない。しかし、思案に暮れていても仕方がない。
「ねえ、彼の縄を解いてあげて」
盗賊はたじろいだ。「え、いや、なぜ」
そうしていつまでも動こうとしない。まあ、彼らにとってはそれが自然なのだろう。わたしとアカツキ盗賊団とでは立場が違う。たとえ相手がただの非力な少年であっても、憎い対立組織のメンバーだったことには変わりないのだ。
わたしは「ちょっとごめんね」と呟いて彼の腕を取り、きつく縛られた縄を短剣で裂いた。
縄は蛇のようにするすると地面に落ちる。
「……姐さん! もしそいつが魔術師だったら……!」
「もしこの子に魔術が使えるなら、こんな縄は無意味よ」
彼の手首は赤く痣がついていた。
アカツキの生き残りには魔力を感じる力はない。だからこそ、予想を超える反撃を恐れているのだろう。力を込めて結ばれた縄の痕が、それを物語っている。年端のいかない子供にするような仕打ちではないが、彼らの心情も理解できた。アリスの狂弾はアカツキ盗賊団を容赦なく襲い、彼らだけならものの数分で全滅していたに違いないだろうから。圧倒的な存在を見せつけられると、ほんの小さな影にも怯えなければならなくなる。
「ねえ」わたしはもう一度彼に呼びかける。
少年はやはり、一瞥も返さない。それでも構わず、わたしは切り出した。
「君がなにも喋りたくないなら、それでもいいよ。でも、わたしの言葉は聞いて。……君がどうやってここまで辿り着いたのかは分からないけど、なぜもっと遠くへ逃げなかったのかしら。ここよりも安全な場所はいくらでもあるのに。……もしかして、グレゴリーがやって来るのを待っていたの?」
そう、彼はタソガレのボスが死んだことを知らないのだ。グレゴリーの勝利を願って、また盗賊団に戻れるように嘆願するためにここで待っていても不思議ではない。ここに辿り着いた方法は別にしても、だ。
彼はほとんど分からないくらい小さく首を横に振った。どうやら話は聞いてくれているようだ。
「疲れたから、休んでいたの? それとも、なにか別の理由があるのかしら」
少年の口が薄く開く。息を吸う微かな音がした。
「行く場所がなかったから」
あまりにシンプルな答えだった。盗賊たちは眉間に皺を寄せていたが、わたしは心当たりがある。
グレゴリーが最後になにを告げたか。タソガレ盗賊団のボスは自らが拉致して恩着せがましく育てた少年に対して、どこへでも行け、と浴びせたのだ。それが少年の、たった今の答えに帰着する。少年が目指すべき目的地はなく、それゆえ足を止めざるを得なかったのだろう。どこまでも律儀に、グレゴリーの言葉に従ったわけだ。
「もうひとつ、教えてくれるかしら。どうして君は魔物に襲われず、ここまで来ることができたの?」
少年はほんの少し首を傾げた。「……知らない。でも、アリスは大丈夫って言ってた」
その名前が彼の口から出た瞬間、盗賊たちはびくりと身体を震わせた。
「アリスが?」
聞くと、少年は黙って頷いた。
彼の少ない言葉から想像するに、アリスは彼になんらかの魔術をかけたのだろう。おそらくは、防御魔術を。それゆえに無事ここまで歩いて来られたのだ。
すると、アリスはわたしと戦ったときには既に、一晩効くような防御魔術を少年にかけた後ということになる。
苦々しい気分になった。全力のアリスと戦っていたら、子鬼の群が現れる前にこちらが倒れていたかもしれない。防御魔術は負荷が大きいことくらい、わたしも知っている。
しかし、意外だ。アリスが少年ひとりの無事のために魔力を消費していたとは。
「クロエ!」
不意に遠くでミイナの声がした。振り向くと、執行獣を背負って駆けるミイナと、それに遅れるかたちでなんとか走って来るジンと盗賊の姿があった。
ミイナはわたしの傍まで来ると、少年をまじまじと見つめ、それからわたしに視線を送った。「こいつ、グレゴリーの手下か」
「元手下、って感じよ」
「ふぅん」と呟いてミイナはひたすら少年を見つめていた。「なんだ、グレゴリーがどやしつけてた奴か」
すると、ミイナもあの一幕をしっかり聴いていたのだろう。
やがてジンと盗賊が追いついた。ジンは肩で息をしている。
着いたばかりのジンに、ミイナはすぐさま話を振る。「ジン、残党ってのはこいつらしい」
「ああ、なるほど」とジンは短く答えた。「グレゴリーが拾った子供ッスね」
ミイナもジンも、白髪の少年の状況はグレゴリーの言葉から把握しているようだった。彼の置かれた境遇は充分に酌量に値する。「ミイナ、ジン。……ひとついいかしら」
「なんだ?」とミイナは短く答える。
「彼をこれからどうするつもり?」
「それは、すぐには判断できない。近いうちに決める。ただ、タソガレの残党である以上、無事ではないだろうな」ミイナの目は、重苦しく沈んだ色をしていた。「同情はする。実際、災難だろう。けど、アタシはアカツキ盗賊団の団長だ。然るべき決断はする」
そうだ。ミイナは決して甘くない。いくら情を酌んだとしても、それが最終的な決定に影響を与えることはないだろう。彼女にとっては、アカツキとして正しいか、アカツキに利があるか、それが判断基準になる。
「おい」とミイナは盗賊のひとりに呼びかけた。
「へい、なんでしょう」
「穴ぐらの牢屋はまだ使えるか」
「ええ、おそらく無事でしょう。こいつを入れておきますか?」
「そうしろ。鍵はわたしが預かるから、後で渡しに来い」
「へい」
どうも、ミイナは頑固で困る。アカツキが関連すると、丸っきりの堅物になってしまう。それも、とびきり不器用な。
「ねえ、ミイナ」
「なんだ」
「報酬の魔具を受け取りたいんだけど、時間はあるかしら」
ミイナは考えるように仰向いた。「明日の朝、隠し部屋まで来てくれ。扉は開けておく」
「分かったわ」
「ところで、そのガキの行き先は本来ハルキゲニアだったな。……クロエもハルキゲニアを通るんだよな」とひとり言のように呟いた。
「ええ。奇遇なことに」
「本当に、妙な因果だ」
ミイナは空の深みに、じっと視線を注いでいた。
盗賊たちは少年の手を引いて穴ぐらの方向へ戻っていった。手荒な様子は一切ない。
盗賊たちと入れ違いに、ヨハンがゆらゆらと身体を揺らしながら現れた。離れて見ても、間近で見ても、やはり不気味だ。
「いやぁ、皆さんお揃いで。おや、あれはタソガレの子ですかねぇ」
わたしは大きなため息をついた。
すかさずヨハンは「ため息の数だけ幸せが逃げるって聞きますよ、お嬢さん。美人薄命ですな」と、くだらないことをへらへらと喋っている。
ミイナは呆れ顔で切り出した。「ヨハン。報酬の話だが」
「ああ、そのことですね。当初の仕事に関しては報酬の変更はなきよう、お願いします。あと、『関所』奪還作戦の分ですがね」
「なんだ」
「まず、馬をもらいたい」
「いいだろう」
「それともうひとつ……ダフニーの警護をお願いします。なに、毎晩でなくともいい」
ミイナもジンも、ヨハンをまじまじと見つめていた。勿論、わたしも。
「そんな驚かなくてもいいじゃありませんか。それに、アカツキ盗賊団の掟は破っていないはずですよ。アイシャさんはもうダフニーにはいません。代わりに、ハルという名前の少女が町を守っているだけです」
それがどんな提案か分からないほど、わたしもミイナも、そしてジンも無神経ではない。ただただ驚いてしまうのは、それがヨハンの口から発せられているという事実のみだ。
「……いいんだな」
「ええ、勿論。これは私の受け取るべき報酬であって、あなたがたには遂行の義務がある。念のために言うと、感謝されるいわれはないですからねぇ」
ヨハンは相変わらず、へらついていた。
ミイナとジンはこれで自らのルールに縛られることなくハルに会うことが出来るだろう。そこには簡単には埋められない時間の溝があるに違いない。それでも――穴ぐらの隠し部屋でふたりが流した涙は、純粋で、救いに満ちた、温かな結晶だと信じている。
翌朝、わたしは約束通り隠し部屋に訪れた。ミイナとジン、そして『親爺』がテーブル越しにちらりとこちらを見た。
「おはよう。約束通り来たわ」
テーブルの上には、長いサーベルが置かれていた。柄は銀に輝いており、黒色の鞘はところどころ金の飾りが付いていた。手に取ってじっくり見ると、微かに魔力を感じた。魔具ではあるようだが、やはり未コーティング品らしく魔力に波がある。
「今朝出来上がったばかりの品じゃ」
剣を抜いて、思わずたじろいでしまった。長さは丁度良いにしても、速度を意識して振るには重すぎる。なにより、刀身は黒く、錆のようなものに薄っすら覆われていた。
「使えば使うほど手に馴染む。大切に扱っておくれ」
ニコニコと『親爺』は言う。有無を言わせぬ笑顔だった。
わたしは礼を言って、サーベルを腰から下げた。ミイナに譲ってもらったズボンのベルト部分から下げるので、必然的にスカートは若干ずれ落ちたような格好になる。我ながらみすぼらしい。
「随分攻めたファッションッスね」とジンは笑う。
わたしも同じく、笑うしかなかった。「次の町でなんとかするわ」
「……報酬は渡した。他に用はないか?」とミイナは促す。やはり、彼女は不器用だ。
「もうひとつ用事があるわ。……牢屋の鍵を盗みに来たの」
ミイナは乾いた笑いを立てて――既に用意してあったのだろう――鍵を投げて寄越した。
「持ってけよ、泥棒さん」
ミイナの口元は笑みが広がっていたが、表情全体はどこかアンニュイだった。『親爺』も事情を知っているのかただただ微笑んでいる。
「それと、これも持っていきな」
ミイナは立ち上がり、傍にあった肩掛けの質素なバッグを手渡した。開くと、たっぷりと水の入った水筒二本と、それぞれ布巾に包まれた丸パン四つに干し肉が四切れ。思わず彼女を見返すと「朝食だ」と言って憮然とそっぽを向いた。これを全部彼女が用意したとすると、少しいじらしいくらいだ。
「それじゃ、元気で」とわたしは告げて、ジンと『親爺』に握手をした。ミイナはむっつりと肘を突いて本棚を見上げている。それでも手を差し出すと、がっしりと握った。長い握手だった。
三人とも見送りはしない方針らしかった。当然である。体面上、わたしは鍵泥棒なのだから。
牢屋番の男はわざとらしいいびきを立てていた。
牢屋を開けると、少年はわたしを虚ろに見上げた。そして僅かに首を傾げる。
「わたしと一緒に逃げよう。ハルキゲニアまで。……そこで、本来送るはずだった生活を取り戻しましょう」
少年はなにやら逡巡している様子で、ただ俯いていた。それもそうだ。彼は手酷い裏切りを一度受けている。信頼するという感情自体に大きな罅が入っているのだ。
「わたしはクロエ。絶対に君のことは裏切らないし、守り抜く。だから、一緒に行きましょう?」
少年がおそるおそる頷くのを確認して、彼の手を取った。随分冷たい。
牢屋番に「居眠り兵さん、ありがとう。さようなら」と囁くと、「むにゃむにゃ、姐さん達者で、むにゃむにゃ」と器用に答えた。
穴ぐらの出口に向かって歩きながら少年に丸パンを勧めると、おそるおそる手に取り、ぎこちなく齧りついた。
そうして丸パン三つと干し肉三切れを平らげて、ぼそりと「ありがとう」と呟いた。
穴ぐらを出ると、馬のいななきが耳に響いた。
「ごきげんよう、お嬢さん。そして坊ちゃん。いやはや、ひとり旅も寂しいものですし、ここに二頭の馬がいる。どうです? 一頭お譲りしますので、道中助け合いというのは?」
「……あんたもハルキゲニアに行くわけ?」
ヨハンはへらへらと笑う。相変わらずの骸骨顔だ。
「ええ、色々と仕事があるもんで。しかし、団長さんから報酬として二頭も頂けるとは、いやはや。ひとりで馬二頭は乗れませんからなぁ」
「仕方ないわね。ギブ・アンド・テイクよ。道中助け合う代わりに馬をもらう」
ダフニー警護の一件でヨハンに対する警戒心は消えかけていた。利益ある取引に応じる程度には、だ。しかし、油断ならないことは確かである。
「分かってますねぇ。さすがだ。ギィブ、アンド、テェイク」
わたしは少年をまず馬に乗せ、彼をかばうように後ろから手綱を握る体勢になる。が、出発前に確かめたいことがあった。
「ところで、君の名前を教えてもらってもいいかしら?」
少年はわたしを振り仰いで、不思議そうな顔をしていた。
しばらくして「忘れた」と小さく答えた。その声色に、寂しさも哀しみも籠っていない事実に胸が苦しくなる。彼は――信じがたいことだが――自分の名前を忘れるくらいには、まともな呼ばれかたをしてこなかったというわけだ。
「この際、新しく決めようじゃありませんか」とヨハンは平気で言う。「タソガレとアカツキの間、夜から取ってノックスなんていかがです?」
「勝手なことを……」
わたしはヨハンに軽蔑の眼差しを送った。やはりこいつには繊細さの欠片もない。
「ノックスがいい」
少年の呟きが聴こえ、わたしは少し驚いた。
「あいつの決めることなんて、全部ろくでもないものだよ?」
「失敬な! 子供の前でなんてことを言うんです」
剽軽に返すヨハンを尻目に、少年は「ノックスがいい」と繰り返した。その声は、いくらか人間らしい温かみを帯びているように聴こえた。
「分かった。それじゃ――ノックス、行きましょう」
馬のいななき。蹄鉄のリズム。わたしとノックス、それとヨハン。三人は『関所』を後にした。




