350.「うっかり」
気まずい沈黙のあとには、取り繕うような話題が飛び交った。どこで気球の技術を身に着けただの、いつから空の夢を抱いたのかだとか――気球のことばかり。
ヨハンもシンクレールも異様に熱を上げているので、わたしは一歩引いてぼんやりと聴いていた。どうやら三人は、すっかり気まずさを振り払っているようだ。
「張り布で一番大切なのは頑丈さじゃなくて、伸縮性なんですよ」
「密度や軽さではなく?」
「軽さはもちろん必要だけど、肝心なのはそこじゃありません。表面に溶かしたゴムを塗りますので、硬い布だと馴染まないんですよ」
「それだと形が保てなくならないかい? つまり、柔らかすぎると塗布したゴムも変形したりだとか」
「その点は問題ありません。形を保つ機構を別に作ってやればいいんですから。つまり――」
どうしてこうも話が尽きないのか。かれこれ二時間近く気球の話をしている。わたしが読書にのめり込んで時間を忘れるようなものだろうか。気球に興味はあったものの、さすがに何時間も集中して聴いていられない。本にしてくれたらいくらでも読むのに。
鉄の音が鳴り続けている。オブライエンもオブライエンで、のめり込むと際限なく続けてしまうタイプなのだろう。いくら機械の身体とはいえ、働きすぎである。
壁にもたれてうつらうつらしていると、三人が立ち上がるのが見えた。
「お嬢さん。私たちはオブライエンさんの見学をしてきますが、一緒に来ますか?」
返事をしかけて口を開くと、思わずあくびが出てしまった。咄嗟に口元を押さえたが、あとの祭りである。
三人は顔を見合わせてクスクスと笑う。なんだか悔しい。
「クロエは寝てていいよ」
シンクレールの柔らかな声が耳に流れ込み――。
「クロエとは、どなたですか? もしや、ハルさんのことですか?」
ロジェールが首を傾げてこちらを見ている。
「あ、いや、ええと――」
シンクレールが、戸惑いをそのまま口にした。顔には露骨な焦りが表れている。まずい。ロジェールがわたしの本当の名前――つまり、その正体も知っているとは考えづらかったが、偽名を使った事実は残る。疑いの芽は、いつかとんでもない場面でわたしたちの足を掬うかもしれない。そうなってからでは遅いのだ。だからこそヨハンも、わたしとシンクレールを偽名で紹介したはず。
沈黙が、じわじわと流れていく。時間が経てば経つほど疑惑は濃くなるというのに、まるで頭が回らない。上手い言い逃れを探しているうちに時間ばかりがすぎていく。
やがて、場違いな大笑いが弾けた。
わたしとシンクレール、そしてロジェールも声の方角――ヨハンへと視線を移す。彼は腹を抱え、カラカラと笑い続けた。
「ど、どうしたんですか?」
ロジェールは訝しげに言う。
するとヨハンは目尻を拭い「失敬失敬、あまりに不意を突かれたものですから」と呟く。その声には、いまだに笑いが混じっていた。
首を傾げるロジェールに、ヨハンはとんでもないことを言い放つ。
「いやはや、ネロさん、駄目ですよ。ハルさんのことを、昔の交際相手の名前で呼ぶなんて失礼です」
は?
反射的に不快感が胸を覆ったが、すぐに彼の考えが分かった。なるほど。
「そうよ、ネロ。いくらなんでも昔の彼女と重ねられるなんて――おかげで目が覚めちゃったじゃない」
頬を膨らますと、さすがにシンクレールも察したのか「ご、ごめん」と苦笑を浮かべた。
一瞬の間を置いて、ロジェールもつられて笑いを漏らす。「それはさすがに失礼ですね。お気の毒に、ハルさん」
「いいのよ、別に。ほら、気球を見に行くんでしょ? 行ってらっしゃい」
投げやりに手を振ると、ヨハンは同調するように「さあさあ、間近で観察するとしましょう」と促す。
ロジェールとシンクレールが先に部屋を出た。
彼らに続いて去ろうとしたヨハンの背に、小声で投げかける。
「覚えてなさいよ」
ヨハンはちらりと振り向き、肩を竦めて出ていった。まったく、骸骨男め。咄嗟のフォローとはいえ、昔の交際相手だなんて趣味の悪い冗談だ。
壁にもたれ、目をつむる。
うとうとしていると、外で話し声が聴こえてきた。感嘆の叫びだとか、賞賛の言葉だとか、楽しげな笑い声だとか。
わたしも見に行こうかな、と一瞬思ったものの、眠気が勝った。外から漏れ聞こえてくる声は、言葉としての輪郭を持っているものの、頭に浸透してこない。ぼんやりとした意識が、言葉を右から左へと自由に通過させている。怠惰な門番みたいに。
ふわふわした意識のなかで、ふと、気球が完成するのはいつになるだろうかと不安になった。現状、それがキュラスへの足掛かりなのだ。そもそも、ロジェールの懸念をすべて吹き飛ばせるほどの改造がオブライエンに出来るのだろうか。腕は確かなんだろうけど、気球と義手とでは話が違う。
山頂の激しい風に耐えられるだけの気球。それが出来上がるとしたら、一日二日の話ではあるまい。そうこうしているうちに、大切な時間がすぎていく。今この瞬間にも、状況は悪化するかもしれないのだ。それも、急激に。テレジアの気が変わって、ニコルにすべてを打ち明けるかもしれないし、魔王が独自のルートでわたしの生存を知るかもしれない。そうなれば、破滅は猛スピードで接近するだろう。きっと彼らは悠長にかまえてなんかいない。特に魔王は、ヨハンに依頼してまでわたしを殺そうとしていたのだから。
なんとかしなきゃ。でも、自分になにが出来るのか。それよりもなによりも、眠くて仕方がない――。
寝息が聴こえた。自分自身の寝息が聴こえるなんて妙だな、と思っていると、それが幾重にも重なっていく。
ぱちり、と目を開けると、床に三人の男が転がっていた。ヨハンは器用に身を折り畳んで、シンクレールはころりと丸くなり、そしてロジェールは工具箱に突っ伏して眠っている。
窓からは朝陽が射し込んで、部屋を暖めていた。この狭い部屋に四人ともなると、さすがにちょっと暑い。
ぐっすり眠りこけていたようで、伸びをすると背骨が軽快な音を立てた。それに重なるように、鉄の音が響く――。
首を傾げて、すぐに気が付いた。まさか……いや、間違いない。
足を忍ばせて小屋を出ると、案の定、オブライエンが気球相手によく分からない工具を振るっていた。
「おはようございます。いい朝ですね」
オブライエンはなんともない声で笑顔を見せた。相変わらず演技じみた、オーバーな笑みである。彼の身にまとった雰囲気には少しも疲れが見えない。それどころか活力が漲っている。
「おはよう……一晩中仕事してたの?」
オブライエンは親指をピンと立て、「働き者は世界を動かします」なんてわけの分からないことを言う。そして気球の横に工具箱を置くと、手招きをした。
勧められるままに、そこへ腰を下ろす。
「今日は快晴ですね。縁起が良い。仕事も捗りそうだ」
「いくらなんでも働きすぎじゃないの?」
「なに、平気ですよ。それに、急ぐ理由も出来ましたから」
「急ぐ理由?」
なんだろう。首を傾げて見せると、オブライエンは意味深に、口元で人さし指を立てた。そしてひと言。「ご事情、お察しします」
なんのことだ。事情と言われても、彼に指摘されるようなものなんて――。
こちらの思考を遮るように、彼は口を開く。そこから漏れた囁きは、寝起きの頭にはあまりに衝撃的だった。
「吾輩は騙せませんよ、クロエ嬢」
どくり、と心臓が鳴る。彼は昨晩のシンクレールの失言を聴いて、すべて把握したのか。わたしの正体を。そして、もしかするとヨハンとシンクレールの正体も――。
彼は立てたままの人さし指をわたしの口元に寄せると、口の端を持ち上げた。まるで、なにかを企むように。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照。現在クロエは、彼女の名を偽名として使っている。
・『ネロ』→クロエの出会った死霊術師。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照。現在シンクレールは、彼の名を偽名として使っている。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




