347.「収穫時」
罪。ヨハンの口にしたそれは、意味深な響きを持っていた。やっぱり、彼はわたしの知らない事実を掴んでいるに違いない。
沈黙が部屋に満ちる。外はすっかり暗くなっていたが、ここでは魔物の心配もない。オブライエンは外で気球をいじっているのか、ときおり金属がガチャガチャと鳴った。彼の身体が立てる音なのか、それとも工具の音なのか、あるいは両方か……。
ヨハンはあくまでもロジェールの言葉を待つつもりなのか、身じろぎもしなかった。その瞳は、気まずそうに俯くロジェールに注がれている。かくいうわたしも、彼が語り出すのを待っていた。その口から紡がれるのは、間違いなくわたしの知らない事実だろうから。もしかすると、テレジアを打倒するヒントが隠されているかもしれない。
やがてロジェールは、ぼそりと呟いた。
「その様子だと、全部知ってるんですね」
ヨハンは飄々と返す。
「ええ、もちろん。ただ、私ひとりが知っている状況です。お嬢さんや、シ――ごほん」シンクレール、と言いかけてヨハンは咳払いをした。「ネロさんは知りません」
「なら、知らないままでいてほしいですね……」
「そうもいきません。ロジェールさんが語らないのなら、私が全部ぶちまけてしまいますから。もしかすると、あなたにとって好ましくない脚色が加えられるかもしれませんねぇ。――いかがでしょう。ご自分の口から等身大の事実を語ってみては」
こうして交渉という名の脅しをするヨハンは、まったもって卑怯者にしか見えない。ロジェールの味方をしたくなったが、ぐっとこらえた。
やがて、消沈しきった声が部屋にこぼれる。「……分かりました。全部話しましょう」
「『教祖』様が帰還する前のことからはじめましょう」
ロジェールは両手を組み合わせ、目をつむった。
「『教祖』様が旅立ってからしばらくして、キュラスに異変が起きました。……それまでは一切姿を見なかった猿の魔物が出るようになったんです」
猿の魔物、と聞いて思い浮かべるのはギボンである。ロジェールの顔が一瞬歪んだ。
「奴らは……なんというか、奇妙な魔物でした。街中には現れず、崖際や森をうろついてこっちを見てるんです……。気味が悪くて仕方なかった」
闇夜の先からじっとこちらを見つめる人外の姿。想像すると寒気がした。確かに気味が悪い。
「しかし……慣れってのは恐いものですね。時間が経つにつれ、連中をなんとも思わなくなったんです。ただ遠巻きに見てるだけで、害のない魔物……そんなふうに理解するようになりました。それどころじゃなかった、というのも大きな要因ですが」
それどころじゃない、か。確かにそうだろう。テレジアの去ったキュラスは、精神的な意味でも夜間戦闘の意味でも、支柱を失ったに違いない。それまではどんなに傷付いても癒しが待っていた。それが、自然治癒に任せるほかなくなったのだ。これまで通りの無茶は通用しないし、かといって戦闘を放棄するわけにもいかない。必死だったろう。
「実を言うと、ぼくは『救世隊』の一員だったんです。そう呼ばれるのはプレッシャーでしたけど……。なにがあっても街を守らなければならない――それこそ、命を賭けてでも。そう強いるような感じがして」
ロジェールは瞼を開いてわたしたちを見回した。彼に目を合わせて、頷いて見せる。
生半可な覚悟で夜間戦闘は出来ない。異形の怪物を毎夜相手にするというのが、どれだけの負担になるか――身をもって知っている。ロジェールのように繊細な人間が耐えられる仕事ではない。……まあ、シンクレールのように、繊細さと強さをあわせ持つ例外もいるけど。
ロジェールは再び目をつむり、深く息を吸った。
「猿の魔物が現れても、ほかの魔物の数は減りませんでした。ですが、攻撃してこない魔物が存在するというだけで多少気分は楽になります。ひと月も経つ頃には、あの連中を敵だと思わなくなりました。――とんだ大馬鹿です」
ロジェールは自嘲気味にため息をもらし、それから拳を握った。その瞼の裏側には、いつかの夜の光景が浮かんでいるのだろう。
「『教祖』様が去って二か月が経った頃です。その日もぼくたちは、キュラスを守るために警備していました。魔物の数は、いつもより多かったのを覚えています。ぼくも、ほかの『救世隊』メンバーも、必死でした。隊列を崩され、ほとんど散り散りになって……。そんな危険な場面で、あいつが現れたんです」
あいつとはなんだろう。息を呑んで続きを待った。
「あいつは、紛れもなく猿の魔物でした。――その巨体を除けば」
巨体?
畸形のギボンだろうか。魔物に個体差があること自体はなんら不思議ではないが、ロジェールの語り口は常識的な差異を語るようなものではなかった。
「十メートル。いや、もっとあったかもしれません。巨人と言われても納得出来るような大きさでした。ただ――ぼくたちはもしや、と思ったんです。あれがほかの猿と同じように、温厚で平和主義なら、と。あわよくば、ぼくらを救いに来た守護神だったら、と」
そしてロジェールは目を見開いた。その形相は、憎しみに満ちている。
「あいつは、一度、たった一度だけ吼えました。あとはただ立っているだけです。魔物にも人間にも危害を加えようとしない。ただ、状況は一変していました。……それまでなにもしてこなかった猿どもが、一斉に街へ流れ込んだんです。ぼくらを避けて、家屋のほうへと。そして――」
そこから先の光景が、ロジェールの口から語られることはなかった。彼は目を見張ったまま、ぽつりとこぼす。「……翌朝、キュラスの人口の三分の一が消えていました。ぼくの家族も――」
その晩、なにが起こったか。家屋を目指すギボン。家には、戦うことの出来ない人々がいたに違いない。もちろん、『救世隊』の帰りを待つ家族も。
悲劇は、たとえ想像であっても苦痛に満ちている。胸が締めつけられ、呼吸さえも苦しい。こんなおぞましい日々が何度も繰り返されてきたのだ。もちろん王都にも、どれだけ泣き叫んでも足りないくらいの苦しみはあった。けれど、防衛力の整っていない町や村では、こんな悲劇が――それこそ当たり前のように――起こっている。本でも語られていたし、その様子を何度も想像してきた。けれど、実際にその夜に立った人間の言葉は、比べ物にならないくらい重い。
「それからは、ぱったりと猿が消えたんです。この意味を、『救世隊』は誰も語りたがりませんでした。察していただけますか?」
ロジェールと目が合った。彼の口元から耳にかけてくしゃくしゃとした歪みが広がり、瞳は薄暗く濁っている。なんとも言えない複雑な表情……。
わたしは、ゆっくりとまばたきを返した。
ギボンが消えた意味。少し考えればすぐに分かってしまうおぞましい算段。
連中は、わざと人間を三分の一だけ狩ったのだ。まるで果物を採るように、決して根こそぎにはせず、次の収穫時に備えたのだろう。人間が自然に繁栄するまで。夜を耐え抜くだけの戦力には手を付けず。
はじめギボンが手を出さなかったのも、分かってしまった。奴らはずっと観察していたのだ。夜を生き抜くだけの力を持つ人間と、ただ守られるだけの人間を。身も蓋もなく言えば、収穫すべき果実と、残しておくべき種を選別したということか。
そして巨大なギボン――司令塔のひと声によって、収穫時を迎えた。
ロジェールの語った事実はどこまでもおぞましく、心をかき乱す内容だった。しかし、これで終わりではない。彼が語ったのは、まだほんの入り口に違いない。なぜなら――まだテレジアは帰還していないのだから。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ネロ』→クロエの出会った死霊術師。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照。現在シンクレールは、彼の名を偽名として使っている。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『ギボン』→別名『魔猿』。毛むくじゃらの姿をした人型魔物。森に出現する。詳しくは『294.「魔猿の王様」』にて
・『救世隊』→キュラスの宗教団体の幹部のこと。街の夜間防衛を担う存在
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている




