341.「忘れる覚悟」
グールの呻きが遠ざかっていく。連中はヨハンを追って森へ入ってしまった。奴らがわたしとシンクレールを置き去りにしていった理由はひとつである。
ヨハンは去ったあと、案山子を施したのだ。魔物を自分のほうにおびき寄せられるように。彼なりの配慮に違いないのだが、突き放されたように感じてならない。今のわたしは、彼にとって戦力に値しないということだろう。
きっとそうだ。心のなかではテレジアの言葉と表情、そして彼女の情けが混ざり合って、ぐるぐると頭をかき乱している。
「クロエ……ともかく、ここは危険だ。安全な場所まで降りよう」
シンクレールはヨハンの去った方角を睨みつつ言う。彼への不満を噛み殺して、なんとか口に出した、そんな声だった。
けれど、わたしよりずっと立派だ。こうして悩みや迷いに押し潰されそうなわたしより……。
「うん……」
ヨハンのことが気がかりだったが、今彼に追いすがっても足手まといにしかならないことは明確だ。それに、彼だってキュラスへ侵入するプランなんてないはず。そして、魔物に後れを取るような甘さもない。
なんとなく足を踏み出しかねていると、シンクレールは困り笑いを浮かべた。
「あいつが心配かい?」
「……少しだけ」
すると彼は、目をつむって首を横に振った。
「今のあいつを心配出来るだけの立場じゃないさ、僕たちは。……さあ、行こう」
違いない。魔物と戦う覚悟のない人間なんて、ヨハンのほうから願い下げだろう。
頷いてみせると、シンクレールは苦笑した。
「こんな状況でも僕らは生きていけるさ。それこそ、ロジェールみたいに」
王都での立場のことを言っているのだろう。もはや戻れる故郷はない。だからこそロジェールのように、魔物のいない土地で生き甲斐を見つけて日々を過ごすのが一番だと、そう言いたいのかな。
不意にニコルの顔が脳裏に浮かんで、思わず拳を握った。
こうしてなにもかも諦めてしまうことは、結局彼の思惑通りなんじゃないか? わたしを殺すように仕向けた魔王と、単に計画の動力として使ったニコル。わたしはもはやお払い箱で、生きていても死んでいても関係ない。邪魔さえしなければ、なんだって……。
感情が振り子のように揺れる。もしテレジアの言葉が真実なのだとしたら、魔王を討伐するということは元人間を薙ぎ倒し、踏みつけて進むということなのだろう。
「クロエ?」
シンクレールが不思議そうにこちらを覗き込む。
いつまでも悩んでいるわけにはいかない。いや、正確には――悩んでいても、いずれかを決めなければならない、ということだ。
「わたしは――」
言いかけて、悪寒が背を覆った。ヨハンの去っていった方角。そちらから強烈な魔物の気配が出現したのである。シンクレールもそれに気づいたのか、即座にそちらへ顔を向けた。
「シンクレール、ごめん」
考えるより先に足が動いていた。ヨハンが消えた森へと。
「クロエ――」
追いすがる声と靴音。彼には申し訳ないけど、これを放っておくことは出来ない。たとえ迷いを胸に抱えていたとしても。足手まといになるかもしれなくても、だ。
藪を抜け、木々を縫い、闇の先で叩きつけるように存在を主張する魔物の気配を目指して進む。枝に肌を引っかかれたが、気にもならない。
この気配を相手にしても、ヨハンは上手く立ち回るだろう。『最果て』では力を隠して非戦闘員みたいな立ち回りをしていた彼だ。本当は強力な魔物相手にも戦えるのだろう。けれど……万が一ということもある。
気配を目前にして、不健康な背が見えた。そして、彼の先には――。
輪郭のある漆黒。人型に縁どられた影。ぞわぞわと、寒気が全身を這う。
タキシム。体躯は人と変わらないが、その身は黒い靄に覆われている。キマイラやルフのように、ひと目で分かる凶器は持たないものの、危険度の高い魔物とされている。なぜなら――。
タキシムの指先がヨハンに向けられる。呪力の籠められた指先が。
「ヨハン!」
「分かってますよ!」
ヨハンが身をかがめた直後、破裂音が響き渡った。彼の後ろにあった木がみしみしと音を立てて倒れる。
呪力球。仕組みとしてはそれと変わらない。ただ、タキシムの打つそれは異常なのだ。魔弾と遜色ないほどのスピードと破壊力をあわせ持つ。そして放つまでの予備動作も少ない。指先を向けられた直後には一切が終わってしまう、と恐れられていた。
起き上がりざま、ヨハンはため息交じりに言った。「なぜ来たんです? 戦う気はないんでしょう?」
そう言われると困る。わたしだって結論が出ないまま身体が動いてしまったのだ。なにもかもを決めてから行動したんじゃ、きっと手遅れになってしまう。
「分からないわ。けど、知らんぷりは出来ない。あなただって的が増えたぶん、戦いやすくなったんじゃないのかしら」
これも騎士時代の呪いかもしれない。魔物が出たら駆けつける。そんな当たり前の習慣がわたしを縛り付けているのだろうか。それとも――。
「まあ、なんだってかまいません」
呆れたようにヨハンは言う。そして、ナイフをかまえた。
「ナイフでどうこう出来る相手じゃないわ」
「これしか武器がありませんからね」
「黒の矢でも使ったら?」
指先がこちらを向き、咄嗟に身をかわす。タキシムの指から放たれた呪力球は、すんでのところで直撃しなかった。
一瞬遮られたものの、ヨハンは続ける。
「あれはそう簡単に使えるものではないんですよ。それに、魔物相手に使ってどんな影響が出るか分かったものじゃありませんから」
『黒の血族』の持つ力の塊。それが魔物におよぼす影響は、確かに判然としない。
「タキシム相手に接近戦なんて、自殺行為よ」
その指が向いたら一瞬で攻撃される。致命傷にはならないかもしれないけど、行動力が奪われるのは間違いない。そうなれば、次の呪力球を避けることも随分難しくなる。
「しかし、これ以外に方法がありませんからなぁ」なんてヨハンは嘯く。その口調はどこか余裕があった。
きっと対抗手段を色々と持ち合わせているのだろう。それを見せる気がないというだけで。まったく、その性格はどうにかならないのか。
「なら――挟み撃ちにするだけよ。わたしとあなたで」
ちら、とヨハンがこちらを向く。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「おや、戦うんですか?」
「ええ。悩むのも迷うのも、朝が来てからにするわ」
言って、歯噛みする。本当はなにも決まらないまま戦うべきじゃないと分かってる。けれど、この状況を放置するわけにはいかないのだ。多分これも、騎士時代の呪いだろう。
後悔なら、陽が昇ってから存分にすればいい。
「なら、覚悟を決めるんですな。一旦はなにもかも忘れて戦う覚悟を」
「ええ」
テレジアの言葉。人が魔物に変わる光景。それらを忘れ去り、今は目の前の強敵にナイフで立ち向かわなければならない。とんでもなく不利な戦いだが、みすみす逃がしてくれるほどタキシムは甘い相手ではないのだ。
「氷衣!」
シンクレールの声が響き渡り、目の前に氷の大剣が現れた。それも、地面に突き刺さったかたちで。
ぜえぜえと荒い息が後ろから聴こえる。シンクレールの騎士らしからぬ体力に、なんだか頬がゆるんだ。
「シンクレールさんも良いんですか? 戦うということで」
ヨハンはニヤリと笑って言う。
「僕はクロエについていくと決めてるんだ。だから、彼女が戦うなら一緒に戦う。それだけのことだ」
シンクレールは必死の口調で言い放った。
ツン、と胸に痛みが広がる。彼はとっくに覚悟してるんだ。トリクシィに反旗を翻したあの瞬間から。ぐずぐずと思い煩っていたのはきっと、わたしだけなんだ。
なにひとつ悩まず、迷わず、一直線に進むなんて真似は出来そうにない。けれど今は――。
大剣を引き抜き、タキシムに向けた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。詳しくは『298.「夢の浮力で」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。『吶喊湿原』のキマイラのみ、血の匂いに引き寄せられる。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『ルフ』→鳥型の大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『魔弾』→魔銃によって放たれる弾丸を指す。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『案山子』→魔物引き寄せの魔術。自身の肉体を中心に、魔力のハリボテを作って引き寄せる
・『黒の矢』→ヨハンが王に対して放った攻撃を指す。詳しくは『265.「空想の矢」』にて
・『氷衣』→氷を成形し、武器や鎧として扱う魔術。詳しくは『269.「後悔よりも強く」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




