340.「尻尾を巻いて」
山頂を吹き抜ける風。惜しみない光を注ぐ星々。空気は透き通り、肌にはおだやかな冷たさを感じる。なにひとつ憂いのない心だったなら、きっと爽やかな気分に満たされて柔らかな笑みが自然とこぼれることだろう。
けれど、今はとてもじゃないがそんな呑気な気持ちにはなれない。
頂の街キュラス。澄んだ大気に包まれたこの地を牛耳る『教祖』テレジア。彼女の策略によってわたしたちは、永久にキュラスから隔絶されてしまったのだ。唯一の侵入経路である橋は無残に落とされ、谷は底が見えないほど深い。
勇者一行のひとりである彼女を討つ使命があるのに、こんな無様な結果になるなんて……。歯噛みしても、悔しさが募るばかりだった。
彼女はわざとわたしたちを橋におびき寄せ、ちょうど対岸へと渡れる距離を確保してから自身に転移魔術をかけたのだ。そして橋を落とし、わたしたちを傷つけることなく隔離したのである。
すべてがテレジアの手のひらの上だった。彼女なら、上手くタイミングを見計らってわたしたち全員を谷底に落下させることも出来たろうに、そうはしなかったのである。
情け。慈愛。倫理。どこまでも聖人の態度を崩さなかったのだ、彼女は。決して相容れないと分かってもなお、キュラスから追放するだけにとどめるだなんて……。
「きっと、殺したくなかったんだ……」
ぽつり、とシンクレールがこぼす。
多分、いや、間違いなくそうだろう。でなければこんな方法は取らないはず……。
「しんみりしてる場合じゃないですよ。辺りをご覧になってください」
ヨハンは静かに、けれど強い口調で囁いた。
周囲を見るまでもなく、状況は分かってる。今は夜だ。魔物が闊歩する時間――。
がさり、と街道横の森から数体のグールが姿を現した。その目は夜闇にギラギラと光り、爪と牙が星灯りを反射している。
ぐっ、と拳を握った。
テレジアの言葉が頭に引っかかっている。そして彼女が見せつけた光景も。
ヨハンは、魔物が元々人間だなんてのは虚言だと暗に示していたが、本当のところはどうなんだろう。彼にしか知らない事実や気付きがあるのなら――。
「なにをぼんやりしてるんですか、お二人とも」
言われて、グールがすぐそばまで迫っていることを意識した。まったく気付いていないわけではなかったが、どうしてか対処する気にならないのだ。
だからこそ、シンクレールが呟いた言葉に強い共感を覚えた。
「一旦、魔物の出ない場所まで降りよう。ここにいたってどの道キュラスには戻れないんだから」
「そ――」
そうね、と言おうとしたのだが、すぐさまヨハンに遮られてしまった。
「なにを腑抜けているんです? 今までと同じことをするだけです。襲い来る魔物を討伐する――そこになんの悪があるというんですか」
悪。善。なんだかその二項対立が途方もなく馬鹿馬鹿しく思えた。けれど彼の言う通りなのだ、きっと。こちらの身を裂こうと迫る敵を打ち倒すことを、どうして躊躇うのか。まったく合理的じゃない。
「そう……かもしれない。あなたが正しいのかも。けれど、どうやってテレジアの言葉を否定すればいいのよ。あんなものを見せつけられたら――」駄目だ、と思ったが言葉は止まらなかった。「――もう、戦えない」
瞬間、目の前で鮮血が舞った。ヨハンがナイフで切り裂いたグールが、弱々しく地に倒れる。
「それはつまり、目的を諦めるということですか?」
――違う。
そう思ったものの、声になることはなかった。薄く開いた唇から漏れたのは、我ながらひどく弱い吐息だけ。
魔王とニコルを討ち倒し、王都の――そして世界の――平穏を取り戻す。それは決して諦めたくない。
「諦めない……けど……」
「けど、なんです?」
ヨハンは平然とグールを切りつけながら言う。彼の目には、魔物はやはり魔物としか映っていないのだろう。夜を侵す、倒すべき敵。テレジアの見せつけたものは、彼の心にはなんの影響もおよぼしていないのだろうか。
「けど――いえ、なんでもない。……あなたはどうして、そんなに簡単にテレジアを否定出来るの? あんなものを見た後で……。なにか知ってるんじゃないの?」
問いかけは、グールの呻きにかき消された。夜を行く狂気的な唸り声が周囲を覆う。シンクレールも、わたしと同じくただただ佇んでいた。
余力がないのだ、わたしも彼も。
先ほどテレジアへと迫った自分に、迷いがなかったと言えば嘘になる。実を言うと、強烈なまでに思い込もうとしていたのだ。テレジアは真実など語っておらず、なんらかのトリックでわたしたちを揺さぶっているのだと。しかしこうしてキュラスから――つまりはテレジアからも隔絶されてしまうと、じわじわと迷いが強くなっていくのである。本当はこちらが間違っているのではないか、と……。
「私は――」言いかけて、ヨハンは苦々しい表情を浮かべた。彼にしては珍しく、正真正銘、等身大の想いが籠った表情――。
「私は、なにがあろうと迷うつもりはないです。それだけの覚悟をしていますから。しかし、お嬢さんがたはそうではないということですね……。なら、すべてお伝えしましょう」
グールに突き刺したナイフを抜き、彼はちらりとこちらに目線を送った。とんでもなく冷たい、無感情な眼差し。
「テレジアさんの語った内容は事実です。先ほどはお嬢さんの迷いを消してやるために否定するようなことを言いましたが、すべて事実です。魔物は元々人間ですよ」
ガツン、と後頭部を打たれたような衝撃が広がった。視界がぐらつく。
「知ってたの? ずっと前から……?」
「ええ。しかし――だからなんだと言うんです。事実はなにも変わりません。連中は敵でしょう? お嬢さんがたにとっては。そうじゃないのなら、尻尾を巻いて逃げるんですな。どこまででも……」
こうして煽られても、苛立つどころではなかった。
今までわたしが――そして、王都を守る騎士たちが歩んできた夜は、単なる同族同士の殺し合いではないか。人間が人間を殺すだなんて、とんでもない倒錯ではないか。
「僕は……信じられない」
噛み殺すようにシンクレールは言う。
「中途半端に信じるよりはずっと良いですなぁ。しかし、それで足を止めているようじゃ、打ちのめされているのと大差ないですよ。お嬢さんもシンクレールさんもすでにご承知かと思いますが、私たちはテレジアさんに情けをかけられたわけです。マドレーヌさんとモニカさんを動員してこなかったのもその証拠でしょうな。……なんにせよ、敵の情けに甘えて尻尾を巻いて逃げるというのなら、どうぞ、ご自由にすればいい」
ヨハンはすっぱりと言う。まるで取り付く島がない。尻尾を巻いて逃げる……戦わないことは、彼の目にはそのように映っているのだろうか。
「でも、わたしは魔王を――」
グールを蹴り飛ばし、ヨハンはゆらりと振り向いた。
ああ、またあの顔だ。
悪魔じみた表情。一切の抜け目がなく、人を騙してまでも契約を果たそうとするあの悪辣な姿。けれど、今のその態度はあまりにも説得力を持っていた。
「なら、お嬢さんがすべきなのはひとつでしょうが。なにがあろうと進むと、そう誓ったんじゃないんですか? 私に、ではなく自分自身に、です」
自分自身への誓い。
そうだ。けれど、簡単に乗り越えられる真実なら、そもそもこんなに脱力してしまうわけがない。打ちのめされて、苦しんで、それでも立たなければならないだけの理由。確かにそれを持っていたはずなのだ、わたしは。今だって、頭では戦うべきだと理解出来ている。
返事に迷っているうちに、どれだけの時間が経ったろう。
不意に、ヨハンが呟いた。その声は別段悪意も呆れも、怒りも悲しみも籠っていなかった。
「残念ですが……ここで終わりですな。そんな状態じゃ、とても前に進めない」
その言葉を最後に、ヨハンは森へと入っていった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




