337.「人間と魔物」
人と魔物。昼と夜。分離された世界に住み、決して理解し合えない存在。
人間の眠りはいつだって連中に脅かされてきた。だからこそ人々は対抗手段を生み出し、終わりの見えない生存闘争――夜間防衛――を繰り返してきたのだ。その歴史は有史以来から続く悪夢……のはず。
今目の前で繰り広げられているのは、これまでのすべてを破壊するような光景だった。
先ほどまで手を組み合わせて祈るように黙していた信者は、今や獰猛な唸りを上げる魔物と化しているのだ。そのどれもが毛深い肢体を持った魔物――ギボンである。
眩暈がした。地面が絶えず揺れているような感覚があり、まともに物を考えられない。
「さぞショックでしょうね……。わたくしも、この事実を知ったときには苦しみましたから」
距離こそ離れていたが、テレジアは寄り添って肩を抱かんばかりの同情の声を出した。本心から言っているかはさて置いて、演技じみた雰囲気はない。
シンクレールを見ると、彼はぺたり、と地面に座り込んで箱型の防御魔術――その内側で蠢く魔物に釘付けになっていた。口は薄く開き、一切まばたきをしない。ヨハンはというと、じっとりとした目付きで魔物を睨んでいる。
信じがたいことが目の前で展開されていた。そう、信じがたいことが。
しかしわたしは、この状況を一度味わっている。魔術都市ハルキゲニアで――。
悪意の塊……そう呼んで間違いのない研究者ビクター。彼によって生み出された人造魔物の姿は、今でも頭にこびりついている。つまり、人を魔物に変える技術は存在するのだ。きっと信者も、テレジアによって非道極まりない実験をおこなわれたんだ。そうじゃないとしたら――いったいこの状況をどう捉えればいいというのか。
口を開くと、不快な呼吸音が耳に届いた。途切れ途切れで、なんと余裕のない呼吸だろう。それが自分のものだと気付き、余計に息が乱れる。それでも、なにか言い返さないと。魔物が元々人だなんて、絶対に鵜呑みにしてはならない言葉だ。
「……あなたは、人を魔物に変えただけよ。……そういう技術があるのは……知ってる……」
嫌と言うほど見てきたのだ。邪悪な実験の犠牲者を。人を魔物にする技術はもちろん、魔物を人に変える段階にさえ、ビクターは到達していた。テレジアがその力を持っていれば、この光景を作り出すことだって可能だ。そこまでの技術があれば、人の姿と魔物の姿を行き来することだって不可能じゃないはず……。
テレジアはいったいなんのために、こんなものを見せたのか。理由ははっきりしている。わたしの心を折るためだ。
負けてたまるか。これはテレジアの仕掛けた罠に違いない。精神をズタズタに切り裂き、自分の味方として取り込もうとする姑息な戦術に違いないんだ――。
同情心の籠った悲痛な声が響いた。
「否定したくなる気持ちはよく分かります。しかし、今貴女がたが目にしたことは技術のなせる領域ではありません」
「嘘よ! わたしはハルキゲニアで――」
「ビクターのことをおっしゃっているのでしょう? わたくしは彼のような意図も、彼に匹敵する技術も持ち合わせていません」
耳鳴りがした。頭の中心で、まるで警告音のように鳴っている。
「ビクターを知ってるってことは、彼の実験のことだって知ってるんでしょ!? なら、それを再現するのも不可能じゃないわ! あなたは――あいつの模倣をしただけよ!」
――違う。
心のなかで、声がする。
――それは違う。テレジアにそんな技術はない、と。
彼女は長く息を吐き、目を閉じた。
「技術があることと、再現が出来るというのは異なります。……貴女のおっしゃる通り、ビクターは独自の技術で人を魔物に変えることに成功しました。とんでもない脅威です。誰にとっても等しく邪悪な存在……だからこそ、ニコルさんは彼の死を望んだのです。そしてメフィストさんによって、願いは達せられました」
どういうことだ。メフィスト――つまり、ヨハンはニコルに頼まれてビクターを殺した?
「ヨハン……どういうこと?」
彼は魔物を睨んだまま、冷静に言い放った。「彼女の言う通りです。私はニコルの依頼を受けて働いていました。邪魔だったのでしょうね、ビクターが」
ああ、そうか。元々ヨハンはニコルの契約で動いていた存在なのだ。彼からビクターの殺害を命じられたのなら、どんな手段を使ってでも完遂するだろう。
レジスタンスの姿が頭に浮かぶ。必死な表情で、ハルキゲニアを取り戻そうとしていた人々。何人もの犠牲を払い、ようやく勝利した彼らの姿は今も心に深く刻まれている。彼らは真っ直ぐに、自分たちの正しさを信じて動いていた。
ヨハンは、その強固で尊い意志でさえ利用したということだろう。善意も、悲劇も、すべて。
ビクターが邪悪な存在だったのは確かだけれど、ヨハンも同じ存在なのではないだろうか。より巧妙に邪道を歩んでいるだけで……。
「お嬢さん。私のことをどう評価しようとかまいません。しかし――今はそこに足を取られるべき状況ではないでしょう?」
ヨハンは静かに言う。
彼のことは信用していないし、先ほどの言葉を聞いてなおさら不信感が強くなったけど――その指摘は正しい。今重要なのは、魔物になった信者のことなのだ。
「……ビクターを脅威だと思っていたことは、あなたが同じ技術を持たない説明にはならない」
テレジアは儚げな微笑を浮かべ、一歩足を踏み出した。
「彼の邪悪な実験の産物と、今わたくしがお見せした自然の変化……どちらも同じに感じますか?」
すう、っと手足が冷えていく。足元がぐらぐらと揺れる。
ビクターの魔の手にかかった子供たちは、魔物の気配を持っていた。それも当然で、身体にグールの血が流れていたからである。けれど、信者は――。
昼間の彼らは徹頭徹尾、なんの気配も持っていなかった。それらしい雰囲気もなければ、邪悪な含みだって、少しもない。
それに、もし彼らが実験の産物なのだとしたら、魔物へと変化するための条件がどうしても必要になる。ビクターは子供の身の内に流れるグールの血液を活性化させるために魔霧装置なる装置を使った。血と装置。そのふたつは必須だったはず。
キュラスにはそれらしい装置もなければ、妙な気配も存在しなかった。彼らが魔物の姿へ変わった今、ようやく気配を感じられるようになったのである。
しかし……否定することは不可能ではない。わたしの知らない技術なんて山ほどあるに違いないのだから。
「もし……すべての魔物が人だったのなら、どうして朝になったら蒸発するのよ……」
「帰る身体がないからこそ、空気中に散るほかないのでしょうね。科学的な根拠は、わたくしも持ってはおりません」
「ならここにいる人たちは――」
「帰る身体を持っている、稀有な人々です。昼は人間。夜は魔物……。自分の住む街を滅ぼした者もおります。ただ、キュラスに住む全員が魔物に変わるわけではありません」
言って、テレジアはマドレーヌとモニカへ視線を向けた。彼女たちは、人間のままだ。
異様なのは、ふたりの態度である。この状況を目にしてなお、口元をきつく結んで黙っていた。
多分このことは、テレジアがキュラスに戻ってから知らされたのだろう。そして、受け入れたのだ。彼女の言葉を。信者の姿を。
――いや、待て。
「ここにいるのは、元々キュラスにいた信者じゃないの? だとしたら、旅に出てはじめて魔物と人の関係性を知ったなんて成立しないわ!」
矛盾だ。すると、やはりテレジアはわたしを揺さぶるためにこんな馬鹿げたものを――。
「ご存知ないでしょうね、きっと」テレジアは胸に手を当て、ゆっくりと言葉を紡いだ。「わたくしが戻る前夜……この街は滅ぼされたのです」
◆改稿
・2018/09/13 表記揺れ修正。
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『メフィスト』→ニコルおよび魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『魔霧装置』→魔力を分解し空気中に噴射させる装置。この霧のなかでは、魔物も日中の活動が出来る。また、グールの血を射ち込まれた子供を魔物にするためのトリガーとしても使用される。ビクターの発明した魔道具。詳しくは『146.「魔霧装置」』にて
・『ギボン』→別名『魔猿』。毛むくじゃらの姿をした人型魔物。森に出現する。詳しくは『294.「魔猿の王様」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷




