329.「フロントライン」
教会の扉を開けると、すでに数人の信徒が長椅子に腰かけていた。その誰もが祭壇の偶像を見つめて真っ直ぐに背を伸ばしている。健康的な朝の空気と、ステンドグラス越しに注ぐおだやかな陽光。音を吸い取ってしまったかのような静寂が満ちている。
足が止まってしまったわたしにかまうことなく、マドレーヌが広間の横の扉へと歩いて行った。すぐにあとを追おうと思ったのだが、どうしてかこの空間から目が離せない。もし静寂が音楽だとしたら、それは今、荘厳に鳴り響いている。
信徒のなかには手を組み合わせている者もいた。老人から若者まで、年代の隔たりなく石膏像を見つめている。その姿はあまりに敬虔で、少しの穢れも存在しないように思えた。懺悔、という言葉が似合わないほどに。
どくどくと、心臓が鼓動を早める。どうしてこんな追い立てられる気持ちになるのだろう。
ふと、疑問が心を貫いた。
テレジアがニコルと――つまり、魔王と手を組んで人類を脅かす計画を練っていると知ったら、信徒はどう感じるだろう。なにを選び取り、どう動くのだろう。この、あまりに純粋な祈りの姿は消え去ってしまうのだろうか。それとも、悪と知ってなお妄信をやめられずに苦しみ続けるのだろうか。
そしてわたしは――。
わたしは、彼らの目にどう映るのだろう。
そっと、音を漏らさぬように深呼吸をして扉へと向かった。
昨日の部屋――シンクレールの寝床にテレジアはいなかった。代わりなのかどうか知らないが、先に到着したマドレーヌが彼の寝顔をうっとりと見つめている。わたしが現れてもおかまいなしに。まるで彼は自分のものだとアピールするように。
椅子に腰かけてマドレーヌを見つめていると、なんだかちぐはぐな感じがした。なんとなく過ごしていると彼女が男性であることを忘れてしまうが、こうして眺めていると身体の線だとか顎の力強さに目が行ってしまう。仕草には洗練された女性らしさがあったものの、努力では繕いきれない部分に本来の性が表れてしまっていた。
惜しい、とは思わない。同じように、すごいとも思わない。ただただ、真っ直ぐだと感じた。信徒が偶像を見つめるのと同じくらい、彼女は自分自身に真っ直ぐだ。だからこそわたし相手に本気で張り合っているし、今だってシンクレールを見つめるその表情は優美だった。
「本当に好きなのね」
自分でもびっくりするくらい柔らかい声だった。敵に向けるものとは思えないくらい。
マドレーヌは眉尻を下げ、「ええ、そうよ」と呟いた。彼が起きないように、小さな声で。
それから彼女はわたしの向かいに腰を下ろし、長く息を吐いた。
「そういえば、どうしてシンクレールの名前を知ってたの?」
間を持たせる意味でも、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「彼を運ぶとき会話したのよ。ほんのちょっとだけど」
なるほど。それでシンクレールは自分の名を言ったのか。意識が朦朧としていたから、つい警戒心がゆるんでしまったのだろう。あるいは、直感的に彼女たちが危害を加えないことを知ったのだろうか。いずれにせよ、今のところ悪い方向には転んでいない。
「ありがとう」
自然と、その言葉が漏れ出た。テレジアと敵対するのならマドレーヌも同じく討つべき相手にはなる。けれど、彼女たちがシンクレールを助けてくれたことは一旦信じるべきだ。
マドレーヌはツンと顔を逸らして「感謝してほしくてやったわけじゃないから、別にいいわ」とだけ答えた。
「なら、教義のために助けたの? それとも『教祖』様がそうすべきだと言ったから?」
口にしてから、ハッとした。昨晩、彼女の前で教義のことを言ったことを思い出す。あのときマドレーヌは、わずかではあったが魔術の準備をした。いつでも攻撃出来るように。それはつまり、敵意とみなしてもいいだろう。それくらいデリケートな事柄なのだ。
しかし今回は、そんな気配はなかった。マドレーヌは柔らかく腕を組んでこちらを見つめる。
「どちらもイエスよ。アタシは『教祖』様の言葉を信じるし、その先にある教義だって信じてる。それだけ」
なんてことのないように言いながら、どこまでも重い台詞だった。つまり、テレジアが命じさえすれば彼女はなんだってやるということだろう。それこそ、わたしたちに刃を向けることだって躊躇わないに違いない。
「随分信じてるのね」
「ええ。じゃなきゃキュラスに来ないわよ」
「……元々ここの生まれじゃないの?」
聞くと、マドレーヌは首を横に振った。
「アタシもモニカも、別の村から来たのよ。というか、ここに住んでるほとんどの人がそう。遠くから遥々たどり着くのもいるわ」
移住者で出来た街、ということだろうか。いや、それだとどうも妙だ。
「元々ここに住んでいた人たちは、どこに?」
マドレーヌの目付きがやや厳しくなったことに気が付いた。さすがに踏み込みすぎたか。気まずい沈黙が続き、やがて彼女は警戒心を失わないまま口を開いた。
「キュラスで生まれて、今でもここに住む人もいるわ。ただ、移住者の絶対数が違うのよ。なんでなのか分からないの?」
逆に問われるとは思っていなかった。「ええと」と言葉を濁しつつ、思考をめぐらす。教義に惹かれてここを目指して来た……というのはあまりに突飛だろうか。
痺れを切らしたのか、マドレーヌは人さし指を立てた。
「ここ数年で、どれだけの町や村が消えたと思う?」
「あ……」
失念していたことが、閃光のように頭をよぎる。彼女の口にした断片的なヒントは、答えを示すに余りあった。
多くの町や村が、魔物によって滅ぼされている。夜間防衛能力を持たない土地はもちろんのこと、自警団を揃えていても強力な魔物が出現すれば壊滅は免れない。
教会内で祈りを捧げていた人々を思い出した。その表情はあまりに真剣で、純粋で――。
彼らはそのほとんどが、大切な故郷を失ってキュラスにたどり着いた人々なのだ。この街の防衛能力を聞き知ってか、あるいは、こんな場所にまで来るしかないほど転々としてきたのか……。
かつてのわたしを含め、王都の人々はキュラスを『フロントライン』と呼んでありがたがっていた。魔王の住む地から訪れる魔物を一手に引き受けてくれる、と。……勝手な話だ。彼らの立場からするとたまったものじゃない。
本当のフロントラインはとっくに蹂躙され、その結果としてここが防衛の最前線として扱われるようになっただけのことだ。
「同情なんてしなくていい。アタシもモニカも……そしてここに住む人みんな、幸せなんだから」
言って、マドレーヌは立ち上がった。シンクレールのそばへ行くのかと思いきや、入り口へと足を向ける。
「懺悔してくるから、アナタはここにいるといいわ。……ひとりきりだと、シンクレールも寂しいだろうから」
わたしが返事をする前に、彼女は去っていった。
マドレーヌの言葉に、強がっているような響きは感じられなかった。ただ事実を淡々と告げているだけ……そんな具合である。
故郷を魔物に滅ぼされ、その結果として流れ着いた頂の街。その土地を牛耳っているのは優美で慈愛に溢れた、それこそ聖母のような『教祖』。そいつが魔王と通じているだなんて、まるで最低の冗談だ。
マドレーヌは、きっとなにも知らないのだろう。テレジアのことも、ニコルの思惑も。だからこそあんなにも真っ直ぐでいられるのだ。
深く、長い呼吸を繰り返す。意識して、何度も。
迷うな。絶対に、迷うな。テレジアが味方ならなによりだが、そこに過剰な期待を寄せるな。
言い聞かせる言葉は、頭のなかで虚しいこだまを残して消えていった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




