327.「いかに聖人であろうとも」
夜明けになってようやく魔物の気配は消えた。正確には現れたときと逆に、地面に滲み込んでいくように弱まり、いつしか感じられなくなったのである。
異常だ。テレジアは夜間防衛のために教会を出たのではなかったか。朝になって自然消滅するまで、魔物の気配が少しも衰えないなんて……。
「どうしたんです? 恐い顔をして」
ヨハンは伸びをして、眠たげなあくびを繰り返した。
「悪かったわね、恐い顔で」
「いえ、馬鹿にしてるわけではなく」
「……おかしなことが起きてたのよ」
「おかしなこととは?」
彼は目をごしごしと擦り、集中力の欠けた顔で宙を見上げた。緊張感なんて欠片もない。ここがどこだか理解しているのだろうか。
「夜に、魔物が少しも減らなかったのよ。朝になってようやく気配が消えたわ。自然に蒸発したのね、きっと」
「逃げ回ってたんでしょうか、一晩中」
「なんのために外に出たのよ。そんなことをするくらいなら教会にいればいいじゃない」
言いながら、キュラスで見かけた家屋を思い出す。確か、ほとんどが廃屋だった。魔物の襲撃に耐えられるような建物なんて、例の施設くらいしか考えつかない。どこかにとどまって魔物を引き寄せるという目的なら、施設に籠るのが妥当だ。しかし、昨日のテレジアの口ぶりだと外に出ているみたいだし……。
さっぱり理由が分からない。やはり、直接目にするしか確認手段はなさそうだ。
「まあ、私たちには考えつかないような理由があるのでしょうなぁ、きっと」
当然だ。理由もなく外に出るなんて、あまりに危険すぎる。
あるいは――と考えて、自然と拳を握っていた。あるいは『毒食の魔女』と同じく箱型の防御魔術で自身を守り、魔物を引き寄せたのではないか。
それなら筋が通る。魔物誘引の魔術と防御魔術を併用するくらいなら、『毒食の魔女』でなくとも出来る。ただ、大量の魔物が相手となると話は別だ。
それに……これはわたしの感覚の問題かもしれないけど、どうも魔物は一箇所に集中しているようには感じなかった。それぞれが満遍なく散っていたのである。自由に闊歩するかのごとく。
キュラスは夜間防衛に秀でた街だと聞いていたのだが、どうも妙である。これでは防衛ではなく、好き放題暴れさせているみたいじゃないか。
ああでもないこうでもないと首を傾げて悩んでいると、「うぅん」と眠たげな声が聴こえた。ヨハンのものではない。
思わず立ち上がり、シンクレールを見おろす。彼の瞼が、薄く開いた。
「クロエ……おはよう」
とろとろと、まどろみに手を引かれつつ出した声。そんな具合だった。
「良かった……」
ほとんど無意識に膝が崩れ、ベッドの端に顔を埋める。泣き顔なんて、誰にも見せたくない。
生きてるのは分かっていたけど、こうして再び目を覚まし、声を出したことでようやく安心出来たのだ。テレジアがいくら説明しようとも、信じられるわけがない。
「クロエ……?」
シンクレールの不安そうな声がする。本当なら笑顔を交わしたいけど、今は泣き声を抑えるので精一杯だ。
「嬉しくてたまらないんですよ、お嬢さんは。なにせ、随分と心配していましたから。今はそっとしておきましょう」
ヨハンの声の直後、シンクレールが息を呑む音が小さく、けれどはっきりと聴こえた。寝起きでヨハンの骸骨じみた不健康な顔を目にすると誰だってぎょっとする。
「なんだ……お前もいたのか」とシンクレール。ヨハンへの敵対心は寝起きの頭にも刷り込まれているようだ。
「なんだ、とは随分な台詞ですなぁ。……助けに来たんですよ、お嬢さんと一緒に」
「……クロエだけでいいのに」
「こんな危険な場所にお嬢さんひとりで乗り込めと?」
「ちがっ、そういうわけじゃない」
「なら、どういうわけなんですぅ?」
「……どういうわけでもない」
呼吸を整え、俯きがちに目を擦る。彼が起きたのはとてつもなく嬉しいことだけれど、いつまでもこの感情に浸っているわけにはいかない。
立ち上がると、まだ眠そうなシンクレールの目がわたしを捉えた。
「おはよう、シンクレール。一日半ぶりね」
わたしは上手く笑えただろうか。あまり自信がない。けれど、シンクレールのおだやかな表情は笑顔の報酬のように思えた。
「おはよう……長いこと騎士団の夢を――」
言いかけて、シンクレールは口を閉ざした。自覚的な仕草である。
自分がもう騎士団ではないこと。そして、わたしたちが彼らに追われるべき立場であること。それに思い至ったのだろう。
わたしはもちろんだが、シンクレールはもっと苦しい立場だろう。けれど、慰め合うべきではない。傷を舐め合っている状態じゃ、決して先に進むことは出来ないのだから。
「寝起きのところ悪いんだけど、シンクレール。わたしたちと別れてからのことを話してくれないかしら? ……テレジアが来る前に」
シンクレールの語った内容と、テレジアの説明した顛末。大筋はどちらも同じだった。シンクレールはもっと細かい部分まで――たとえば、高山蜂に襲われてから、マドレーヌに背負われて教会まで運ばれたことだとか――話したけど、それもテレジアの言葉を補強する意味しか持たない。つまり彼女は、決して偽りのない説明をしたことになる。
「多分テレジアは……正真正銘、聖女なんだよ」
シンクレールはまったく疑いなく言ってのける。彼としてはそう感じるだろう。当然だ。命を救ってもらった相手と言っても間違いはないのだから。
「本物の悪党は良い人の振りをするものよ」
言って、ちらりとヨハンを見る。瞬時に目を逸らした彼がなんとも憎たらしい。彼は彼なりのやりかたで善人を装い、心に入り込み、疑いや不信感を徐々に消していったのだ。
それに、ニコルだって同じだ。相変わらず幼馴染の素振りで近寄り、こっちの感情を利用したのである。
彼らと比較してテレジアが例外だとは言えない。
「聖人じゃないとしたら、どうして僕を……?」
シンクレールは重たげなまばたきを繰り返しつつ、首を傾げた。まだ本調子ではないのだろう。
「それは分からないわ。なにか裏があるのかもしれないし、本当に善意から助けたのかもしれない。……大事なのはテレジアが善人かどうかじゃなくて、敵かどうかよ。どんなに善い人でも、敵なら倒さなきゃならない……」
シンクレールは眠気に耐えきれなくなったのか、瞼を閉じた。
「それは……あまり考えたくないな」
本心からの言葉に違いない。どこまでも無防備な口調だ。
人の善意や優しさに寄り添う生きかたをしてきたのだ、彼は。それまでの自分を簡単に捨て去ってしまえるほど器用ではない。それは、わたしも同じだ。
「ごめん、クロエ……ちょっと意識が……」
「いいの。こっちこそ、無理して喋らせてごめん。……おやすみなさい」
やがてシンクレールはすうすうと寝息を立てはじめた。毛布に覆われた胸が規則的に上下する。まだまだ回復にはほど遠い、ということか。高山蜂の毒は命を奪うほどではないと知っていたが、囲まれて刺されるとさすがに危険である。一命をとりとめたとはいえ、決して油断出来る状況ではない。
遠くでドアの閉まる音がした。ちょうど教会の入り口から響いた具合である。
三人分の足音がした。小さく弾む歩調と、謹厳な足運び。そして、ゆったりと落ち着いた靴音。モニカとマドレーヌ、そしてテレジアだろう。
控えめなノックの直後、三人が姿を現した。
「おはようございます。お二人とも、平気でしたか? ベッドをご用意出来なくてすみません。今晩はゆっくり休めるよう、部屋を整えますから」
テレジアは善意だけで積み上げられたような声で言う。後ろめたいことなど、なにひとつないかのように。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『高山蜂』→標高の高い地域に生息する蜂。針には毒がある。崖に巣を作る。巣は甘く、食料として高値で取引されている。詳しくは『300.「幸せな甘さ」』『303.「夜の山道」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。




